第三十九章 暗躍する影
連合軍が帝都を出発し、ここ桜華へ向かって進軍している──。
その報告を聞いた紅蘭の唇が、扇の影で満足げな弧を描いた。
「そう、那岐山侯爵がこちらに向かっているのね。……嬉しいわ、ようやくお会いできる。那岐山侯爵さえ来てくれれば、こんなみすぼらしい宮も何とかしてくれるに違いないわ」
うっとりと呟く紅蘭の前で、影のような人物が深々とこうべを垂れる。
「は、盟主である翠蓮皇女とともに進軍中とのこと。……那岐山侯爵は迅速な戦運びで知られておりますが、翠蓮皇女が同行していることを考慮すれば、到着まであと二日ほどはかかりましょう」
「翠蓮……お姉様……」
その名を聞いた途端、紅蘭は先程までの夢見る乙女のような仮面を脱ぎ捨てて、まるで修羅のごとき眼差しを目の前の影に突き刺す。
「……ねぇ、お前たちは私に協力してくれるのでしょう? 連合軍のなかにも仲間がいるのなら、その者に命じてさっさとお姉様を殺してちょうだいな」
まるでそこの花瓶の水を取り替えておけとでも言うような口調に、影はほんの僅か唇の端を引き攣らせる。
「……残念ながら、それは難しいかと。翠蓮皇女が毒姫という話が真実ならば、毒殺も出来ませぬ。実力行使に出ようにも、翠蓮皇女の侍女たちは手練れですし──」
扇を持つ紅蘭の手がぶるぶると震え出すが、それには頓着せずに影は言葉を続ける。
「──彼女たちが離れている間も、那岐山侯爵は自身の腹心を皇女の護衛に付けております。その目をすり抜けて翠蓮皇女を暗殺するというのは──」
「ならどうすればいいのよ! この件についてはあの男は役立たずだし!」
紅蘭は手にしていた扇を、苛立ちのまま床に叩きつけた。
「……豺牙将軍ですか」
華やかな意匠が施された扇が、羽をもがれた蝶のように床に転がるさまを目で追いながら、影が呟く。
「豺牙将軍を味方につけておくならば、翠蓮皇女を殺すわけにはいかぬのでは? 翠蓮皇女を与えるという条件で、豺牙将軍は紅蘭皇女殿下に従っているのでしょう?」
「分かってるわよそんなこと! 私に口答えをしないで!」
紅蘭はキッと影を睨みつける。
「那岐山侯爵を皇帝にして私が皇后になれば、もうあんな男は用無しなのよ。お姉様ともども殺してやるわ。……なんなの、私の顔を見ても翠蓮皇女翠蓮皇女って……馬鹿にするのも大概にしなさいよ!」
癇癪を起こした幼児のような振舞いに、その影は人知れず溜め息を吐く。その後、仕草だけは恭しくこうべを垂れた影は姿を消した。
紅蘭は忌々しげに唇を噛む。そして壊れた扇を更に追い打ちをかけるように踏みつけ、ぎりぎりと踏み躙る。
「ふん……せいぜい夢を見ていればいいわ、お姉様。那岐山侯爵はきっと最後には私を選ぶ……。だって私のほうが相応しいもの……」
紅蘭の喉から、くぐもった笑いがもれる。
「私だったら那岐山侯爵を皇帝にしてあげられる……。彼の野望を叶えてあげられるのは私だけ、お姉様には無理なのよ……」
大きな瞳に異様な光をたたえながら、紅蘭は哄笑した。
*
百年前までは栄華を誇っていた桜華の都だが、今ではさして見るべきものもない、ありふれた街の一つに過ぎなかった。かつての皇帝たちが君臨していた宮城も、一部は廃墟と化している。
南陽皇子や紅蘭皇女、そして葛城乙彦のみはかろうじて風雨をしのげる屋根を得ることができたものの、無理やり帝都から連れ出された官吏たちの多くは、平民たちの家のほうがまだましであろうというような居所しか与えられなかった。
ところどころに蜘蛛の巣がかかり、明らかに狐狸の類いが出入りしている痕跡が残る部屋のなかに、葛城乙彦はいた。そして底の見えない深淵のような瞳を、ひたすらに虚空に向けている。
その目の前には端正な顔立ちの少年が、瞳に激情をたたえながら対峙しているのだが、乙彦の視界には全く入っていないようだった。
「──葛城乙彦。お前は一体何を望んでいる? 兄上と皇太后を殺し、帝都に火をかけ……帝位を狙っているにしては、あまりにお粗末な振舞いではないか」
拳を震わせながら、少年──称号を南陽皇子、真名を珀亜──が乙彦に食ってかかる。
「多くの民が命を、住む場所を奪われた。お前のような男が皇帝になったとしても、民たちが受け入れるはずもない……!」
激しい罵倒の言葉を浴びながらも、乙彦は視線を少年に向けることなく、ただ小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「南陽皇子殿下……いや、皇帝陛下は異なことを仰る。帝位とは天命によって与えられるものであり、民の意向など考慮されるものではないのですよ」
「──天命だと? お前に天命が与えられているとでも言うのか? この状況で……」
「少なくとも先帝──佐穂彦の天命は尽きていたのでしょうな。豺牙、そして紅蘭……あのような幼児のごとき頭しかない者に殺されるなど」
乙彦はくくっと喉を震わせる。
「まあそれを言ってしまえば、俺も貴方も翠蓮皇女も──那岐山龍守でさえも結局は紅蘭に踊らされたのですから、天命など適当なものですな」
椅子の背もたれに体重を預け、乙彦は天を仰いだ。漆黒の瞳に映るのは、ただ虚ろのみだ。
「だが少なくとも、この眼で橘花国の終わりを見ることが出来る……。自分の手で壊しきれなかったことは残念だが、それだけでも俺は本望だ」
その呟きには不思議と偽りが感じられず、珀亜は不可解そうに眉根を寄せる。
「……お前はなぜ、そこまで橘花国を憎んでいる? 公爵家に生まれ、何不自由なく育ったであろうお前が──」
「皇家に生まれ、何不自由なく育った皇帝陛下には解らぬでしょう」
乙彦は皮肉っぽく笑った。
「俺は昔から憎くて堪らなかったのですよ。爵位に胡座をかき権力を弄ぶことにしか興味のない父も、全てが自分の思い通りにならないと癇癪を起こす妹も、金をばら撒くことでしか支持を集められぬお前の父親も、俺と妹のことを見て見ぬふりをした義母も……」
淡々と呪詛の言葉を紡ぎながら、乙彦は珀亜に視線を戻す。
「皆悉く死んだ。なのに橘花国は残っている。──十八年前の戦で滅びの淵まで追い詰めたというのに、まだしぶとく生き残っている……」
「……っ!」
そして不意に立ち上がった乙彦の手が、珀亜の喉元を掴んだ。そのまま、珀亜のつま先が宙に浮く。
「……っ、か、葛城、乙彦、お前……」
段々と生気を失っていく珀亜をしばらく見つめたのち、乙彦は急に興が覚めたように手を緩めた。珀亜の身体は、あえなく床に落ちる。
乙彦は身体の痛みと呼吸の苦しさに喘ぐ珀亜をしばし見つめていたものの、次に珀亜が顔を上げた時にはすでに姿を消していた。




