第三十二章 悲嘆
まるで仮面を被ったように不自然な龍守の表情を見た瞬間、織瀬は彼が良くない知らせを伝えに来たことを直感的に悟った。
「織瀬姫、お伝えせねばならぬことがございます。貴女の弟君が──皇帝陛下が、崩御なされたようです」
どくん、と心臓が大きく脈打った。まるで砂嵐に襲われたように、視界が灰色で埋め尽くされていく。自分の名を呼ぶ龍守の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「──織瀬姫、お気を確かにお持ちください」
両肩に力強いぬくもりを感じた。いつの間にか地にへたり込んでしまった織瀬の肩を、龍守の両手が支えている。
「龍守殿……そんな、佐穂彦が……死……」
織瀬の頭のなかを、前世の記憶が巡った。──前世の仇敵だった龍守は、今世では織瀬の協力者となっている。過去で失われていた隼人の右腕は無事であり、侍女たちも何事もなく織瀬のそばに仕えている。多くの出来事が前世とは変わっている。
それでも、全てを救うことは出来なかったのだ。
*
「私は……私は何と浅はかなのでしょうか。運命を変えられると驕っていたことへの、これが罰なのでしょうか」
ぽつりと呟かれたその言葉の意味を図りかねて、龍守は眉根を寄せる。
「織瀬姫……?」
「殺すなら……私を殺せば良かったのに。自分の失態の責任は私がとるべきなのに……なぜ、佐穂彦を……」
翡翠色の瞳は虚ろに乾いたままだったが、細い指先がかたかたと震えている。
「ごめんなさい、ごめんなさい佐穂彦……。私が愚かなばかりに……」
「織瀬姫」
龍守は再びそう呼びかけるが、その瞳は伏せられたまま龍守を見ようとはしない。悲嘆に暮れているのは明らかなのに、涙ひとつこぼさず己を責め続ける織瀬の姿は、龍守の眼にひどく痛々しく映った。
(このような時は、抱き寄せて慰めるべきなのだろうが……)
軽々しくそのような行動をとることが躊躇われて、龍守は伸ばしかけた腕を下ろす。
(織瀬姫も、このような事態は当然覚悟していただろう。皇族に命の危険があるゆえに、由比と飛燕を皇宮に潜入させるなどという危険な策を取らざるをえなかったのだから……)
鷹比古が非難したように、龍守もこの一件については無謀であると感じていた。
しかし自分の身内が危険に晒されている状況で、しかも隠し通路という存在があるのならば、龍守とておそらく織瀬と同じ行動をとっていたことは疑いない。実際龍守が織瀬を皇宮から連れ出した件も、無謀であったという点は変わらないのだ。
龍守が成功し、今回の一件が失敗したのは、運の良し悪しに依るところも大きいだろう。
(そう、運が悪かった……。しかし、本当にそれだけか?)
胸のうちで疑問が首をもたげるが、その疑問を処理するよりも今優先すべきは織瀬である。龍守は織瀬の瞳を真剣な眼差しで見つめる。
「織瀬姫、お聴きください。……葛城乙彦は残された皇族や官吏、民たちを連れて帝都を出たそうです」
「帝都を……。まさか、遷都……行き先は桜華ですか」
「……その通りです」
まるで未来を見てきたかのようなその発言を訝しみつつ、龍守は頷きを返す。
「……私のせいです。あのような地下通路が存在する宮などに、葛城公爵が居座るはずがありません。帝都を追い立てられた者たちに、何と謝罪すれば良いのか……」
「織瀬姫。ご自身の行動を反省することは必要ですが、自責の念にかられている暇があるなら別のことに眼を向けるべきです」
「別のこと……」
「申し上げました通り、この遷都はおそらく突発的なものです。同行を躊躇った貴族は財産を掠奪され、民を帝都から出すためにそこここで放火や家屋の破壊などが行われたようです」
「そんな……」
「これから諸将を集めて軍議を行います。そこで俺は葛城乙彦を追撃するのではなく、帝都に残された民たちを慰撫することを第一とすべきと提案するつもりです」
「民たちを……」
ようやく顔を上げた織瀬に、龍守はそっと微笑みかける。
「そうなれば、貴女の手をお借りすることもあるでしょう。……どうか過剰にご自身をお責めになりませぬよう。冷たいようですが、起こってしまった出来事を変えることはできません。今はこれから何を為すべきか、それを共に考えましょう」
「龍守殿……」
