第二十八章 ぬくもり
皆の前で大口を叩いたはいいものの、織瀬の胸に不安がないわけではなかった。龍守が怒りを露わにするところを見たのは彼が陶州へ出陣する前の一度きりだが、怒りと表現するには生温い、まさに憤怒という言葉が相応しいその時の龍守を思い出すと、二の足を踏みそうになる。
(……しっかりしなさい、織瀬。貴女が行かなければ、誰も龍守殿の手当てができないのだから)
そう自分自身を叱咤しながら、織瀬は龍守の天幕へと向かった。明瑠から託された薬と様々な治療用具が入った箱をまるでお守りのように抱きしめて歩いていくと、
(……あら? あれは……)
見慣れた線の細い青年が、心配そうに天幕の周辺を行き来していた。
「倶知比古殿?」
「……ッ!? あ、織瀬姫様でしたか……」
飛び上がらんばかりに肩を震わせた倶知比古は、自分の名を呼んだのが織瀬であることに気づき、ほっと安堵の微笑みを浮かべた。
「倶知比古殿、龍守殿に会いに来られたのですか?」
「ええ。お怪我をなさっていると聞き、心配で……。しかしいくら呼びかけても応えてくださらなくて」
「……そうですか」
倶知比古の視線の先を追うようにして、織瀬も龍守が居るであろう天幕へと目を向ける。
「……龍守様はお強いかたですが、他人に弱みを見せるのを極端に嫌われるのです。こうなってしまうと隼人殿でも手がつけられなくて……。ですがこのまま放っておくわけにもいきませんから」
「隼人殿でも……。そうなのですか」
倶知比古の言葉に不安はいや増すばかりだが、織瀬はそれを振り切るようにきゅっと唇を引き結んだ。
「倶知比古殿、私は龍守殿の手当てをするために参りました。華彰や明瑠のように上手くはできませんが、よく効く薬がありますのでご安心ください」
「織瀬姫様……しかし……」
心配そうに見つめる倶知比古に微笑みを返すと、織瀬は意を決して天幕の内に向かって呼びかけた。
「龍守殿、織瀬です。負傷されていると伺ったので薬をお持ちしました。中に入ってもよろしいでしょうか」
しばらく待つが、龍守からは何の反応もない。
「……仕方ありませんね」
織瀬はひとつ息をつくと、躊躇いもなく天幕の入り口をめくった。
「織瀬姫様……!」
慌てる倶知比古に向けて、織瀬は先程皆の前で言ったものと似た台詞を返す。
「大丈夫です。私は皇女なのですから、橘花国で立ち入れぬ場所など皇帝陛下の寝所くらいのものです」
「それは……」
「華彰の薬で治療したらすぐに出ますから心配いりません。……倶知比古殿も、どうか少し身体を休めてください。せっかく龍守殿や鷹比古殿が帰ってこられたのに、貴方が倒れてしまってはお二人が心配しますよ」
そう微笑みかけると、織瀬は天幕の中に足を踏み入れた。
*
織瀬が歩みを進めると、暗闇の中で蝋燭の小さな灯りが揺らめいた。
「……龍守殿ですか?」
「……」
手燭を手にした龍守が、奥から姿を現した。その灯りに照らし出された龍守の表情に、織瀬は胸を突かれるような心地を覚える。
龍守の紅い瞳に常にたたえられていた自信に満ちた光は影を潜め、かわりに虚ろな空白がその奥に見える気がした。
「──私はしばらく独りになりたいと言ったはずですが。私の配下は貴女に何も伝えなかったのですか? ……後できつく叱っておかねばなりませんね」
その言葉は、織瀬に対する明らかな皮肉だった。龍守にこのような冷ややかな声を浴びせられたのは、あの前世での邂逅以来だ。
「申し訳ありません。貴方がそう言っていたことは鷹比古殿から聞いておりますが──」
「ならばなぜ来たのです? 貴女がそのように人の気持ちを汲めぬかただとは思いませんでした」
「……」
一見怒っているようで、その奥に隠された感情を否応なく感じ取ってしまい、織瀬の胸は痛んだ。
「申し訳ありません。貴方の意向を蔑ろにしてしまったことは謝罪いたします。……ですがどうか、怪我の手当てだけはさせてくださいませんか。それさえさせていただければ、すぐに出て行きますから……。どうか、お願いいたします」
深く頭を下げる織瀬をしばし見つめ、龍守は絞りだすように言った。
「貴女は……なぜそこまでなさるのですか」
