第三十三章 侵蝕
薄暗い宮のなかで、珀亜は歯を食いしばりつつ重い瞼を開いた。
(くそっ……頭が割れそうだ。紅蘭め、厄介な薬を使ったな……)
気力を奮い立たせるように、姉の前では決して遣わぬであろう言葉でそう毒づく。まるで鉛のように感じられる身体を起こしつつ、珀亜はあの地下通路での出来事を努めて冷静に思い返そうとした。
だが視界を覆い尽くした赤い血飛沫が脳裏に蘇った途端、背筋を冷たいものが走る。
(兄上は、おそらく生きてはいまい。私がもう少し速く動けていれば、兄上を守れたのに……)
皇帝はこの橘花国において至高の存在である。その弟である珀亜は、なんとしても兄を守らねばならなかったのだ。──珀亜は感覚のない拳を、それでもきつく握りしめた。
(思い出せ、そして考えろ。誰ひとり味方のいない皇宮で、私が何を為すべきか……)
姉である織瀬の命を受けた兵士たちを逃し、那岐山龍守と共謀しているという紅蘭の言葉に衝撃を受け、そして豺牙に腕を掴まれながら地上に戻され──その後、背後から何者かに薬を嗅がされた。薄れゆく意識のなかで見たその顔は、葛城家やそれに連なる者ではなかったように思う。とすればやはり、紅蘭には独自の協力者がいることになる──。
(私に薬を嗅がせたあの者……どこかで見かけた気がするが、誰だったか)
珀亜が見知っているのなら、当然皇宮に立ち入れる身分の者である。珀亜もそれなりに記憶力には自信があるのだが、人の顔立ちを記憶することについては姉のそれに及ばなかった。特に相手が同じような化粧を施した女ともなれば、どれも同じに見えてしまい、ひとりひとりの違いを認識することさえ難しい。
(もし那岐山侯爵の手先が紅蘭に協力しているとすれば、織瀬姉上が危ない)
珀亜は自身の無力さが歯痒かった。己が信じて国の未来を託した男に裏切られたとなれば、姉は何を思うのか──。
(こんなところで思案していても始まらぬ。もし紅蘭が那岐山侯爵を帝位につけるつもりなら、それは葛城公爵の腹積りとは異なるはず)
珀亜の見たところ、葛城乙彦も帝位を狙っていることは明らかだ。敵の敵は味方──というのは安易だが、乙彦が紅蘭の目的についてどの程度把握しているのか探ることで、何か糸口が見つかるかもしれない。
(しかし……私は一体どれだけ眠っていたのだ? 今が朝なのか夜なのか、それすら分からぬ)
格子窓から見える空には灰色の雲がわだかまっており、そこから時刻を知ることは不可能である。
珀亜は寝台を降り、覚束ない足取りで扉に向かった。しかしいくら押しても扉はびくともしない。訝しげに珀亜が眉根を寄せたその時、扉の向こうから聞き慣れた側付の声が聞こえてきた。
「南陽皇子殿下、お目覚めでございますか」
「ああ。私はどれだけ眠っていたのだ?」
「ほぼ一日でこざいます」
「一日……そうか」
思ったよりも時間は経っていなかった。珀亜はほっと安堵の息を吐く。
「殿下、お身体の具合はいかがですか。かなり強力な薬を嗅がされたようですが……」
「大事ない。それよりも葛城公爵と話がしたい。この扉を開けよ」
「それは……いけません。殿下、宮をお出になってはいけません」
急に口調に怯えを滲ませた側付に、珀亜は苛立つ。
「宮を出てはならぬだと? それは何故だ」