「織瀬姫、貴女はどうやら悲しむことが不得手のようですね。……今ここには俺しかおりませんから、泣いても構わぬのですよ」
昨夜織瀬が龍守に対して言ったものと似た言葉をかけると、みるみるうちに織瀬の顔に感情の色が滲んだ。先ほどまで生気が感じられなかった翡翠色の瞳から、雫がひとつこぼれ落ちる。すると堰を切ったように両目から涙があふれ、花びらのような唇から嗚咽がもれた。
「私……私、弟を助けたかったんです……。私ひとりだけ逃げてしまったことが、申し訳なくて……私のことは貴方が助けてくれたから、今度は私が弟たちを助ける番だと……」
震える華奢な身体は、ひどくか弱く見えた。今度は自然と伸びた龍守の手が、宥めるように織瀬の背をさする。
(葛城乙彦、豺牙、そして紅蘭皇女──。お前たちにもお前たちなりの理由があるのだろうが、織瀬姫の涙の分の償いはしてもらうぞ)
遠く離れた新都桜華に狙いを定めるように、龍守は紅い瞳を細めた。
*
「──那岐山侯爵。姫様をお慰めくださり、ありがとうございます」
織瀬の様子が落ち着いたことを見届けた龍守が天幕を出ると、皇女付の二人の侍女が深々と頭を下げた。織瀬は今、天幕のなかでひとり横になっている。後は織瀬自身で心の整理がつけられるまでは、邪魔をするべきではなかった。
「立ち聞きとは無粋な真似をする……と言いたいところだが、お前たちの立場上仕方ないか」
途中から天幕の外に気配を感じていた龍守は、軽く肩を竦めた。すると、菊理がぽつりと呟く。
「……あたし、あんたのこと誤解してたわ」
「ん?」
「眼の前に傷心の美女がいたら、迷わず押し倒す奴かと思ってた」
「おい、菊理!」
明瑠が慌てて、菊理の二つに束ねた髪の片方を引く。
「ははっ。まあ、その認識はあながち間違ってはいないがな」
乾いた笑いを響かせたのち、龍守は複雑そうに唇を歪める。
「……あのように純粋な姫君を、俺が穢すわけにはいかんだろう」
「……?」
自嘲的ともいえるその言葉に侍女たちは小首を傾げるが、龍守は誤魔化すように話題を変えた。
「ところでお前たち、今回の事の顛末は聞いているな?」
「……はい。倶知比古殿から聴きました」
「それにしてはお前たち、あまり動揺していないのだな」
「私たちは翠蓮宮の侍女です。皇帝陛下とはあまり接点がございませんでしたから──」
「さすがに可哀想だとは思うけど……あたしは皇帝嫌いだったから、別に」
投げやりな菊理の発言に、明瑠が慌てる。
「菊理、お前はまた……!」
「明瑠だって気づいてたでしょ! あの子──皇帝はいつもいつも姫様に甘えてたけど……時々、葛城乙彦と同じ眼で姫様を見てたんだから!」
「……」
明瑠は無言で唇を噛む。
由比と飛燕の証言を裏付けるような菊理の叫びに、龍守はこめかみを押さえた。
「……菊理。今の発言、織瀬姫の前では慎めよ」
「分かってるわよ、それくらい。でもあんたには言っておいたほうがいいでしょ」
「……どういう意味だ」
「え、嘘でしょ惚けてんの? ……まあ良いわ。私はまだちょっと疑ってるけど、姫様は完全にあんたのこと信用してんの。だから絶対裏切らないでよね」
「言われるまでもないな、それは」
面白い冗談を聞いたように、龍守は形良い眉を上げた。
「では俺は軍議があるのでもう行くぞ。……それこそ言われるまでもないだろうが、織瀬姫を頼んだぞ」
龍守はふっと唇を緩めると、その場を去って行った。
「……お前の物怖じのなさはどこから来るんだ、菊理。私は肝が冷えたぞ」
すっかり高くなった陽の光のもと、輝く金の髪が見えなくなってから、しばらくして。明瑠が呆れたような溜め息混じりに言った。
それに対し、菊理は不本意そうに頬を膨らませる。
「だって一応釘は刺しとかないじゃない。効くかどうかは分かんないけど……。姫様あんなに頑張ってたのに結局皇帝は殺されちゃったし、珀亜様もたぶん桜華に連れてかれちゃったんでしょ? このうえ那岐山龍守にまで裏切られたら……」
「──私は今の那岐山侯爵が裏切るとは考えづらいと思うが」
「あたしもそう思うけど、あいつ姫様の前世でやらかしてるみたいだし、用心するに越したことないでしょ。……それに、今の姫様は那岐山龍守のこと信用しきってる。もしあいつに裏切られたら、今回の事以上に姫様は……」
「……そうだな」
明瑠と菊理は、織瀬のいる天幕に向けて憂うような眼差しを向けた。




