第三十五章 鷹比古の懸念
奇跡的に建物の形が残された城下の妓楼が、今は負傷者の治療所となっている。
織瀬は明瑠やその他医術の心得がある者たちとともに、忙しなく怪我人たちの間を行き来していた。
「明瑠、貴女は少し休んで頂戴。後のかたたちの手当ては私がするわ」
明瑠は長い髪を無造作に括り、目の下に疲労の陰を落としながらも民たちの治療に当たっていた。その明瑠の手に、織瀬はそっと自分の掌を重ねる。
「姫様、しかし……」
「重症者の処置は終わっているのでしょう? 後は私に任せて。民たちのうち無事な者も手伝ってくれているし、貴女も休息が必要よ」
織瀬はふわりと穏やかに微笑みかけるが、 明瑠は躊躇うように視線を落とす。
「ですが姫様、那岐山侯爵の部下たちを手当てするのとは訳が違います。こう言っては何ですが、葛城家の間者が民たちに紛れている可能性も……」
「確かにそうね。でもこのままでは貴女も倒れてしまうわ。……それに龍守殿も、私たちを気にしてそれとなく護衛を付けてくれているようだから大丈夫よ」
帝都に入って程なく織瀬と龍守は別行動となったが、時折近くに視線を感じていた。
織瀬の言葉に、明瑠はそっと目線を織瀬の背後へと向ける。
「……あれは鷹比古殿の配下でしょうか」
「おそらくね。さあ、そうとなればこの場は私に任せて。……そうだわ、菊理が炊き出しのほうを手伝っているみたいだから、そちらで何か食べて来るといいわ」
「菊理が炊き出し? それはまた思い切った配置を……」
ぽつりと呟くと、明瑠は織瀬に向かって頭を下げる。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます。ですがくれぐれも用心なさってくださいね、姫様」
「ええ、ありがとう」
明瑠を見送ると、織瀬は気合いを入れるようにひとつ息を吐いた。綾襷の掛け方も慣れたものだ。邪魔になる袖を上げると、織瀬は明瑠の後を継ぎ負傷者たちに向き合った。
(数が限られているとはいえ、薬や包帯などの物資があることは幸いだわ。これも全て、龍守殿が手配してくれたおかげ……)
織瀬たちが到着した当初、指導者たちに捨てられた帝都では、食糧を始め様々な物資が不足していた。その惨状を目の当たりにした龍守は、惜しげもなく自軍の蓄えを民たちに分け与えた。
殆どの民たちが新都である桜華へ連行されたとは言え、残された者たちも決して少なくはない。安比家などは自軍の兵すら養えなくなると言って、決して民たちに配給を行おうとはしなかった。
(このことに関しては、路保殿の判断は間違っているとは言えない。路保殿にとって、まず第一に考えるべきは自分の家臣たちのことだもの)
織瀬は龍守の行動に感じ入ると同時に、那岐山家の物資が不足することを危惧していたのだが、少なくとも今のところ深刻な事態には陥っていなかった。
思えば軍中において、織瀬はただの一度たりとも衣食に不自由したことはない。那岐山家の兵たちも、平時の食事は質素ながら、飢えた様子は見られなかった。これは前世で安比家の軍に身を置いていた時と、最も異なる点である。
『あの、那岐山侯爵。私の身の回りの品を色々とご用意いただいて、ありがたいのですけれど……。私よりも、どうか兵たちのために資金をお使いください。着物も食事も、皆さんと同等のもので構わないのですから』
桂州を出立し、安比家と会見する前のことだ。本陣において自分のために用意された品々を目の当たりにして、織瀬は慌てた。
調度もさることながら、着物などは一見して上等なものと分かる拵えだ。皇宮にいた時も、織瀬はこれほど高価な着物に袖を通したことはない。
『おや、お気に召しませんでしたか? それでは野磨に命じて別のものを用意させて──』
『そうではなくて……!』
尚も言い募ろうとする織瀬に、龍守は眼を細める。
『……冗談ですよ。ご心配なさらずとも、那岐山家は成り上がりの成金なので、これくらいどうと言うことはありません。それよりも、私が選んだ着物を着て見せてはいただけませんか? きっとお似合いになると思いますよ』
そう冗談めかして笑う龍守の言葉に、嘘はなかった。
(那岐山家の資金源については詳しく聞かなかったけれど、もしかしたら財力においては安比家や葛城家に匹敵するかもしれない……。そしてその財を、躊躇いなく家臣や民たちのために使う。これでは前世で安比家が──いいえ、私が太刀打ち出来なかったのも当たり前だわ)
