第二十七章 帰還
織瀬が希望を託した東苑軍の二人の兵士が陣を離れてから、数日が経った。危険を伴う任を引き受けてくれた由比と飛燕の二人には感謝してもしきれない。成功するかどうかは、どう楽観的に見積もっても五分五分としか言えぬのだから。
(いざとなれば自分たちの命を第一に考えるようには伝えたけれど、忠義心に厚そうなかたたちだったから……。せめて珀亜と合流できれば何とかなるかもしれないけれど……)
年齢に見合わぬ才覚と胆力を持った弟の顔を思い浮かべ、織瀬は祈る。
(どうか、どうか上手くいきますように……)
誰かに希望を託し祈ることしかできない、そんな自身の無力さが歯痒かった。
「……姫様、まだ起きてたんですか?」
織瀬がひとり物思いに耽っていると、静かに天幕の入り口が開かれ、菊理が顔を覗かせた。菊理も今ではすっかり連合軍に馴染み、偵察部隊の中心として軍に欠かせない存在となっている。
「菊理、こんな遅くまでお疲れ様。……倶知比古殿に報告をしてきたの?」
「はい。だけどどうも倶知比古も煮詰まってるみたいですね。やっぱり大将と師匠がいないと不安なのか、眼の下に隈ができてますよ。……馬鹿男は隅っこでイビキかいてたけど」
「そう……」
「てゆーか、姫様も眼の下すっごいですよ。あたしが数日空けたあいだ、ろくに寝てなかったんでしょ?」
「それは……」
図星を突かれた織瀬は眼を泳がせる。
「もう、ちょっと眼を離すとこれなんだから。不安でもちゃんと寝て食べなきゃ駄目ですよ。姫様が倒れでもしたら、それこそ周りが心配して大変なことになるんですからね」
「……ありがとう、菊理」
微笑む織瀬に、菊理は溜め息まじりに肩を竦めた。
「皇宮に送りこんだ兵士たちが心配なんでしょうけど、命じた以上は信じてあげなきゃ駄目ですよ。それが上に立つ人の務めです。……姫様が不安そうにしてたら、周りも不安になっちゃうし」
「そうね。貴女の言う通りだわ、菊理」
およそ皇女に対する侍女の発言とも思えないが、織瀬は不快な表情ひとつ見せずに、素直に菊理の諫言に頷いた。そんな主の振舞いに、菊理は苦笑いを浮かべる。
「姫様はちょっとあの金髪野郎──もとい、那岐山侯爵を見習ったほうがいいですね。あそこまで自信たっぷりだと、たとえハッタリでも味方はなんか大丈夫かもって思うだろうし──」
そう言いかけて菊理はハッと口を噤む。龍守の名を出した途端、織瀬の顔色が曇ったことに気づいたのだ。
「……陶州からはまだ何の報告もないんですか」
「ええ。陶州に到着したという知らせを最後に、伝令も何も……」
「あの男、報連相もなってないんじゃ社会人失格ですね」
菊理はわざと軽い口調で言う。
「大丈夫ですよ、姫様。便りがないのは良い便りって言うじゃないですか。大体あのふてぶてしそうな男がどうこうなるとか想像出来ないでしょ?」
「それは……確かにそうかも」
「そうそう。だから心配するだけ損ですよ。……あ、そうだ」
菊理は急に何かを思い出したように懐に手を入れた。
「姫様。渡しそびれてたんですけど、この本……」
菊理が差し出した書物を見て、織瀬は思わず声をあげた。
「これは『白蓮国記』……!? 菊理、持って来てくれていたの?」
「はい。……でもすみません。最初に皇宮を出て姫様を探す時になくしたらいけないと思って、華彰を隠れさせてた小屋に一緒に隠してたんですけど……取りに行くのすっかり忘れてて……」
「いいえ、ありがとう」
織瀬は消えかけていた燭台に新しい蝋燭を灯し、早速書物を開く。しかしぱらぱらと頁をめくり始めてすぐに、ある違和感に気がついた。
(……やはり気のせいではなかった。最後に見た時よりも、空白の箇所が増えている)
織瀬は柳眉を寄せて考え込む。
(もし……もしこれが前世の記録なのだとしたら、この消えた頁に書かれていたものは……)
織瀬は武帝紀──那岐山龍守の伝が記された項目を開く。
(やはり……陶州の虐殺に関する記述がない……)
もともとこの部分には、文字を追うだけで苦しくなるような出来事が記録されていた。陶州攻めを表現すれば、まさに屍山血河──実際にその光景を目にしていなくても、背筋が凍るような描写が続いていたのだが。
(龍守殿……良かった。思いとどまってくれたのね……)
眼の奥がじわりと熱くなる。そっと口元を押さえて目を閉じる織瀬を、菊理が心配そうに覗き込んだ。
「姫様、どうしたんですか? この本が何か──」
「菊理。また私おかしな事を言うのだけれど、笑わないで聞いてくれるかしら?」
「……笑いませんよ。今度は何です?」
「あのね──」