「危険だからでございます。うかつに動くと、次は貴方様まで命を奪われかねません。今回は眠らされるだけですみましたが……」
「私はこのまま紅蘭の傀儡にされるのはご免だ。姉上が橘花国のために心を砕いているというのに、同じ皇族である私が何もせずじっとしているわけにはいかぬ」
「……いけません」
凛とした珀亜の声に、側付はまるで痛みを堪えるようにひとつ息を呑み込んだが、やはり同じような返答を繰り返すのみだった。
「貴方様を宮から出してはならぬと、きつく言いつかっているのです」
「それは紅蘭からか。それとも葛城公爵からか」
「いいえ、違います。……我らは貴方様を──南陽皇子殿下をお守りしたいだけなのです。今はまだ貴方様は利用価値がございますゆえこうして軟禁だけですんでおりますが、今後の情勢次第ではどうなるか分かりません。あのかたが貴方様のことを脅威と見做せば──」
「……あのかた? あのかたとは誰だ。那岐山侯爵か?」
「それは、お伝えできません。ですがすでに皇帝陛下が害され、皇太后陛下も排除されようとしています。特に今は、桜華への遷都が通達され皇宮内も混乱しており──」
「……遷都だって? それは葛城公爵の意向か?」
「現状皇帝陛下の死は伏せられておりますため、皆そのように認識しておりますが、実際は全てあのかたの計画です。……とにかくあのかたの目的に邪魔と見做されれば、我らのみでは殿下をお守りしきれません。どうか身を慎まれますよう」
結局珀亜は部屋から一歩も出ることが叶わず、扉はほんの一寸たりとも開くことはなかった。
(もう何年も私の側に仕えてくれていたのに……。私ではなく、あのかたとやらに従うのか? 全ては私が幼く無力だからか……)
珀亜は力無く床にへたり込んだ。決して泣くものかときつく唇を噛み締めるが、心を覆い尽くす虚無感だけはどうすることも出来なかった。
──それから数日、南陽宮はほとんど人の出入りはないまま静まり返っていた。ある日葛城公爵に近しい宦官が珀亜の皇帝即位とともに遷都を行う旨を伝えに来たのだが、その知らせを聞いても珀亜は表情ひとつ変えることはなかった。
*
「南陽は大人しく従っているようね。……ふふっ、やはりまだ子どもね。お姉様より扱い易くて可愛いわ。それに引き換え……ねぇ、伯父様」
「……何だ」
紅蘭の甘えたような猫撫で声を聞いた乙彦は、虚ろな眼差しを宙に向ける。焦点の合わないその瞳がようやく紅蘭を映し出した時、紅蘭はひそかにほくそ笑んだ。
(ふふっ……。お母様の部屋にあった薬、よく効いているみたいね)
毒殺を警戒し、口にするもの全てに用心を欠かさない伯父に毒を盛るのは至難の業だったのだが。
(毒は何も口から飲ませる必要はない。香に混ぜ、それを焚き染めた衣服を纏わせることで、徐々に身体を蝕ませる……。初めはなんと悠長な手かと思ったけれど、意外と効きが速いわ)
渋々ながらも協力者の策に乗った己の明晰さを、紅蘭は自画自賛する。
(見なさい、私だってやれば策くらい張れるのよ。あのみすぼらしいもぐらたちは、きちんとお姉様に伝えたかしら? ……ねぇお姉様、澄ました顔をしていつも私のことを見下していたのでしょう? その私に出し抜かれるのはどんな気分かしら?)