「ご不快にさせたことは謝ります。ですが──」
「そうではありません。……このように無礼な男のことなど、放っておけば良いのに」
「え……」
織瀬が顔を上げると、龍守は今まで見たことのないような儚げな笑みを浮かべた。
「こちらへどうぞ。……姫君を立たせたままにはできませんから」
「あ、はい……」
身を翻す龍守のあとに続き、織瀬は天幕の奥へと進んだ。龍守に促され、中央に敷かれた絨毯の上へ腰を下ろす。
「龍守殿。その……お怪我を見せていただけませんか?」
龍守は無言で織瀬に背を向けると、帯を緩め左袖を落とした。
「背中の……左側ですね。少し失礼を──」
手燭の灯りを近づけて患部を確認しようとしたところで、不意にどきりと心臓が音を立てた。考えてみれば、こんなにまじまじと男性の身体を見ることなど初めてである。
織瀬がどぎまぎしていると、ちらりと振り返った龍守が微かな苦笑を浮かべた。
「申し訳ありません。ご不快なものをお見せして」
「い、いえ。そういうわけでは……」
織瀬は内心の動揺を鎮めるように、ゆっくりと深呼吸をした。再び龍守の左肩のあたりを見ると、武人にしては白い肌が一層白く変色している。
「龍守殿、明瑠から怪我の状態について説明は受けていますか?」
「軽いとは言えぬので、戻ってから治療が必要とは言われましたね」
「私は明瑠ほどの知識はありませんが、この火傷は重症です。……少し沁みるかもしれませんが、失礼いたします」
織瀬は箱のなかから取り出した布に消毒のための薬を染み込ませ、そっと龍守の傷に当てた。瞬間、龍守の肩がわずかに引き攣れる。
「痛みますか?」
「……いいえ」
「本当ですか? 正直に言ってください」
「これくらい、何とも──」
「耐えられるかどうかではありません。痛むかどうかお聞きしているのです」
「……」
やや強い口調で織瀬が尋ねると、龍守はわずかに眼を見張ったのち口を開いた。
「……痛みますね」
「そうですか」
織瀬は安堵の息をつく。
「火傷は重症になるほど痛みがなくなるのです。痛覚があるのなら、華彰の薬で何とかなりそうです」
明瑠から預かった薬を取り出した織瀬は、それを丁寧に龍守の肌へ塗り込んでいく。
「火傷はその傷から穢れが入り込むことで悪化することがあります。患部を清潔にしてしっかり薬を塗っておきましたから、とりあえずはこれで様子を見ましょう。……ですが、後できちんと華彰に診てもらってくださいね。華彰は今、貴方と共に帰還した兵の手当てに当たっていますが、明日にはそれも落ち着くでしょうから」
そこで織瀬は僅かに躊躇うように眼を泳がせた。龍守の治療をするという当初の目的は果たせたので、彼の意思を尊重するならばここで立ち去るべきだったのだが、
「……龍守殿」
龍守の様子を見ているうちに胸の奥から言葉があふれるような感覚がして、自然と再び口を開いていた。
「──兵たちを労ることは大切ですが、どうかご自身のことも大事になさってください。私を助けてくださった時もそうですが、貴方は他人のことばかりでご自身を蔑ろにし過ぎです。貴方に何かあれば、心を痛めるかたが大勢いるのですから」
「……ふ……っ」
不意に龍守の唇から笑みがこぼれた。
「龍守殿……?」
「いや、失礼。貴女に説教をされるのはこれで二度目だなと思ったら、急に可笑しくなってしまいまして」
「二度目というと……」
「出陣前にも叱られました」
「あ……」
陶州攻めを諌めた時のことを思い出し、織瀬は居た堪れない気持ちになる。
「……あの時は大変申し訳ありませんでした。家臣のかたたちも居る前で、出過ぎた真似をしてしまって」
「なぜ謝るのですか。──むしろ私は貴女に礼を言いたかったのです」
「え……」
「織瀬姫、私は貴女に感謝しております。貴女が私を諌めてくださったおかげで、私は道を踏み外さずにすみました」
龍守は微笑を浮かべて織瀬を見つめる。
「陶州で、私の父たちを殺した民と会いました。──貴女の仰る通りだった。誰一人、己の意思で刃を手にしてなどいなかった。みな自分の家族を守るために、泣く泣くその手を血に染めただけでした。一時の激情のまま彼らを屠っていれば、私は一生消えない後悔を背負っていたことでしょう」
