第二十九章 想い、そして暗雲
優しい朝の光と鳥たちの奏でる旋律に揺り動かされ、織瀬はゆっくりと瞼を開いた。まだ覚醒しきっていない頭で、周囲に視線を巡らす。
(ここは……私の天幕ではないわ。それにこの香り……)
身体にかけられた毛布の香りから、ある人物の顔を思い浮かべた時、
「お目覚めですか、織瀬姫」
「……ッ……!?」
織瀬はがばりと跳ね起きると、恐る恐る声のしたほうへ眼を向けた。そんな織瀬の様子に、声の主は込み上げる笑いを押し殺すような仕草を見せる。
「ふっ、まるで妖にでも遭ったような顔ですね。……そのような反応をされると揶揄いたくなってしまう」
ぽつりと呟かれた後半の言葉を聞き取れなかった織瀬は、毛布を握りしめながら眼を泳がせる。
「た、龍守殿……!? あ、あの……なぜ貴方がここに……」
「なぜと言われても、ここは俺の天幕ですから」
「……ええっ!?」
「覚えていませんか? 昨夜何があったのか」
「昨夜って……え、私何かしましたか……?」
「お忘れとは悲しいですね。あのように熱い夜を過ごしたのに」
「え……ええっ!?」
これ以上ないほど頬を紅潮させる織瀬に、龍守はたまらず吹き出した。
「冗談ですよ」
「……え」
「貴女も相当お疲れだったのでしょう。俺が気づいた時には寝息を立てていらっしゃいました」
「あ……」
龍守と会話を交わしているうちに、だんだんと思考がはっきりしてくる。そして目覚めた頭で昨夜の出来事を思い返した織瀬は、穴があったら入りたい気持ちになった。
(わ、私……龍守殿の手当てをしに来ただけだったのに、色々と説教じみたことを言ってしまうし、あげくの果てには……)
普段の印象とは違う、脆く壊れてしまいそうな龍守を放っておくことなどどのみち出来なかったであろうが、
(龍守殿に触れたまま……そのまま眠ってしまうなんて、なんてことをしてしまったの……!)
あまりの醜態に織瀬は頭を抱えた。ある意味、黄泉がえり後最大の失敗かもしれない。
これ以上ないほど頬を紅潮させて唸る織瀬を見やり、龍守がくすりと笑った。
「織瀬姫は、初めてお会いした時よりも表情が豊かになりましたね」
「……え?」
急にそんなことを言われて、織瀬は眼を丸くする。
「初めて会った時の貴女は、常に美しい微笑みを浮かべてはいるものの、ご自身の内面を見せようとはされませんでしたが……。そうして表情をころころと変えられているほうが可愛らしい」
「か、可愛っ……!?」
立場上過剰な褒め言葉には慣れているはずなのに、なぜが龍守に言われると織瀬の頭は沸騰しそうになった。
一方さんざん織瀬の心を翻弄したにも関わらず、龍守は何事もなかったように話を元の道筋に戻す。
「それはともかく昨夜のことですが──あのあと貴女の侍女を呼ぼうかとも思ったのですが、貴女があまりに気持ち良さそうに眠っておられたので、そのままそちらの寝台に寝かせたのです。……ああ、さすがに俺は一緒には寝ておりませんよ。そちらの長椅子で休みましたし、寝台にお運びする時以外は指一本触れておりませんのでご安心を」
「そ、そうですか……」
何と言葉を返したら良いか分からず、織瀬は視線を落とす。
「その、申し訳ありません。龍守殿もお疲れだったのに、私が寝台を使ってしまって──」
「どうぞお気になさらず。……それに貴女の心労の幾許かは俺のせいでしょう。お見苦しい姿をお見せしたことも含めて、謝罪せねばならぬのはこちらのほうです」
「いえ、そんな謝罪などと……」
「それから礼も言わせてください。昨夜の俺は非常に情けない男でしたが……そのような俺を受け入れてくださったこと、感謝いたします」
「龍守殿……」
「貴女との約束を果たすために、もうあのように情けない姿はお見せしないと誓いましょう」
そう笑う龍守の瞳には、見慣れた輝きが戻っていた。
「さて。お互い昨夜は着替えもせずに寝てしまいましたからね。織瀬姫、身支度をなさるならここに貴女の侍女を呼びましょうか?」
「そうですね……」
深く考えずそう言いかけた織瀬だが、龍守の唇に浮かぶ笑みに気づき、はっと返事を翻した。
「い、いえ! 私は自分の天幕へ戻ります!」
慌てて立ち上がる織瀬を見やり、龍守は再び肩を揺らす。
「おや、残念ですね。……それでは近くまでお送りしましょうか」
