第四十四章 最良の選択
織瀬を見つめる豺牙の昏い瞳は、異様な輝きを放っていた。
(豺牙将軍……。葛城公爵の命で私を狙ってきたのだろうけれど……)
織瀬はそっと豺牙の様子を観察する。
(それにしては、何か違和感がある……)
その違和感が何に起因するのかは分からない。しかし豺牙の言動からは、単に敵の弱みである皇女を見つけたというだけではない、もっと別の目的があるように感じられた。
「姫さん、俺たちの後ろに下がってろ」
「……厄介ですな。何処にこれほどの兵を隠していたのか」
織瀬を守るように進み出た隼人や鷹比古の背中に遮られて、織瀬の眼から豺牙の姿はほとんど認識できなくなった。だがそれにも関わらず、豺牙の視線はまるで全身に絡みつくように感じられ、織瀬は言いしれぬ恐怖と不快感に襲われる。
(この感覚……前にも覚えがあるわ。あの宴の時の葛城公爵や、前世で私を組み伏せた時の路保殿の眼と同じ……)
その時に感じたものは、単に命の危険に晒されることとは別種の恐ろしさだった。理解できない欲望の対象として自身が見られていることに、嫌悪すら覚える。
(……駄目、震えてはいけない。しっかりしなさい、私は皇女なのだから)
そう己を叱咤するものの、つま先から這い上がってくる震えを抑えることは難しい。
「大丈夫だ、姫さん。龍守から頼まれてるからな。姫さんのことは必ず守る」
織瀬の異変に気付いたのか、ちらりと振り返った隼人が安心させるように口角を上げた。
「そこのお前たち、五人ばかりで皇女殿下の周りを固めよ」
鷹比古の指示に、那岐山家の兵たちが隙間なく織瀬の周囲を取り巻いた。そして鷹比古は、その薄い刃のような眼差しを前方の敵兵たちに巡らせる。
「相手は……三十ほどですな。こちらは我らを含め十名。──雑兵は私と兵たちで片付けますので、豺牙将軍は貴殿にお任せしてよろしいか、隼人殿」
「おうよ」
鷹比古は苦無を、隼人は刀を構えながら頷き合う。
「──ったく、こんなことなら槍でも持って来るんだったぜ。馬上で刀は扱いづれぇんだよな」
「槍は嵩張るゆえ仕方ありませんな。……私の暗器をお貸ししましょうか?」
「遠慮しとくわ。どうせ俺には向いてねぇし。……それにしても、全速力で走って来たのに待ち伏せされるとはな。こりゃ後で鼠探しもやんなきゃじゃねぇか、鷹比古」
「……それについては後ほど話しましょう。──来ますぞ」
鷹比古の言葉を合図にしたかのように、敵兵が一斉に織瀬たちに向かって殺到してきた。
「翠蓮皇女以外は皆殺しだ! 覚悟せよ!」
隊長格と見られる兵士が、絶叫とともに鷹比古を狙って槍を突き出す。
「……出来るものならやってみよ」
冷ややかな声とともに投擲された苦無が、兵士の首元に深々と突き刺さった。槍を握りしめたまま、骸となったその身体は馬上から崩れ落ちる。
続いて襲いかかって来た敵兵たちも、鷹比古の手から音もなく放たれた暗器に貫かれ、そこからかろうじて逃れた者たちも那岐山家の兵たちの手で次々と斬り伏せられていった。
「……涼しい顔して相変わらず容赦ねぇな、鷹比古。もう敵さん半分くらいになっちまったじゃねぇか」
「隼人殿、貴殿も仕事をなさってください!」
複数の敵に囲まれながらも、鷹比古は隼人に咎めるような一瞥を投げる。それにひとつ肩を竦めると、
「分かってるって。……じゃあ俺もやるかね」
にやりと笑い、隼人は身を翻した。鳶色の瞳に映るのは、馬上で部下たちの戦いを見下ろす豺牙である。隼人は馬を叱咤し、豺牙へ向かって突進した。
「……おい、随分と余裕だな。味方はだいぶ減っちまったぜ?」
軽口を叩きながら、隼人は豺牙の首筋目がけて刃を振り下ろす。豺牙は手綱を引くと、その攻撃を紙一重のところで避けた。
