第四十五章 追跡
ただ乾いた風が吹き荒ぶ音のみが、荒野に響き渡る。
「……っ、くそっ……」
地面に拳を打ちつけて、隼人がうめいた。
豺牙に続き、その部下たちもすでに姿を消している。
鷹比古は静かに瞑目し、感覚を研ぎ澄ました。周囲に不審な音も殺気も感じられない。伏兵が残っていないことを確信した鷹比古は、馬の鞍に足をかけつつ隼人へと視線を向けた。
「──隼人殿。貴殿は桜華へ戻り、龍守様にこの場での顛末をお伝えください。私はこのまま無事な配下とともに、皇女殿下と豺牙将軍を追います」
手綱を握りしめる鷹比古を、隼人が慌てて遮る。
「おい、ちょっと待てよ。鷹比古も怪我してんだろ。姫さんなら俺が追うから、お前が龍守のとこへ行け!」
「……豺牙将軍は強すぎる。正面から戦って皇女殿下を奪い返すことは不可能です。ここは貴殿よりも、忍びである私のほうが適任かと」
鷹比古は普段通り有無を言わせぬ口調でそう言うと、馬首を豺牙たちが去った方角へと向けた。
そして普段とは異なる焦った様子で、
「事は一刻を争うのです。──お前たち、私とともに皇女殿下を追うぞ! 隼人殿、頼みましたぞ!」
勢いよく手綱を叩き、部下たちを引き連れて駆け出した。
「おい、鷹比古! ……ああもう、どいつもこいつも勝手に動きやがって!」
砂煙のなかに消えていく鷹比古の背を見つめながら、隼人は拳を震わせた。
「くそっ……腕に力が入りゃしねぇ……。何なんだあの豺牙って奴、化け物か?」
豺牙の重い一撃を何度も受けたためか、利き腕は震え、刀を握ることさえ難しそうだった。鷹比古はそんな隼人の状況を察し、あえて豺牙を追う役を買って出たに違いない。
「畜生、姫さんを守れなかった……。龍守に約束したのに、俺は……」
己の弱さが歯痒くてならなかったが、今は鷹比古の言う通り一刻を争う状況だ。無様に嘆いている暇などない。
隼人は節々に痛みが残る身体を無理やりに引き立たせると、一頭だけ残された馬の背に飛び乗った。
「……頼むから無事でいてくれよ、姫さん。必ず龍守と一緒に助けに行くからな」
ぎりっと奥歯を噛み締めながら、鳶色の瞳で織瀬たちが去った方角を睨みつける。
『決して、私を追おうなどとしないでください』──織瀬から龍守への伝言を忘れたわけではなかったが、
(姫さんはああ言ったが……龍守が姫さんを見捨てるなんてありえねぇだろ! さっさと龍守に知らせて軍のひとつも出さねぇと!)
隼人が知る龍守は、大切なものを奪われて黙っているような男ではない。親友が己と同じ判断をすることを露ほども疑わず、隼人は桜華へ向けて馬を駆った。
*
黴の臭いが漂う部屋の中で、床板がかたかたと動いた。
「……良し、誰もおらぬな。まずは侵入成功だ」
ゆっくりとずらされた床板の下から、金髪の男が顔を覗かせた。薄暗い部屋のなかで、その髪だけが眩い輝きを放っている。
「ほら、お前たちも早く上がって来い」
「分かってるわよ。……っていうか何よここ。じめじめしてて気持ち悪ぅ……」
「織瀬姫の絵図によれば、確か牢だか拷問部屋だかがあった場所ではないか? 空気も澱んでいるし、いかにも怨念が籠っていそうだな」
「だから何であんたはいちいちそーいうこと言うのよ! 怖いからやめてくれない!?」
「菊理、声が大きい! 気づかれたらどうする!」
明瑠が慌てて菊理の口を塞ぐ。
「那岐山侯爵! 菊理はこう見えて怖がりなのだ。揶揄うのはお控えください!」
「そうか。それは悪いことをした」
龍守は可笑しそうに肩を揺らす。
「しかし、その調子でよく忍だの後宮の侍女だのやれているな。後宮こそ色々と怪談話に事欠かないと、昔祖父から聞いたが。例えば中庭の井戸の──」
「あーあー聞こえない!」
注意深く部屋の扉を開け、廊下の様子を窺いつつも、龍守は菊理を揶揄うことをやめない。この状況を楽しんですらいるように見える龍守に、明瑠は嘆息せざるをえなかった。
(那岐山侯爵は見た目からして目立つのもあるが、なにより性格的に隠密行動は無理なのだろうな……。敵に気づかれてはいけないという意識が、全く感じられない)
おそらく見つかったら見つかったで、敵を全て倒せば問題ないとでも考えているに違いない。出陣前に読んでいた兵法書は何だったのだ、と胸倉を掴んで問いただしたい欲求を、明瑠は理性で抑え込んだ。
(黙っていれば思慮深そうに見えるし、やろうと思えば巧妙な策も張れるのだろうが……。なぜあえて無謀な行動をとるのだ、この男は)
一周回って気が合いつつあるような菊理と違い、明瑠はまだこの那岐山龍守という男が信ずるに値するかどうか判断しかねている。
(姫様の前世の話を忘れてはいけない。人の本質というものは、そう易々と変わるものではないのだから)
なによりも大切な主人を守るためにも、簡単に絆されてはいけない。少なくとも明瑠か菊理のどちらかは、常に批判的な眼差しを持っていなければならないのだ。
(だけどどうか、今のこの姿が那岐山侯爵の本質であってほしい。姫様が悲しむ姿だけは見たくはない……)
明瑠はそっと目を伏せる。
「──見張りはいないが、念の為いつでも戦えるよう備えておけ。先を急ぐぞ」
菊理を揶揄っていた時とは打って変わり、怜悧な眼差しで剣の柄に手をかける龍守を見つめながら、明瑠はぐっと拳を握り締めた。




