第四十章 織瀬の確信
あと一日もすれば、織瀬たちは桜華の城門を眼にすることが出来るだろう。夕闇が迫りつつあるなかで、連合軍は何度目かの夜営の準備を始めていた。
織瀬は本陣の天幕の中で、黙々と筆を動かしている。その傍には龍守が座しているのだが、彼は紅い瞳を手元の兵法書に向けたまま、薄い唇を引き結んでいた。一見読書に集中しているように見えるその横顔を、織瀬はそっと窺う。
(……先程から、一頁も進んでいないようだわ)
龍守の意識が書物とは別のものに向けられていることに、織瀬は気づいていた。
「──姫様、只今戻りました」
そこへ二つの風が吹き抜け、どこからともなく現れた侍女たちが織瀬の前で膝をついた。
「おかえりなさい。明瑠、菊理」
ふわりと微笑む織瀬へ、新都の偵察から戻った明瑠と菊理が報告を始める。
「桜華では南陽皇子の即位の礼が行われた模様です。しかしながら官吏たちは住居すらまともに与えられず、また葛城公爵に以前の勢いが感じられぬこともあり、朝堂は政事の体を成していないとのこと」
「今までの戦で、武官たちも相当消耗しているみたいですね。更に今回の無理矢理遷都で民たちを追い立てる役をやらされたせいで、葛城乙彦への不満も溜まってるみたいです」
「……そう。二人ともご苦労様」
織瀬は侍女たちに労いの言葉をかけた。再び龍守の表情を窺うと、彼はいつの間にか書物を閉じ、腕を組み黙考している。
(今の菊理たちの報告を聞いて、何か策を練っているのかしら。それとも……)
思索の邪魔をしてしまうのは憚られたが、龍守の様子は看過できなかった。
織瀬は一瞬の逡巡の後、会話のきっかけを探すように、書き上がったばかりの紙を龍守に差し出す。
「龍守殿、こちらが桜華の宮城の見取り図です。もう少しお時間をいただければ、周辺の地形なども描きますが──」
そう呼びかけても、龍守は微動だにしない。織瀬は不安そうに瞳を揺らしつつ、もう一度その名を呼んだ。
「……龍守殿?」
すると龍守は僅かに紅い瞳を見張ったのち、何事も無かったように織瀬に笑いかけた。
「ああ。助かります、織瀬姫。明瑠と菊理もご苦労だった」
「……龍守殿、どこかお加減でも悪いのですか?」
とってつけたようなその微笑と返答に、織瀬はたまらず問いかける。しかし龍守は微笑みを崩そうとはしない。
「いいえ、そうではありません。今後の策を思案していただけですよ」
そう当たり障りのない言葉を紡いだ龍守は、織瀬の書き上げた図面を片手に立ち上がる。
「俺はこれから鷹比古たちとともに軍議を行います。……この天幕の周りに護衛を残しておきますので、織瀬姫はお休みになっていてください」
表面上は普段通りの顔を織瀬に向けた後、龍守は天幕を出て行った。
「……龍守殿」
織瀬は無意識のうちにその名を呟く。
(やはり龍守殿、どこか様子がおかしいわ。あの荒廃した帝都を目の当たりにしてから、心ここに在らずというか……何かに迷っているような……)
ぎゅっと襟元を握りしめ、織瀬は眉根を寄せた。
(私が尋ねても、本心を明かしてはくれないのね。隼人殿たちには何か話しているのかしら……)
胸の奥を、針でちくりと刺されたような感覚がした。出会ってからまだ数ヶ月しか経っていない織瀬に、龍守が胸の内を明かさずとも当然だ。その事を頭では理解しているのに、織瀬は寂しさを感じてしまう。
黙り込んでしまった織瀬の顔を、侍女たちがおずおずと覗き込んだ。
「……姫様? どうなされたのですか?」
「眉間に皺寄ってますよ、姫様。今度は何を悩んでるんです?」
織瀬は顔を上げ、躊躇いながらも侍女たちに問いかける。
「……明瑠、菊理。ここのところの龍守殿の様子で、何か気づいたことはないかしら。何か思い悩んでいるような感じがするのだけれど」
侍女たちは互いに顔を見合わせたあと、揃って首を捻った。
「……そうでしょうか? 私には普段通りに見えましたが」
「そもそもこの偵察だって『鷹比古の配下が出払っているゆえお前たちが行ってこい』とか、相変わらず偉そうな感じでしたよ。姫様がお願いって言うから行って来たけど……あたしらはお前の部下じゃないんだっつーの!」
「そう……」
織瀬は龍守が出て行った方向に視線を向ける。
(考えてみれば、今世と前世とで一番立ち位置が変わっているのは龍守殿だわ。前世での龍守殿は皇家を庇護するように見せかけながらも、最後は帝位を簒奪した。けれど今世では反葛城公爵連合軍の実質的な指揮を執り、名実ともに私に協力してくれている……)
今の織瀬は、龍守の忠義を全く疑っていなかった。龍守とともに過ごすうちに、彼が自分の意思で簒奪などを企てるはずがないという思いが、織瀬のなかで膨らんでいった。
(もし……もしも龍守殿が帝位を欲するとすれば、それはきっとそうせざるを得ない状況に陥ってしまった場合だわ。彼がそうしなければ、取り返しのつかない状況になってしまうような……)
そこまで考えたところで、織瀬は唇を噛む。
(前世とは様々なことが変わっているけれど、橘花国が存続の危機にあるということには変わりがない……)
織瀬の行動によって変化が起きた部分は、あくまで枝葉に過ぎない。橘花国という大樹の根本の状況は変わっていないのだ。
(そして橘花国を危機に晒している元凶が今の皇家であることも、前世と同じ……)
皇族が民に目を向けず、己の欲望や怠惰に身を任せた結果が現状を招いている。二百年の歴史の内で、真に国を思い行動していた皇族が一体どれだけいただろうか。
(私たち皇家の人間に国を統べるだけの力がないから、葛城公爵のような人物の専横を許し、結果として国を──この国に住む民たちを苦しめている)
皇族の不始末の付けを払わされるのは、いつでも民たちだ。荒廃した帝都の光景を思い返し、織瀬は瞑目する。このような理不尽が許されて良いわけがなかった。
帝都で民たちの怒りが織瀬に向けられた事は、──鷹比古のおかげで逃れることができたが──本来あれは織瀬が受けて当然の仕打ちだったのだ。
(菊理たちの報告を聞く限り、兵力差はあれど、策次第で連合軍が葛城公爵に勝利する事は可能だわ。でももしこの戦いで葛城公爵を除くことに成功したとして、その後は? 誰がこの国を建て直すことができるだろうか。今残っている皇族は私と紅蘭、そして珀亜……。珀亜はまだ幼すぎるし、紅蘭はとても国のことを考えているとは思えない。私は……今まで己の保身のみを考えて、葛城家に逆らう勇気もなかった私に国を担えるはずもない)
そうなれば、選択肢はひとつしかないように思われた。織瀬は天幕を出て、宵の帳が下り始めた空を見上げる。
(歴史が示すように、天命を失った皇家は新たな皇帝にその座を明け渡さねばならない。今の橘花国で、玉座に相応しい者は──)
織瀬は翡翠色の瞳に僅かな迷いと確信を込めて、西の空に輝く夕星から、中天に昇った満月へと視線を巡らせた。




