第三十六章 疑心
「織瀬姫、もうよろしいのですか」
「はい。お気遣いいただきありがとうございます」
悲しみの残滓に目尻が染まっているものの、織瀬は龍守に対して気丈な微笑みを見せた。そして龍守の背後に影のように佇む鷹比古に対しても、静かに目礼する。それに僅かに返礼したのち、鷹比古が口を開いた。
「龍守様。翠蓮皇女殿下がよろしければ、場所を移して今後のことを話し合えればと思いますが」
「ああ。……織瀬姫、お疲れのところ申し訳ありませんが、共においでいただけますか」
「はい」
龍守と鷹比古に伴われた織瀬は、後宮を出て朝堂へと向かった。
扉をくぐると、見知った顔が一斉に織瀬たちのほうへと向けられた。そこに座っていたのは、那岐山家の家臣である隼人と倶知比古、豊雲青弦と建日、雷矢の兄弟、そして冬院家の面々だったのだが、その光景に織瀬は違和感を感じざるを得なかった。
(路保殿や初臣殿が……安比家の者たちが、いない)
するとその思考を読んだように、龍守が織瀬の疑問に答える。
「安比家はこの連合軍から離脱しました」
「えっ……」
「兵糧が保たぬとのことです。……我が家からの援助を申し入れましたが、断られました」
龍守の言葉を受けて、隼人が蔑むように肩を竦めた。
「はっ……路保の野郎、無駄にプライドだけは高いからな。龍守に借りを作りたくねぇとか、そんな下らない理由だぜ、きっと」
そう吐き捨てる隼人に、龍守は一瞬物言いたげに口を開きかけたが、すぐに織瀬へと向き直る。
「織瀬姫、申し訳ございません。貴重な戦力を減らしてしまいました」
「いいえ、龍守殿のせいではありません。ですが……」
織瀬は我知らず眉を寄せる。兵糧の問題を持ち出されれば納得せざるを得ないが、本当にそれだけなのだろうか。
(前世での出来事を考えると、不安になってしまうけれど……)
前世で安比路保は自ら皇帝を僭称し、龍守と対立することとなった。
(だけど前世と今とでは状況が違う。葛城公爵は健在だし、何より皇女である私は路保殿のもとにはいない。今の状況で路保殿が前世と同じ行動を取ったとしても、それほどの脅威にはならないはず……)
胸の内に広がる不安を消し去ろうと織瀬が奮闘していると、卓の下で退屈そうに足をぶらつかせていた雷矢が吠えた。
「──なあ、結局あの安比何ちゃらは何しにここまで来たんだよ? 貴族の屋敷から酒くすねて、俺たちを手伝いもせずに酒盛りして……って、痛てて! 何すんだよ兄貴!」
唇を尖らせる雷矢の耳を、隣に座る建日が思いきり引っ張った。
「雷矢、止さないか。諸侯の前で青弦様を差し置いて口をきくな」
「痛いって! 止めろよ!」
悲鳴をあげる雷矢を、青弦が苦笑混じりに見やる。
「……雷矢。私たちだって龍守殿の助けがなければ日々の糧食に困る羽目になっていたんだから、あまり路保殿を責めてはいけないよ」
「だけどさ青弦様、一応あいつは俺たちの大将だったんだぜ? それが勝手に居なくなるなんて無責任じゃんか」
「それはまあ……そうなのだけど」
困ったように頬をかく青弦の向かいで、冬院家の子息──冬院真雪が呟いた。
「……確かに盟主が不在というのはいただけませんね」
その呟きに、雷矢がぽんと手を叩く。
「そうだ、じゃあ青弦様が大将になっちまえばいいんじゃね?」
「雷矢、いい加減にしないか。それに盟主なら私ではなく龍守殿のほうが──」
「盟主なら織瀬姫──翠蓮皇女がいる。わざわざもう一人立てる必要はなかろう」
名を出された龍守は、その話題を強制的に打ち切った後、
「……そんなことよりも、話し合うべきは今後の方針だ」
居並ぶ面々に、紅い瞳を向けた。
「差し当たって俺たちが対応せねばならぬことは三つだ。一つめは荒廃したこの帝都の民たちを救うこと。二つめは皇帝陛下と皇太后陛下の葬儀を行うこと。最後は当然、葛城乙彦を追うことだな。……現状皇位継承順位の筆頭である南陽皇子も桜華へ連行されている。南陽皇子が新たな傀儡とされる前に、葛城乙彦を排除する必要がある」
「……皇女殿下には申し訳ありませんが、葬儀の件は後に置いてもよろしいのではありませんか?」
織瀬のほうをちらりと見やったのち、冬院家の子息が声を上げた。
「失礼。冬院家の当主である父が安比家の説得に向かいましたため、嫡男である私──冬院真雪が発言させていただきます。……那岐山侯爵、帝都の現状と葛城公爵について早急な対応が必要ということには同意しますが、とにかく今は非常時です。葬儀などに拘っている場合ではないのでは?」
冬院真雪は、その名から連想されるような冷たい眼差しを龍守に突き刺した。しかしそれを受けても、龍守は端然とした口調を崩さない。
「真雪殿の言うことも分かる。だが、──もちろんこの状況で慣例通りとはいくまいが──葬儀自体は執り行う」
「那岐山侯爵、今の我らにそのような余裕があるとお思いで?」
場の空気がひりつく。
龍守は僅かに眼を細めて真雪を見返した。表面上はその紅い瞳に感情の揺らぎは感じられないが、
(龍守殿……少し苛ついている……?)