求心力を失った皇家が、玉座を開け渡すこととなったのも当然の帰結だったのだろう。そして帝都に入ってから、ひとりでも多くの民たちを救うために尽力する龍守を見て、織瀬の胸には様々な思いが交錯していた。
「──お姉さん、ありがとう」
傷口に包帯を巻き終わると、幼い少女が織瀬に向かって愛らしい笑顔を向けた。きらきらと輝く曇りのない瞳に、織瀬の胸はちくりと痛む。織瀬がもっと思慮深ければ、この少女はこのような目に遭わずともすんだのだ。
「娘をお助けいただき、ありがとうございます」
少女の隣で、その母親と思われる女性が頭を下げた。織瀬は努めて唇に笑みを浮かべる。
「お気になさらないでください。……それよりも、貴女も怪我をなさっているのではありませんか? 申し訳ありませんが、袖口を捲らせていただきますね。……少し沁みますが失礼いたします」
織瀬は女性の傷口を消毒し、少女にしたのと同じようにてきぱきと包帯を巻いていく。
「本当に、ありがとうございます。貴族のかたが、私たちなどにこのように慈悲をかけてくださるなんて……」
「いいえ、礼など不要です。……私たちが不甲斐ないばかりに、貴女がたにこのような思いをさせてしまっているのですから。むしろこちらが謝罪すべきことです。……本当に申し訳ありませんでした」
「そんな、貴族の姫君がそのような……」
少女を抱きしめる母親の目に、涙が滲んだ。
織瀬は母子にそっと微笑みかけると、次の怪我人の手当てに移った。そうしてかなりの人数の処置に当たり、さすがに疲れを感じて額の汗を拭ったところで、織瀬は部屋の隅でうずくまる一人の小柄な女性に目を止めた。
(あのかた……ずっとあそこに座っているわね。先程那岐山家の軍医殿が声をかけていたけれど……)
おずおずと声をかけた軍医は、女性にすげなく追い払われていた。
織瀬はさりげなく女性を観察する。全身を煤で汚し、身なりも乱れてはいるものの、纏っている着物は上等そうだった。それこそどこかの貴族の姫君かもしれない。
(貴族の女性なら、男性の軍医殿に治療を受けることに抵抗があっても仕方ないわ。見た目だけでは怪我をしているか判断がつかないし、声をかけてみましょう)
織瀬は女性に歩み寄り、出来るだけ穏やかな声音で問いかけた。
「失礼いたしますね。何かお困りのことはございませんか?」
女性はびくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げる。そして織瀬の翡翠色の瞳と視線が交わった途端、その大きな瞳を見開いた。
「あ、貴女……いえ、貴女様は……」
唇を青ざめさせ、がたがたと震え出すその顔に、織瀬は見覚えがあった。
華やかな衣装や化粧で飾っていないためすぐには分からなかったが、その愛らしい顔立ちや大きな瞳は変えようがない。
(このかたは、あの宴の時の──)
彼女はあの大喪の礼の後の宴で、織瀬に不遜な態度をとった令嬢だった。
(そしておそらくは、葛城公爵の愛人のひとり……)
せめてこれ以上動揺させないようにと、織瀬は静かに声をかける。
「貴女は……秋葉藤乃殿ですか?」
「……っ、ひっ……!」
しかし名を呼ばれた藤乃は、声にならない悲鳴を上げた。怯えた表情で後退る藤乃を落ち着かせるように、織瀬は言葉を重ねる。
「驚かせてしまい申し訳ありません。今私たちは負傷したかたの手当てに当たっているのです。藤乃殿も、どこかお怪我をなさっているのなら──」
「あの時のご無礼……お許しください、皇女殿下……!」
突如平伏する藤乃に、織瀬は呆気にとられた。しかし周囲の者たちから好奇の視線を向けられていることに気づき、織瀬はそっと藤乃の肩に触れる。
「藤乃殿、どうか顔を上げてください。貴女にも立場がお有りだったのでしょう。私は気にしておりませんから」
「翠蓮皇女殿下……」
大きな瞳に涙を溜めて、藤乃は織瀬の顔を仰ぎ見た。
「──皇女だって?」
「今、翠蓮皇女と言ったか?」
背中にひりついた視線を感じて、織瀬は身を強張らせた。
(これは……)
この視線には覚えがある。皇宮で、時折皇太后や紅蘭から向けられていたものと、似た感情を含んだそれは──。
「……あんた、皇族なのか?」