豺牙は隼人から距離を取ると、獲物を狙い定めるように昏い瞳を細める。
「……お前、覚えがある。那岐山龍守との一騎打ちを邪魔した奴だな」
「ああ? 俺は邪魔してねぇよ。邪魔したのはむしろそっちの弓兵じゃねぇか。……毒矢なんて汚ねぇ手使いやがって」
「……毒だと?」
「惚けんなよ。おかげでこっちは大変だったんだから、なぁ!」
裂帛の気合いとともに、再び隼人は豺牙に襲いかかった。しかしそれは抜き放たれた豺牙の刀によって、あっさりと阻まれる。
(……速い)
隼人と豺牙の戦いを見守りながら、織瀬は息を呑んだ。
(今、豺牙将軍が刀を抜くところが見えなかった。以前見た龍守殿の刀捌きも速かったけれど、豺牙将軍はそれ以上に……)
乾いた風が吹き抜けるなか、大地を蹴る馬蹄の音と、金属同士がぶつかる鋭い音が響き渡る。
(……隼人殿は強い。本来ならば近衛軍で将軍位を得ていてもおかしくないほどに。だけど豺牙将軍は余りにも……)
幾度も攻撃を試みるものの、隼人の刃は豺牙の髪の一筋にすら届いていない。初めの余裕に満ちた笑みはとうに消え去り、額から脂汗を散らす隼人に対し、豺牙は息ひとつ乱してはいなかった。
「……これは、いけませんな……」
荒い息遣いとともに背後で苦しげな声が聞こえて、織瀬は弾かれたようにそちらに眼を向ける。
乱戦のなかから抜け出した鷹比古が、織瀬の傍に並んだ。ふと見ればその腕から鮮血が滴っており、織瀬は眼を見張る。
「鷹比古殿、その怪我は……!」
「傷は浅いゆえ、ご心配には及びませぬ。……しかし隼人殿がこれほど押されるとは予想外ですな」
傷口を押さえながら、鷹比古は眉間に深い皺を刻んだ。織瀬の胸中で、不安が雷雲のように立ち込めていく。
「……豺牙将軍は、あの緒戦の時に龍守殿と戦ったのですよね? その時はほぼ互角だったと伺いましたが……」
「ええ、むしろ龍守様が僅かに優勢だったほどです。……ですが今の豺牙将軍の強さは、あの時とは比較に──」
「……っ、隼人殿!」
織瀬は思わず叫び声をあげた。豺牙の攻撃を受けた隼人が、馬の背から叩き落とされたのだ。
「……っ、くそ……龍守並のスピードに馬鹿力とか、反則だろ……」
そう毒づきながらも立ち上がろうとする隼人に、白刃が突きつけられた。
「……弱すぎるな。こんな奴しか配下に居らぬとは、那岐山龍守も程度が知れる」
「ああ? テメェ、今なんつった……」
「隼人殿! ご無理をなさるな!」
足元をふらつかせる隼人のもとに鷹比古が駆け寄ろうとしたが、
「豺牙将軍の邪魔はさせぬ」
どこからともなく現れた兵たちに、再び周囲を囲まれてしまった。
「……不覚だな。まだ伏兵を残していたのか」
鷹比古は応戦しようとするも、負傷した状態では分が悪すぎた。
鷹比古とともに戦っていた兵たちもそれぞれ深手を負っており、今この場で無傷な者は織瀬とその周りを守っていた五人の兵だけだ。そしてその無事な兵たちも、苦戦する隼人と鷹比古の姿を目の当たりにして、すっかり戦意を失っている様子が見てとれた。
(そんな……隼人殿と鷹比古殿がいるのに、こんなにもあっけなく……)
絶望を押し込めるように両手で口元を覆った織瀬に、昏い眼差しが向けられる。
「翠蓮皇女……那岐山龍守に攫われて、さぞや辛い思いをしただろう。もう大丈夫だ、俺が救い出してやるからな」
「……救う? 何を……貴方は何を言っているのですか……」
ぞわりと背筋を悪寒が走り抜ける。豺牙の眼は、まるで強い酒に酔った者のそれだった。酩酊した視界のなかでは、全てのものが歪み己に都合良く映っているに違いない。