常に聡明さを讃えられていた姉もこの程度か。後は味方だと思い込んでいる那岐山龍守に捨てられて、惨めに泣き喚くがいい──。
紅蘭は内心とは正反対の憂うような表情を貼り付けて、鋭さを失った伯父の瞳を見つめ返す。
「──お母様はまだ暴室で荒れていらっしゃると聞きましたわ。この状態では桜華に連れていくのは難しいのではありません?」
「……そうだな。帝都を──佐穂彦のそばを離れぬと泣き叫んでいるようだし、あれを部屋から引き出すのは骨が折れそうだ」
「馬鹿なお母様。骸なんて穢らわしいものを、もう三日も抱き続けているなんて……臭いが酷くて使用人も近づけないので、あれからほぼ飲まず食わずらしいですわ。このままではお母様も死んでしまうのではありません?」
「ふん、放っておけば良い。どうせ哀れな母親ごっこに興じているだけだ。すぐに興味をなくすだろうよ」
「それでも良いのですけれど……私、そろそろ目障りになってきましたの」
紅蘭は扇の陰で細い眉を顰める。
「伯父様、お母様のことは私に任せてくださらない? きっと大人しくさせてみせますわ」
「……好きにしろ」
「ありがとうございます」
紅蘭は上機嫌で朝堂を出た。
「──葛城公爵と話はついたのか」
扉の外に立っていた伯父の飼い犬が、そう問いかける。
「ええ。貴方も付いていらっしゃい。お母様──皇太后のところへ行くわ」
「紅蘭皇女、聞きたいことがある」
紅蘭にとっては犬としか認識できない男──豺牙の言葉に、足を止めるだけの価値はなかった。振り返ることもしない紅蘭の後を、それでも全く気を悪くしたふうもなく豺牙は従う。
「──皇太后が、長年翠蓮皇女を虐げていたというのは本当なのか」
「ええ、本当よ。私はお母様が恐ろしくて止められなかったけれど……お姉様はいつも泣いていらしたわ。とてもお可哀想で、よくお母様の眼を盗んでお慰めしていたの」
「……そうか」
本当は姉の泣き顔など一度たりとも見たことはなかったのだが、豺牙は紅蘭の虚実入り混じる話に過剰に反応していた。
(呆れた。なんて馬鹿なのかしら。……でもまあ、番犬はこのほうが扱い易いわ)
みな紅蘭よりも劣る者たちばかりだ。すぐに全てを手にすることができる。
(さあ、もうひとりの邪魔者を片付けなくては)
紅蘭にとってそれはもはや、刺激的な遊戯でしかなかった。
*
「──皇太后陛下、もう三日も何も口にされていないわよ。さすがにまずいんじゃない?」
暴室の近くで、数人の下女たちが囁き合っていた。
「確かにまずいけど……食事を持って行っても癇癪を起こされるし、どうしようもないわよ。それにだんだん酷くなるあの臭い……私はもう行きたくないわ。ここからだって臭うもの」
「……ねぇ、あの死体、一体誰なの? 皇太后陛下は佐穂彦って呼んでたけど……」
「噂だけど……それ、皇帝陛下のお名前みたいよ。姉の紅蘭皇女が、皇帝陛下を殺したって……」
「嘘でしょう、実の姉弟なのに」
「でも紅蘭皇女ならやりかねないわよ。姉の翠蓮皇女はお優しいかただっていうけど、紅蘭皇女は……」
「──私が、何かしら?」
不意に背後から聞こえてきた鈴の転がるような声に、下女たちはびくりと肩を震わせた。なかには小さな悲鳴を上げた者もいて、それが紅蘭の神経を逆撫でする。
「下女の分際で、皇族の噂話なんて……。さっき私ならやりかねないなどと言ったのは貴女ね?」
「えっ、ち、違います。あれは──」
怯える下女に侮蔑をこめた視線を向けたのち、紅蘭は背後を振り返る。
「ねえ。この女、斬って頂戴」
「分かった」
その短いやりとりが終わるとほぼ同時に、豺牙は腰の刀を抜き放ち、瞬きをする間にひとつの命が失われていた。
己の身に何が起こったか認識する間さえなかった下女の骸が、地面に転がる。
「……っ……!?」
その他の下女たちは、悲鳴すらあげられずその場にへたり込んだ。
「ふん、身の程知らずね。──行くわよ」
すぐに下女たちから興味を失った紅蘭は、暴室に向かって歩きだした。
「……確かに酷い臭いね。お母様は何故平気でいられるのかしら」
袖口で鼻を覆いながら進む紅蘭に、豺牙が言う。
「紅蘭皇女。さっきお前の悪口を言っていたのはあの女ではなかったぞ。お前が斬れと言ったのでそうしたが……悪口を言っていたのは、その隣の小柄な女だ」
「あらそう。どっちでもいいわ、そんなもの。──それより貴方、扉を開けてくださる?」
紅蘭は面倒そうに扇で暴室の入り口を指し示した。