楽しそうに笑う龍守を不満げに見やったものの、織瀬は先に歩き始めた龍守に続き天幕を出る。すると柔らかな朝陽が二人のうえに降り注ぎ、その光は龍守の金色の髪を一層眩しく輝かせた。
(なんて、綺麗なの……)
急にそんなことを思い、織瀬は龍守から眼が離せなくなってしまった。龍守の容姿が優れていることは、勿論織瀬とて認識している。だがなぜ今になって、その姿がこんなにも眩しく感じるのだろうか。痛いほどに高鳴る胸を押さえながら、織瀬は不可解さに頭が破裂しそうだった。
「どうしました、織瀬姫。戻られるのでしょう?」
振り返った龍守が、僅かに眉を上げながら問いかける。
「織瀬姫?」
「あ……す、すみません。今行きます」
はっと我に返った織瀬は、慌てて龍守の後を追いその隣に並んだ。陣中ではすでに多くの兵たちが目覚め、そこここで朝餉のための煙が上がっている。
「龍守様だ」
「良かった、お元気そうだな」
龍守と織瀬の姿に気づいた兵たちから囁きがもれる。
(皆、龍守殿のことを心配していたのね……)
ほっとしたような兵たちの表情を見て、織瀬は胸が温まるように感じていたのだが、
「翠蓮皇女殿下もご一緒だ。お近くで見るのは初めてだがお美しいな……」
「……」
そんな呟きが聞こえた途端、龍守が眉を引き攣らせた。
「龍守殿?」
「ここは人目が気になりますね。さっさと参りましょう」
「……? はい」
急に歩調を速める龍守に首を傾げたものの、織瀬も龍守に合わせて足早に先へ進んでいく。そしてもう少しで織瀬の天幕に辿りつくというところで、両手に薪を抱えた隼人と出くわした。
「おっ、こんな朝早くから散歩か? 二人とも」
「おはようございます、隼人殿」
「おう、おはよう姫さん。──それにしても」
織瀬に向かって快活な笑みを返したのち、隼人は龍守に向かってにやりと笑う。
「龍守お前、いやにすっきりした顔してんじゃねぇか。鷹比古に聞いた限りじゃ、だいぶ荒れてるもんだと思ってたけど」
「ああ。……俺は随分と心配をかけたようだな。すまなかった」
僅かに視線を落とす龍守に、隼人は眼を見張った。
「え、マジか。お前謝るとかできたの? こりゃ今日は嵐か竜巻かってところだな。……天気が悪いと、またお前頭痛が酷くなんじゃねぇの? 自分のせいだけど」
「お前、人が素直に頭を下げているのにその反応は何だ。蹴り飛ばすぞ」
「うわー、元気になった途端これだもんな。暴力反対!」
胸倉を掴む龍守に対し、隼人が抗議の声を上げた。一方隼人の一言が気になった織瀬は、二人の顔を交互に窺いながらおずおずと口を開く。
「あの、ずっと気になっていたのですが……お天気が悪いと龍守殿は体調が悪くなるのですか?」
「ええ、雷雨や嵐や……天候が悪いと決まって頭痛が酷くなりまして。物心ついてからずっとそうなので、もう諦めておりますが」
「アレだよな、気象病ってやつ? 前の世界だとたまに聞いたな。俺は縁がなかったから詳しくねぇんだけど」
「そうなのですか……」
織瀬の胸に、不安が黒雲のように広がっていく。
(『白蓮国記』の記述でも、隼人殿が言っていた物語の結末でも、龍守殿は若くして病に倒れていた……。もしかしたらその原因は……)
眉根を寄せて考え込む織瀬を、龍守が覗き込む。
「織瀬姫、如何されました」
「あ……いえ。何でもありません」
織瀬は湧き上がってくる懸念を微笑みで誤魔化す。
(後で華彰に相談してみましょう。どうも龍守殿はご自分の体調に無頓着のようだし……)
そうしているうちに自身の天幕へと辿りついた織瀬だったが、入り口をめくると同時に首を傾げた。
「あら? 明瑠も菊理も戻っていないのですね」
「ああ、そうだった。あの二人には怪我人の手当てとか色々頼んじまってて……」
ばつが悪そうに隼人が視線を彷徨わせる。
「まあ、そうなのですか」
「悪いな、あんたの侍女なのに」
「いいえ、お役に立てているならなによりです。……それでは私は失礼いたしますね。龍守殿、送っていただきありがとうございました」
織瀬は龍守と隼人に微笑みかけると、天幕の中に姿を消した。
*
──それから、しばらくして。
「おい龍守、貸しだからな」
にやにやと笑いながら、隼人が龍守の肩に腕を載せた。
「……何のことだ」
「すっ惚けるんじゃねぇよ。こっちは気ぃ使ってじゃじゃ馬たちを外に出したんだ、姫さんの朝帰りがバレねぇようにな。……何か言うことあるんじゃねぇの? ん?」