そして織瀬は菊理に『白蓮国記』がどういった書物なのか、自分の考えを語った。
「──つまりこれには姫様の前世で起こった出来事が書かれているけど、そのなかで今世では起こらなかった出来事の記述がどんどん消えてってるってことですか?」
「ええ。……おそらく、なのだけれど」
「……姫様の時間逆行だけでも訳わかんないのに、この上ファンタジーな本か……」
「え? なあに、菊理?」
「いえ、何でもないです。それより姫様、自分の記述は確認してないんですか? 姫様の推測が当たってるなら、紅蘭皇女に殺されるところは──」
「おーい姫さん! まだ起きてるかぁー?」
不意に天幕の外から大声が聞こえ、織瀬はびくりと肩を震わせた。
「……この声、隼人殿よね?」
「あの馬鹿男、普通に声かけらんないの?」
菊理は額に青筋を浮かべながら立ち上がると、つかつかと天幕の入り口に向かって行った。
「あんたねぇ、いつもいつも五月蝿いのよ! 何が『起きてるかぁ?』よ! あんな馬鹿でかい声出されたら、寝てても起きるっつーの!」
「お、じゃじゃ馬帰ってたのか」
「あんたがぐーすか寝てるあいだにね! ……っていうかうちの姫様に何の用よ! くだらないことだったらぶん殴るわよ!」
「──隼人殿、どうなさったのですか?」
二人のやりとりが気になり、織瀬も天幕の外に出たのだが、
「……あれは……」
遠くに見える松明の灯りを認めて、織瀬は翡翠色の瞳を大きく見開いた。
「ああ」
ぱっと面を輝かせる織瀬に、隼人が笑いかける。
「龍守が帰ってきたぞ」
*
肩にさっと上衣を羽織り、織瀬は隼人や菊理たちと駆け出した。そして彼らとともに、帰還した龍守たちを迎えようとしたのだが、
「……こりゃ結構やられたみてぇだな。つーか龍守どこだ?」
多くの負傷兵が目立つなか、隼人が鳶色の瞳を巡らせる。龍守の姿が見えないことに一抹の不安を覚えつつも、織瀬は兵士たちのなかから進み出たほっそりとした女性の影に、思わず目を潤ませた。
「明瑠……!」
織瀬の呼びかけに、馬の背から降りた明瑠が駆け寄ってくる。
「姫様! ただいま戻りました」
「明瑠、良かった。貴女が無事で……」
「それが、私はほぼ無傷ですが……一部の兵や那岐山侯爵は……」
「何だって!?」
龍守の名を聞き咎め、きょろきょろと辺りを見回していた隼人が振り返る。
「明瑠! 龍守がどうしたんだよ!?」
「……火攻めをうけたのです。丹陽伯爵は人質にとっていた陶州の民もろとも我らを焼き殺そうとして……殆どの者たちは脱出できたのですが、一部の逃げ遅れた者を庇って那岐山侯爵が負傷されて……」
「その肝心な龍守はどこに居んだよ!」
隼人の問いかけに答えようと明瑠が口を開きかけた時、
「──龍守様はすでにご自身の天幕へお戻りです」
不意に現れた鷹比古が、淡々とした声音でそう言った。途端に隼人が鋭い視線を鷹比古に突き刺す。
「鷹比古! お前が付いていながら何やってんだよ!」
「……申し訳ございません。私も冷静さを失っておりました」
「鷹比古殿。龍守殿の怪我の具合はいかがなのですか」
そう織瀬が尋ねると、鷹比古はちらりと織瀬を見やったのち、眉間に深い皺を刻んだ。
「明瑠殿が応急処置はしてくださいましたが……」
鷹比古の言葉を受けて、明瑠が口を開く。
「火傷は負傷して数日後に急変することもあるのです。ですからこちらに戻り次第、きちんと治療したかったのですが……」
「龍守様が、ひとりになりたいゆえ誰も近づけるなと。それと治療なら、自分よりも兵たちを優先しろと仰いまして」
「あの馬鹿──!」
隼人が額を押さえながら吐き捨てた。
「先程華彰先生からいただいてきた薬があるので、せめてこれだけでも使わせてくだされば良いのですが……」
明瑠の手の中にある薬をしばし見つめ、織瀬は顔を上げた。
「それでしたら、私が行ってきます」
「姫さん……」
「翠蓮皇女殿下、お気持ちはありがたいのですが、このような時に命令に背くと龍守様は大変お怒りになられて──」
鷹比古の口調には懸念が滲むが、織瀬は柔らかな微笑みを浮かべる。
「私が龍守殿に叱られて、それで龍守殿の治療ができるなら安いものです。……それに私は皇女ですから、龍守殿に拒否されても立場をかさに来て押し入ります」
平然とそんなことを言う織瀬に、周囲の者たちは目を見張った。
「姫様……。さっきあたしが見習えなんて言ったから……言動がおかしくなってる……」
菊理の呟きを背後で聞きながら、織瀬は明瑠から受け取った薬をそっと手の中に包み込み、龍守のいる天幕へと向かった。




