第四十二章 遭遇
龍守と別れた織瀬は、隼人と鷹比古、そして数人の兵たちに守られながら、ひたすらに馬を駆っていた。織瀬の視界の端を、高く生い茂った木々が次々と通り過ぎていく。
桜華の周辺はもともと豊かな植生を持っており、かつて都が置かれた理由の一つもそこにある。しかしふと足元を見れば、ひび割れが目立つ大地の上で草花が悄然と首を垂れていた。
ここ最近、桜華では日照りが続いたと聞いている。眼に映る草木の姿はまるで今の橘花国の状況を暗示しているようで、織瀬はたまらない気持ちになった。風が吹き抜けるたびに、乾いた大地のそこここで砂煙が舞う。
時折顔に吹き付ける砂粒を五月蝿そうに払いながら、隼人がぼやいた。
「それにしても龍守の奴。とにかく西に向かえ、なるべく早く桜華から離れろとか、また無茶言いやがって。──姫さん、大丈夫か?」
鳶色の瞳が、隣を駆ける織瀬を心配そうに見やる。
「は……はい。大丈夫……です」
慣れない馬の背で懸命に身体の均衡を保ちながら、織瀬は努めて微笑みを浮かべた。風を切って走る織瀬たちは、例によって商人の一団という設定だ。
「あの、鷹比古殿。龍守殿の指示とはいえ、商人がこんな速さで進んでいては却って怪しまれませんか?」
龍守から与えられた着物から地味な麻の着物に着替えていた織瀬は、艶やかな黒髪を覆う布を押さえながらそう問いかけた。簪を外してしまったので代わりに布で髪をまとめているのだが、この強風の中では生憎それほど役に立ってはいない。
「商人というのはあくまで便宜上ですからな。とにかく敵に捕捉されぬことが第一ですから、多少の不自然さはこの際仕方ありません」
先頭を行く鷹比古が、背後の織瀬をちらりと見やりながらそう応えた。
油断すればすぐに距離が離れてしまう鷹比古の背に必死で追いすがりながら、織瀬は龍守の紅い瞳を想う。
(そういえば龍守殿に宮から連れ出され帝都を脱出する時も、商人一行という設定だったわ。あの時は鷹比古殿が奴隷商人で、私と龍守殿が商品の奴隷で……。まだ数ヶ月しか経っていないのに、遠い昔のことのように感じる)
織瀬はそっと胸元を押さえた。迅速さが重要なこの離脱において持ち出せた物資は僅かだが、織瀬の懐には一冊の書物が収められていた。
(『白蓮国記』──あの陶州攻め以来、幾度か目を通してみたけれど……)
そこに残された記述、そして消えた記述──それらを思い起こし、織瀬は真っ直ぐに前を見つめる。
(勝機は十分ではないとはいえ、龍守殿ならきっと何とかしてくれるはず。私は私のやるべきことをやらなければ)
織瀬の胸には、ひそかな決意が芽生えていた。
「……姫さんさ、最初に会った時となんか印象変わったよなぁ」
「え?」
しみじみとした声音に、織瀬は不思議そうに首を傾げた。隣で隼人が、僅かに目を細めながら口を開く。
「いや、ずっと一生懸命頑張ってんのは変わんねぇけど……。何て言うのかな、最初はこう俺たちに対して壁があったっつーか……ぶっちゃけ姫さん、龍守のことあんまり信用してなかっただろ?」
「それは……その、すみません……」
ばつが悪そうに呟く織瀬に対し、隼人は笑う。
「良いんだよ、そんな申し訳なさそうにしなくても。全部あいつが悪役顔で言動がチャラいのが悪りぃんだから。──それはともかく」
隼人は視線を前方に戻すと、速度が落ち始めた馬を叱咤する。
「姫さんがいつの間にか他人行儀じゃなくなって、なんて言うか良かったよ。良く笑うようになったし、年相応に怒ったり泣いたりしてさ」
「龍守殿にも言われました、表情が豊かになったと。……皇族としては、あまり好ましくないのですが」
困ったように笑う織瀬に、隼人はまるで幼い妹を見る兄のような眼差しを向けた。
「そうなのか? ま、俺はそのへんの事情とか良く分かんねぇけど……。ちゃんとした場面でしゃんとできれば、オフの時は好きにしてればいいんじゃね?」
「はあ……」
「特にさ、龍守と話してるときいい顔してるぜ、姫さん」
「え……」
きょとんと目を丸くする織瀬に、隼人の肩が揺れる。
「それこそ笑ったり怒ったり拗ねたり、表情がころころ変わってさ。──龍守もあんたといると楽しそうだ」
「……そうでしょうか? 揶揄われているだけのような気もするのですが」
「あ〜……それは否定しねぇけど。とにかく本当にさ、あんたが来てくれて良かったよ。──俺たちはいくら龍守と付き合い長いとは言え、所詮は家臣だからな。どうしても龍守の後ろを追うことしか出来ない。その点姫さんはさ、龍守の隣で同じものを見ることができる。龍守にとって姫さんみたいな存在は貴重だと思うぜ。──なあ、鷹比古だってそう思うだろ?」
隼人がそう問いかけた時、不意に前方を行く鷹比古の馬足が緩んだ。
「……鷹比古? おいどうしたんだよ、急ぐんだろ」
怪訝そうに駆け寄る隼人に一瞥もくれず、鷹比古はその薄い刃のような眼差しを、行手を遮る砂煙へと向けた。
「──隼人殿。翠蓮皇女殿下の傍にお付きください」
懐から苦無を取り出しながら、鷹比古が告げる。
「前方におります。この気配はおそらく──」
その時一陣の突風が吹き抜け、前方の砂煙をかき消した。そこに現れたのは、数十人の武装した集団と、そして──
「貴方は……」
織瀬の声が震える。覚悟はしていたが、湧き上がってくる恐怖だけはどうしようもなかった。
兵士たちの中央を割るように進み出た男が、昏い洞穴のような眼を織瀬へと向ける。まるで全てを呑み込んでしまうようなその深淵に見つめられ、織瀬の身体から徐々に体温が奪われていく。
「お前……姫さんを狙って来たのか」
鳶色の瞳を眇めながら、隼人が腰の刀を引き抜いた。しかし男は、白刃を向けられても全く意に介すことはない。むしろ昏い瞳に恍惚の光をたたえながら、隼人の背後にいる織瀬を見つめる。
「……ああ、やっと会えたな。翠蓮皇女……」
その男──豺牙は、ようやく見つけた珍しい玩具を愛でるような声音で、織瀬の名を囁いた。