「龍守殿……」
「人払いをしたのは、貴女が居なければそんな愚かな行いをしていたであろう私自身に嫌気が差したからです。先程貴女がいらした時にしてしまったように、誰彼構わず当たり散らしてしまいそうだったので」
龍守はくしゃりと前髪を掴んで嗤う。
「自分自身が情けなくてどうにかなってしまいそうだった。……織瀬姫、貴女にも随分と酷い事を言いました。家族を殺された痛みがわからないなどと──貴女がどのような境遇にいたのか、私は知っていたはずなのに」
「……」
顔を上げようとしない龍守を見つめ、織瀬はきゅっと拳を握りしめる。
「龍守殿、貴方は情けなくなどありません。とてもご立派です。ご家族のことでお辛かったはずなのに、貴方は私の言葉を聞いてくださいました。ご家族を害した者たちと対しても、その事情を汲んで許されました。それは誰もが出来ることではありません」
「織瀬姫……」
「私は……私は本当は、貴方に偉そうなことを言える人間ではないのです。母が死んだあの日から──私は皇太后陛下のことが憎くてたまりませんでした。今まで何もしなかったのは、ただ私にそれだけの力がなかったからに過ぎません。もしあの時の私に──いえ、今でも私に貴方と同じだけの力があったなら、私は躊躇いなく皇太后陛下に復讐しているでしょう」
織瀬の翡翠色の瞳が、自嘲的に揺れる。
「力を持ちながらもそれを使わない選択が出来る。それは貴方が本当に強い心を持っているからこそ出来たのだと、そう私は思います」
「……」
龍守は言葉もなく織瀬を見つめる。その紅い瞳に映る自身の姿に気づき、織瀬は急にきまりの悪さを感じて視線を逸らした。
「も、申し訳ありません。また出過ぎたことを言いました。私はこれで失礼いたしますね。どうかゆっくり休んで──」
「織瀬姫」
立ちあがろうとした織瀬の手首が引かれた。
「龍守殿……?」
「申し訳ない。少しだけ……少しだけ肩をお貸しいただけませんか」
その言葉の意図が分からず織瀬は首を傾げるが、
「……はい」
自然とそう返事をしていた。
「ありがとうございます」
ふわりと、甘い麝香の香りが鼻腔をくすぐる。眼の前を金の髪が過り、肩にぬくもりを感じた。
「龍守、殿……?」
織瀬の肩口に、龍守の額が載せられる。織瀬の手首に触れている龍守の手が、わずかに震えていた。
「あ、あの……龍守殿……」
「俺はずっと怒るばかりで……父たちの死を悲しむことが出来ていませんでした」
龍守の声音に、織瀬は心の奥底に押し込めていた思いを呼び起こされるような感覚がした。
(そうだわ、私も……お母様やお父様が亡くなった時も、前世で明瑠や菊理が命を落とした時も、私は泣けなかった。泣くことなど出来ないと思っていた……)
触れ合った部分から、龍守の思いが流れこんでくるようだった。
(家名を背負い、家臣を抱える龍守殿は、私などよりもきっと多くの重圧を感じているのでしょう)
織瀬は躊躇いつつも、龍守にされるがままになっていた。今の龍守には、何かに縋ることが必要なのだろう。そしてそれには、龍守の家臣ではない織瀬が最も適役なのだろうと思われた。
「上に立つ者が弱みを見せてはならぬと……部下を不安にさせてはならぬと、ずっとそう己に言い聞かせていたのです」
力なく紡がれた言葉に、織瀬の胸が切なく音を立てる。怪我に障らぬよう、織瀬はそっと龍守の腕に触れた。
「龍守殿。今ここには私しかおりませんから……家臣のかたは誰もおりませんから、ご自身を抑えなくても良いのですよ。私などでよろしければ、何を言っていただいても構いませんから」
「織瀬姫は俺を甘やかし過ぎですね。こんな無礼で情けない男など、罵倒してくだされば良いのに。本当に、本当に貴女は……」
ふっと龍守が嗤う。
「申し訳ない。……少しだけ、このままでいさせてください」
「……はい」
間近に龍守の息遣いを感じ、織瀬の胸は様々な感情を含んだ音を刻んでいく。前世の経験から男性に触れられることに恐怖を感じていたはずなのに、織瀬のなかに龍守を拒絶するという選択肢は浮かびすらしなかった。




