第四十六章 宿願への布石
人気のない廊下をしばし進んだのち、龍守は足を止めて皇女の侍女たちを振り返った。
「さて。俺はこれから葛城乙彦の首を獲りに行くから、お前たちは南陽皇子──今は皇帝か──のもとへ行け」
「……何よその、『ちょっと散歩してくるわ〜』みたいなノリ。──って言うか、あんたひとりで大丈夫なの?」
呆れつつも心配そうな眼差しを向ける菊理に対し、龍守は肩を竦める。
「何とかなるだろう。倶知比古があれだけ派手にやったおかげで大半の兵は出払っているようだし、葛城乙彦の護衛も豺牙以外は者の数ではない。──とは言え、まだどこかに兵を潜ませている可能性もあるからな。無理だと判断したら即座に撤退する」
「ならいいけど……くれぐれも無茶なことしないでよ」
「前科がありすぎるので心配ですね」
菊理と明瑠は、おのおの疑わしそうに龍守を見やった。
「……なぜ俺の周りの者たちは、揃いも揃って同じようなことを言い出すのだ」
怪訝そうに形良い眉を寄せる龍守に対し、菊理はまたしても人差し指を突きつける。
「それはあんたが馬鹿なことばっかりやるからでしょ!」
「自覚がないなら非常に問題ですね」
「解せんな。結果的にほぼ上手くいっているのだから良いだろう」
「うわぁ、思考が脳筋すぎる……。上司がこんなんじゃ、部下は苦労するわ……」
「このままでは本当に、鷹比古殿は白髪どころか禿げるやもしれませんね……」
「鷹比古か……。ああ、そうかもしれんな」
ふっと意味ありげに笑ったのち、龍守はすらりと剣を抜いた。
「さあ、ではここで一旦解散だ。そちらも健闘を祈る。……ただし織瀬姫のためにも、命を粗末にするなよ」
そう冗談めいた口調で投げかけると、龍守は宮城の深奥目指して駆けて行った。
*
豺牙に捕らわれた織瀬は、ただひたすらに荒野を北上していた。今世でも前世でも、帝都からこれほど離れたことはなかった。前方には、聳え立つ山脈の姿が見え始めている。
(あれはまさか、国境の山? ──とすると、向かっているのは隣国……)
それは騎馬民族たちが治める、織瀬にとって未知の領域だ。
(そういえば豺牙将軍の容姿は、騎馬民族たちの特徴を備えている。まだお父様が健在だったとき、拝謁を求めてきた隣国の使者も、このように頑健そうな身体つきをしていたわ)
織瀬は声の震えを悟られぬよう、あえてゆっくりと口を開く。
「……豺牙将軍、貴方はもしや隣国の──北楼国の出身なのですか」
「そうだ」
織瀬に問いかけられた豺牙は、嬉しそうに両の口角を引き上げた。
「昔……十八年前か。この辺りで大きな戦があった。橘花国の公爵家のひとつを、葛城公爵が潰したのだと聞いた」
それは葛城乙彦が頭角を現すきっかけとなった、いわゆる宗我家の乱のことだろう。
「──その時北楼国から、たくさんの男たちが徴兵された。俺はまだ子どもだったから兵たちの世話係として連れて来られたが……。そこで葛城公爵が俺を気に入り、豺牙という名を付けた」
「……葛城公爵が貴方の名を?」
「そうだ。俺は親の顔も知らない。自分の名さえ知らない。葛城公爵が俺を拾わなければ、俺はどこかで野垂れ死ぬか野盗にでもなるしかなかっただろう。だから葛城公爵には感謝している」
腰元を押さえる腕の力が、心なしか強くなった。織瀬は込み上げる嫌悪を必死で押さえ込みながら、努めて冷静に頭を働かせようとする。
(捕まったら遅かれ早かれ殺されるか、辱めを受けるものとばかり思っていた。葛城公爵の今までの言動を鑑みると、どちらにせよ自分の目の前で私が苦しむ様を見たがるに違いない。でもそうだとすると、豺牙将軍はなぜ私を隣国に……)
織瀬には豺牙の行動の意図が理解出来なかった。
「……では、なぜ隣国に向かっているのです。葛城公爵が私を捕えるよう命じたのでしょう?」
織瀬の疑問に、豺牙は浮かれたような笑い声を上げる。
「ははっ……。葛城公爵には、お前を桜華へ──葛城公爵の前に連れて来いと言われていたが……。だが、それももうどうでも良い。葛城公爵は俺のことが不要のようだから。それに俺は欲しいものを見つけたのだ。──翠蓮皇女、お前を」
そう耳元で囁かれ、織瀬は思わず総毛立った。
「……私を? なぜ貴方は私を欲するのですか。私は皇位継承権も、皇宮での権力も持たぬ身です。手中に収めたところで貴方に何の益も──」
「そんなものは要らない。俺はただお前が欲しいのだ、翠蓮皇女」
「……」
豺牙の返答は、織瀬を混乱させるばかりだった。考えても理解出来ぬものほど、恐ろしいものはない。
「……豺牙将軍、貴方は──」
もはや抑えることもままならない恐怖とともに、織瀬が口を開いた時、
「──なぜこのような所にいるのですか。初めにお伝えした場所とは、方角すら違うようですが」
どこか聞き覚えのある声が聞こえてきて、織瀬はびくりと肩を震わせた。前方に佇む人影に僅かに眼を見張った瞬間、口元を布で塞がれる。
「……っ!」
甘い香りにむせ返った途端、視界がぐらりと揺らいだ。落馬しかけた織瀬の身体を支えながら、豺牙が叫ぶ。
「おい、お前! 翠蓮皇女に何をする!」
「少々眠っていただくだけです。そちらこそ、勝手な行動はお控えくださいと再三申し上げたはずですが」
「翠蓮皇女は俺の物にして良いという約束だったろう!」
「それは事が全て為った後の話です。……とにかく、早く元々の合流場所に向かいましょう」
激昂する豺牙と、それをいなす者との会話を聴きながら、織瀬の脳裏に前世の記憶がよぎる。それは安比路保に襲われかけたところを龍守に救われ、そのまま桜華へと護送される馬車での記憶──。
(なぜ今あの時のことを……ああ、そうだわ)
口元に当てられた布から香るのは、あの馬車のなかに染みついていた香りと同じものだ。そして今思えばそれは、紅蘭に嗅がされた毒の香りとも酷似している。
(もっとも紅蘭に飲まされた毒は、これよりももっと濃い香りがしていたけれど……もし、これがあの時と同じ毒ならば……)
織瀬はひとつの可能性に思いが至った。
「ああ、そういう事……だったのですね……」
徐々に霞んでいく意識のなかで、織瀬はそっと懐に手を当てた。そこにはあの前世の記録、『白蓮国記』が収められている。
(それならば……龍守殿が葛城公爵に勝ち、私を助けに来ず、橘花国の安定を優先してくれるならば……全てが、上手くいく……)
前方に佇む人影は、ただ静かに織瀬を見つめていた。その瞳に滲む感情が、哀れみなのか蔑みなのか、それともまた別の何かなのか──織瀬には判断がつかなかったが、
(これが全てあの人の企みであったとしても……私の選択は誤りではなかった。例えこの身がどうなろうとも、橘花国を救うことができるならそれで良い……)
そう確信した織瀬は、微笑みすら浮かべながら暗闇のなかへと身を委ねた。