「……偉そうに。どうせお前ではなく倶知比古あたりの計らいだろう」
「いいんだよそんなの誰だって。……いやーしかし意外だな。お前どっちかっつーと年下はあんまりだったじゃねぇか。いつも人妻とかそんなんばっかり……ぐえっ!」
龍守は無言で隼人の鳩尾に拳を叩き込む。隼人の喉からは、まるで蛙が潰れたような声がもれた。
「誤解を招くようなことを言うな。俺は人妻に手を出したことはない。……未亡人ならあったかもしれんが」
「似たようなもんじゃねぇか」
「似て非なるものだ。……というか、それを織瀬姫の前で言ったら叩き斬るぞ」
「ええ〜どうしよっかな……って止めろ、ホントに止めろ!」
刃がぶつかり合う鋭い音が響いた。眼にも止まらぬ速さで抜かれた龍守の刀をすんでのところで受け止めた隼人は、それを押し返しながら冷や汗を垂らす。
「おいふざけんな! 今お前本気で斬りかかりやがったな! 薪も散らかっちまったしどうしてくれんだよ!」
足元に散らばった薪を一瞥したのち、龍守は舌打ちする。
「ふざけるなは俺の台詞だ。……いいか。確かに昨夜のことは誤解されても仕方ないが、俺は誓って織瀬姫に手を出してはいない」
「……え、マジで? あれだけの美女とあの状況で一晩過ごして何もなかった? ……お前が?」
隼人は鳶色の瞳を丸くする。
「嘘だろ……火傷で頭の中まで焼かれちまったのか? それとも別人格が憑依でもしたか?」
「また新しい概念を持ち出してきたな。……とにかく織瀬姫の名誉のためにも言っておくが、お前の思っているようなことは一切ない」
「……そうなのか」
隼人はなぜか残念そうな声を漏らした。
「何だその顔は」
「いや……なんつーか、良い娘じゃねぇか、姫さん」
「そうだな。……だからこそ、軽々に手は出せん」
龍守はくしゃりと前髪をかき上げる。
「昨夜の俺はうかつだった。……織瀬姫は皇女だ。妙な噂ひとつで命取りになりかねん」
「え、今更じゃね? お前さんざん姫さんと結婚するだの言ってたし、あの豺牙って奴も姫さんネタにして煽ってたって鷹比古から聞いたぜ?」
「……とにかく今後は自重せねば。できるかどうかは分からんが」
「何だソレ。つーかそんなに気にするってことは、お前姫さんに本気なのか?」
「……さあな」
龍守はくるりと身を翻すと、隼人を置いてすたすたと歩きだした。
「うわっ、肝心なところで誤魔化すんだもんな。……おい、待てよ龍守!」
慌てて薪を拾いながらそう呼ばわる隼人の声に、
「──龍守様! 大変です!」
もうひとつ龍守の名を呼ぶ声が被さった。
「倶知比古か。どうした、そんなに慌てて」
「た、龍守様。それが……」
倶知比古が膝に手をついて息を整えている間に近寄って来た隼人が、拾い上げた薪を持ったまま肩を竦める。
「相変わらずひ弱だなー倶知比古。息切れしてんぞ」
「うっ……五月蝿い、です……。そんなことより龍守様、大変なのです……。今帝都へ送っていた者たちが帰還したのですが、その者たちが信じがたいことを申しておりますのと、それから──」
「ああ、あの東苑軍の二人か。そうだ、まだ龍守には言ってなかったな。実はさ──」
「隼人殿、その説明も必要ですが順を追って話しますので少し黙っていてください……! 龍守様、隼人殿が言いかけたことについては後でご説明いたしますが、それとは別に鷹比古先生の配下からの報告です」
そこで倶知比古は一度言葉を切る。
「葛城公爵が、皇族と百官、それに一部の民たちを連れて帝都を出たそうです」
「……なんだと?」
龍守の形良い眉がしかめられた。
「葛城乙彦……やってくれたな。しかしなぜこの時機に……」
「え? 何だどういうことだよ?」
きょとんとする隼人に、倶知比古が苦々しげに説明する。
「葛城公爵は帝都を捨てたのですよ、隼人殿。遷都──都を新たな土地に遷すつもりです。申し訳ありません、龍守様。これは我らの失態かも知れず……」
「その失態とやらについては歩きながら隼人から聞こう。──倶知比古、鷹比古も交えてその東苑軍の二人から話が聞きたい。その後は本陣に諸将を集めて軍議だ。手配せよ」
「……かしこまりました」
深く頭を下げたのち、倶知比古はもと来た道を駆け戻って行く。
「どうも雲行きが怪しくなって来たな」
頭上にはまるで青玉を映したかのような空が広がっているにも関わらず、龍守はそう呟かずにはいられなかった。