いつの間にか、織瀬と藤乃を囲むように人々の壁が出来ていた。織瀬は藤乃を守るように背後に隠すと、緊張に強張る身体を叱咤して人々に向き合う。
「はい。……私はこの橘花国の第一皇女、翠蓮です」
そう答えた途端、織瀬に向かって怒号が発せられた。
「あんたの……あんたたち皇族のせいであたしたちはこんな目に遭ってるんだ!」
「家も何もかも燃やされて……うちの旦那は殺された!」
「その後ろの女も! 今は大人しくしているが、汚い平民と同じところにいたくないなんて騒ぎ立てて!」
「あたしたち平民は、あんたたち貴族に踏みつけられてばかりだ!」
怒涛のように浴びせられる非難の声に、織瀬の心臓はまるで大きな手に握りつぶされたような悲鳴を上げる。ひとりでに震え出す手をもう一方の手で押さえ込むと、織瀬は努めて冷静に周囲に目をやった。
織瀬たちを非難している者たちは、この場にいるなかのごく一部に過ぎない。殆どの者たちは怯えたように押し黙っているが、僅かながら織瀬たちを庇おうと声を上げてくれる者たちもいた。もっともその声は、少数の怒号によってかき消されてしまったのだが。
(だけど……私が不甲斐ないせいで、彼らが平穏な生活を失ってしまったことは事実だわ)
織瀬は瞑目し、一度上げた頭を深々と下げる。
「本当に……申し訳ありませんでした」
ほんの一瞬、場が水を打ったように静まり返った。
「な……何を言ってるんだ。謝ったところで、何にも変わりゃしない……」
戸惑ったように呟かれた言葉は真実だった。だが今の織瀬にはこれしかできないこともまた、事実だった。
「申し訳ありません。全て私に……私たち皇族に責任があります。貴女がたには何の落ち度もありません」
ただただ頭を垂れる織瀬に、非難の声も段々と弱まっていく。
「……ねえ。このお姉さんは、私を助けてくれたよ。どうして皆いじめるの?」
そう屈託なく問いかける少女の口を、母親が慌てて覆った。
「──嘆かわしいことだ。皇女殿下に助けられておきながら……ここには恥知らずが多いようですな」
不意に響いた聞き覚えのある冷ややかな声音に、織瀬は弾かれたように顔を上げる。
研ぎすまされた細身の刃を思わせる眼差しと、織瀬のそれがかち合った。
「鷹比古殿……」
肩までの黒髪を揺らし、鷹比古は流れるような所作で織瀬に向かって拝礼する。
「翠蓮皇女殿下、急ぎ貴女様にご確認いただきたい儀がございます。恐れながら私とともに後宮までおいでください」
「……それは、構いません。ですが少しお待ちいただけませんか? まだ皆さんの手当てが途中で、こちらの藤乃殿も……」
「そのご令嬢も含めて我が配下が引き継ぎます。……日向」
鷹比古の呼びかけに、どこからともなく現れた長身の女官が膝をつく。
「ずっと貴女様につけておりましたので、状況なら把握しております。日向、頼んだぞ。……さあ、皇女殿下は私とともに」
口調は慇懃だが、有無を言わさぬ圧をもって鷹比古はそう促した。
日向は扉へと向かう鷹比古を僅かに眼で追った後、織瀬に向かって拱手し優雅な礼を見せる。
「翠蓮皇女殿下、こちらは私にお任せください」
「……はい。よろしくお願いします、日向殿」
躊躇いつつもそう応えると、織瀬はすでに扉の傍らで待つ鷹比古のもとへと急いだ。
*
「──翠蓮皇女殿下。今から私は説教をいたしますが」
「……え?」
唐突に鷹比古にそのようなことを言われ、織瀬は翡翠色の瞳を瞬かせた。
「皇女殿下。皇族が易々と頭を下げるものではないと、そう龍守様が再三申し上げておりましたが──お忘れですか?」
漆黒の瞳でぎろりと睨まれる。これまで鷹比古が、このような眼差しを龍守や隼人に向けている場面に幾度か遭遇したことがあったが、いざ自分に向けられると、
(……怖い)
織瀬は思わず姿勢を正し、おずおずと鷹比古の問いかけに応える。
「いえ、そういう訳ではないのですが……実際私のせいで……」
「それは身の程知らずの思い上がりというものです」
織瀬の言い訳じみた言葉を、鷹比古はぴしゃりと遮る。
「貴女様はご自身で仰っていたではありませんか。自分は皇族とは名ばかりの、取るに足らぬ存在であると。……まさかご自身に葛城公爵以上の力があると、ご自分一人で橘花国をどうにか出来るなどとお思いで?」
「それは……」
「先程の貴女様の言動は、そう思われているようにしか受け取れませんぞ。今回のことは貴女がどう足掻いても変えられなかった。……ゆえに必要以上に責任を感じられるのは、私の眼には傲慢としか映りません」