何気ない龍守の仕草に、織瀬は不安を感じてしまう。
冬院家の者たちとはこれまでも軍議の場などで数度顔を合わせたが、主に発言するのは当主である冬院伯爵だったため、織瀬はこの真雪という青年に関しては声すらまともに聞いたことが無かった。
(冬院真雪殿……。どうもあまり龍守殿と相性が良くないみたいね)
それが何に起因するのかは分からないが、話題が皇族の葬儀に関することならば、織瀬も意見を述べるべきだろう。そうして織瀬が口を開こうとしたところで、
「余裕がなくともやらねばならぬ。皇帝陛下と皇太后陛下の死に葛城乙彦がどの程度関わっているかは分からぬが、我らが皇族の死を悼むことによって、奴が皇家に仇なす奸臣であると天下に示すことができる」
「……皇族がたの死を利用するのですか」
あくまで冷静な龍守に対し、青弦が複雑そうな表情で呟く。
「そうだ。客観的に見て、今までの俺たちは単に葛城乙彦への不平分子の集まりだと言われても仕方がない状態だった。実際俺たち連合軍こそが叛逆者だとして、葛城家側についた者たちもいたくらいだしな。……だがこれによって葛城家から大義を奪うことができる」
「しかし、翠蓮皇女殿下にとっては弟君と義母君に当たるかたの死を利用するというのは……」
青弦が気まずそうに織瀬の顔色を窺った時、
「龍守様、発言をお許しいただけますか」
龍守の傍らに立っていた鷹比古が、そう声を上げた。
龍守に視線で促された鷹比古は、一礼した後静かに言葉を紡ぐ。
「……憚りながら、葬儀の件は急いだほうがよろしいかと。遷都の際、帝都は相当の混乱だったことは想像に難くない。その混乱の中で、むしろ我ら連合軍が皇族がたを殺害したと──そう葛城家側が喧伝する可能性もある。皇帝陛下も皇太后陛下も葛城家の血筋です。普通に考えれば、葛城家にこのお二人を殺害することで得られる利はありませんからな」
そこで鷹比古が、織瀬のほうをちらりと見やった。その黒い瞳は、どことなく生徒の力量を測ろうとする教師のそれを思わせる。
(……龍守殿を援護しろ、ということね)
そう解釈した織瀬は、ゆっくりと口を開いた。
「……冬院真雪殿。帝都の現状を鑑みれば、貴方の言われることが最も正しいと私も思います。特に残された民たちは女性や子ども、老人──早急に手を打たねば命に関わる者たちもおります」
そこで織瀬は真雪に向かって柔らかく微笑んだ。
「民たちを案じてくださるその慈悲深さ──皇族として礼を言わせてください。……そして豊雲公爵も、私の心中を慮ってくださりありがとうございます」
「翠蓮皇女殿下……」
「──礼を言われるほどのことではございません」
青弦は気遣わしげに眉根を寄せ、真雪は困惑したように言った。
(困惑するのも無理はない。真雪殿は民たちを最優先すべきとは一言も言っていないのだから。……だけどこの場は、そういうことにさせてもらわなくては)
理由は不明ながら龍守と真雪の関係性が余り良くない中で、真雪の顔に泥を塗るべきではない。織瀬の役目は、真雪と、可能ならば青弦の顔を立てたうえで、この場の結論を龍守の案に誘導することだ。
「──ですがその上で、葛城公爵への対処として那岐山侯爵の言う方法は有効だと私は考えます。特に鷹比古殿の言うように、こちら側に非を押し付けられる懸念もある今、あえて厳しい選択をする必要があるかと。……皆様が私のことを案じてくださることは有り難く思いますが、どうか合理的な判断をなさってください」
視界の隅で、鷹比古がかすかに頷いたように見えた。
(合格……少なくとも、及第点かしら)
織瀬が人知れず胸を撫で下ろしていると、青弦がまるで自らの思考を整理するように、ぽつりぽつりと龍守に問いかけた。
「……翠蓮皇女殿下がそこまで仰るのであれば、龍守殿の提案通りにいたしましょうか。しかし鷹比古殿も指摘しておりましたが、不可解ですね。なぜ葛城公爵は自らの縁者でもある皇族がたを殺害したのか……」
「葛城乙彦とは別の意図で動いている者がいる──ということだろう」
「それは一体……」
龍守は事も無げに言ったが、青弦は難しい顔をして考え込んだ。
織瀬の脳裏には、扇ごしに笑う紅蘭の顔が浮かぶ。
「龍守殿は、それは誰だとお考えなのですか」
「……さあな」
青弦の疑問に、龍守ははっきりとした答えは返さなかった。