そして豺牙は、織瀬から地面に膝を付く隼人と鷹比古へと視線を巡らせる。
「この二人が奴の腹心か。まずはこいつらから──」
「……っ、やめなさい!」
織瀬は味方の兵たちの壁をかき分け、豺牙の前に飛び出した。全身を覆う恐怖を悟られまいと、努めて凛とした眼差しを豺牙に向ける。
「隼人殿たちを傷つけることは許しません。……貴方の目的は私なのでしょう? ならば私だけを連れて行きなさい」
「なっ……何言ってんだ姫さん!」
「なりません、皇女殿下!」
隼人と鷹比古の叫びを聞き、織瀬は僅かに背後を振り返る。自分でも驚いたことに、つい先ほどまで感じていた恐れが、徐々に薄らいでいくような心地がした。
(ああ、そうか。私が蘇ったのは、きっとこの為だったのね……)
不意にそんな確信を得て、織瀬は自然と唇に微笑みを浮かべた。己の命の使い道を悟った今、恐れるべきことなど何もない。
「隼人殿、鷹比古殿。貴方がたは、龍守殿に──未来の橘花国を導く者に必要な人材です。このようなところで命を散らしてはなりません」
織瀬の唇に湛えられた凪いだ微笑に僅かに目を見張ったのち、隼人が大声を上げた。
「馬鹿言ってんじゃねぇ! あんただって龍守に必要な──」
「龍守殿にお伝えください」
清冽な湧水を思わせる声音が、隼人の叫びを断ち切る。
「──龍守殿、私は貴方の才と志を信じています。どうかこの国を、あるべき姿に導いてください」
そして織瀬は、しっかりした足取りで豺牙へ向かって歩き出した。
「翠蓮皇女、ようやく……ようやく俺のもとに来てくれたか」
陶然とした豺牙の眼を、織瀬は冷ややかに見つめ返す。
「取引をいたしましょう、豺牙将軍」
「……取引、だと?」
豺牙は不思議そうに呟いた。
「はい。……私の身柄は貴方の好きにしてくださって構いません。その代わり約束してください。──隼人殿と鷹比古殿を含め、この場にいるすべての那岐山家の兵たちに一際手出しをしないこと。このことを貴方の名において、部下たちにも徹底させること。──よろしいですね?」
「分かった。……お前たち、翠蓮皇女の言う通りにしろ」
意外なほどあっさりと、豺牙は頷いた。
「翠蓮皇女……。お前さえ手に入れば、他の者たちに用はない」
「……っ……」
豺牙は織瀬の二の腕を掴むと、荒々しく馬上に引き上げた。加減を知らぬ豺牙の手つきに、織瀬は唇を噛んで痛みを押し殺す。
そのまま馬首を翻した豺牙の背へ、地から沸き上がるような声が浴びせられた。
「待てよ……。テメェも姫さんも、ふざけんのも大概にしやがれ……」
怒りに声を震わせながら、隼人が立ち上がる。
「……姫さん、あんた何にも分かっちゃいねぇよ。こんなこと龍守が許すと思うのか?」
「隼人殿……」
豺牙に腰元を囚われながら、織瀬はぐっと喉元で感情を抑え込んだ。
「──龍守殿が許すかどうかは問題ではありません。私はこの橘花国の皇女です。国の未来のために、最良の選択をいたします」
「……何だって?」
「念の為、先程の伝言に加えてこちらも龍守殿にお伝えください。──決して、私を追おうなどとしないでください。あの夜の約束を果たせぬことは申し訳ありませんが、どうか橘花国を頼みます──と」
それだけ言うと、織瀬は隼人から顔を逸らした。
「さあ、参りましょう。豺牙将軍」
「ああ」
「おい、勝手なこと言ってんじゃねぇよ! 俺は龍守と約束したんだ、必ず姫さんを守るって! ……くそっ、テメェらそこをどけ!」
行手を阻む敵兵を薙ぎ払う間に、豺牙と織瀬を乗せた馬の姿が、隼人の視界のなかでどんどん小さくなっていく。
「畜生、待ちやがれ豺牙! ……姫さんッ!」
もはや届くことのない絶叫が、荒野に響き渡った。