「鷹比古殿……」
織瀬は軽く目を見張り、足を止めて深く頭を下げた。
「その諫言、肝に銘じます。そしてお気遣いをいただき、ありがとうございます」
「……簡単に頭を下げるなと、言っているそばから貴女様は」
鷹比古は眉間に深い縦皺を刻み、溜め息を吐く。
「……とにかくお急ぎください。後宮で龍守様がお待ちです」
「はい」
織瀬は柔らかく微笑むと、鷹比古とともに後宮へ向かった。
*
「……鷹比古。お前なぜ織瀬姫を連れて来た」
「龍守様が渋っていらしたので、代わりに対応させていただきました」
「……」
鷹比古の後ろから顔を覗かせた織瀬を見やり、龍守は額を押さえた。
「……せめて遺体の様子を整えてからでよかっただろう」
「そのように悠長なことを言っていたら、この季節です、より一層皇女殿下にお見せできない状態になりますぞ」
「お前な……」
「あの、龍守殿。私にご用というのは……」
織瀬が躊躇いがちに問いかけると、龍守は前髪を掻き上げながら、諦めたように口を開いた。
「……ええ。無理にとは言わぬのですが、可能でしたら貴女にご確認いただきたいことが……」
珍しく歯切れの悪い龍守に、織瀬は眉を寄せる。
「今、遺体と言いましたね。まさか……」
織瀬の脳裏に、常に不安そうな表情を浮かべていた弟の姿が過ぎる。
「龍守殿、それは陛下の……」
織瀬の問いに、龍守は静かな頷きを返す。
「……我らのなかで、陛下の龍顔を間近で拝したことがある者は織瀬姫のみです。俺も確認いたしましたが、可能であれば織瀬姫にもご確認いただければ。さらにもう一人、三十半ばと見られる女人の遺体が見つかっております」
「それは……」
「……お察しの通りかとは思いますが、こちらもご確認いただけると助かります」
「……分かりました」
織瀬は表情を強張らせながらも、気丈に頷いた。
*
「……鷹比古、俺はお前を殴りたいのだが」
龍守は後ろに従う鷹比古に対し、そう苦々しげに言った。
織瀬はひとりになりたいとのことで、翠蓮宮の隣にある禊場に籠っている。その心中は十分に察せられるので、周囲に数人の兵士を立たせる許可だけを得て、龍守はしばらく織瀬を希望のままにさせようと考えていた。
(織瀬姫が気丈であることは疑いないが……さすがにこう立て続けではこたえるだろう)
後宮に安置された少年と女人の遺体に対した後、翠蓮皇女は静かに、
「間違いありません。確かに皇帝陛下と、皇太后陛下です」
そう告げるとぐっと瞼を閉じた。
「陛下の死因は……由比殿と飛燕殿の言っていた通り……」
「背中の刀傷でしょう。そしておそらく皇太后陛下も同様かと」
「皇太后陛下も殺害された……。一体誰が……」
「それは分かりません。しかしながら、陛下と皇太后陛下が同じ場所に遺棄されていたことから見て、同じ人物が関わっていると見るのが自然でしょう」
「豺牙将軍、そして……紅蘭」
妹の名を呟き、織瀬は唇を噛んだ。細い指先が小さく震えている。その胸の内には、一体どのような思いが去来しているのだろうか──。
「──私を殴って気が晴れるのであれば、どうぞご自由に。龍守様のご許可を得ずに翠蓮皇女殿下をお連れしたこと自体は、咎められても当然ですからな」
相変わらず全く感情のこもらない鷹比古の声が、龍守の意識を現在へと引き戻す。
「……腹の立つ奴め」
龍守はひとつ舌打ちをした。
「お前の眼に映る俺は、いまだに齢十二の子どものままか? 妙な気を回さずとも良い」
「そのような意図ではございません。……ただ、龍守様が翠蓮皇女殿下に情が移っておられるように見受けられましたので」
「情も移る。皇族にも関わらず……あれだぞ?」
「それについては私も同感です。しかしながら、あまり入れ込みすぎるといざという時切り捨てられなくなりますぞ。龍守様が超世の傑であることは疑いありませんが……なにかと情に絆されがちな点が、私の眼から見ますと唯一の欠点ですな」
「唯一の欠点だと? ……ははっ、お前にしては面白い冗談を言うではないか、鷹比古」
龍守は乾いた声で笑い、鷹比古に背を向ける。
「俺が本当に傑物であれば、このような無様な有様にはなっていないだろうよ」
そう吐き捨てる龍守の背に流れる金髪を、鷹比古は憂いを含んだ眼差しで見送った。




