第二十六章 裏切り
「紅蘭姉上……」
珀亜は苦虫を噛み潰したような表情で、少女の名を口にした。そんな珀亜とは対照的に、皇帝佐穂彦はぱっと顔を喜色に染める。
「紅蘭姉上! 姉上も一緒に逃げるんだね!」
「……陛下、お待ちを」
同腹の姉に向かって駆け出そうとする皇帝を、珀亜は押し留めた。
ぎゅっと眉根を寄せて睨みつけてくる珀亜を扇ごしに見やりながら、紅蘭が笑う。
「ふふっ……あら、よく見ればもぐらは二匹だけだったわ。陛下と南陽皇子はこんな時分にお散歩かしら? それなら私も誘ってくだされば良かったのに、薄情ですわ」
ころころと笑う紅蘭の声を聞きながら、珀亜は指先から熱を奪われていくような心地がした。
「──それにしても、皇宮の地下にこんな通路があったなんて。翠蓮お姉様はなぜご存知なのかしら。……私は何も聞かされていないのに」
翠蓮──その名を口にする時、愛らしいはずの紅蘭の顔が一瞬鬼のように見えた。
「……そなたたち」
珀亜はそっと前後を守る二人の兵に囁きかける。
「姉上から、この地下道の抜けかたは聞いているな?」
「はい。聞いておりますが……」
皇族を守るように立つ由比は、紅蘭から眼を離さぬまま珀亜の問いに答える。
「ならばそなたたち二人は逃げろ」
「な……どういうことですか?」
はっと眼を見開く由比に、珀亜は冷静に語りかける。
「陛下と私はともかく、そなたたちはこのまま捕まれば殺される。紅蘭姉上は貴族未満の者たちを人と思ってはいない」
「え、でも……皇族とはいえ、相手は少女です。突破できますよ」
後ろからおずおずと反論する飛燕を、珀亜は睨む。
「そなたは感じぬのか? ここに居るのは紅蘭だけではない。何か、獣のようなものが──」
「あら、相変わらず察しが良いこと。でも分かっていても逃げられなくてよ。……さあ、出てきなさい」
紅蘭が呼びかけると、その背後の暗闇から獰猛な豺のような男が姿を現した。
「お前は……豺牙将軍か……」
唇を噛む珀亜の反応に満足したように、紅蘭が笑う。
「ふふっ……私が鼠退治をすると言ったら、伯父様が貸してくださったの。鼠じゃなくてもぐらだったのは想定外だけど。……陛下」
「なあに?」
急に紅蘭から呼びかけられ、皇帝は首を傾げる。
「陛下……いえ、佐穂彦。可哀想に、貴方は南陽皇子に騙されてしまったのね。南陽皇子は貴方を心配しているようで、本当は貴方から帝位を奪うつもりなのよ。翠蓮お姉様と共謀して、貴方をこの地下道に誘い出して殺すつもりだったの」
紅蘭は芝居がかった調子で目を潤ませる。皇帝は姉と弟の顔を交互に見つめながら膝をわななかせた。
「そんな……」
珀亜はきっと紅蘭に鋭い視線を突き刺す。
「黙れ紅蘭! 皇族にも関わらず、国賊の手先に成り下がるなど──!」
「あら、やっぱりそれが本性じゃない。口が悪くて耳が穢れるわ。……それにしても、私を呼び捨てにするなど何様のつもり? 紅蘭じゃなくて紅蘭姉上でしょう?」
「お前など姉ではない! 私の姉は翠蓮姉上だけだ!」
紅蘭はふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「まあいいわ。お前など後でどうとでもできるのだから。……さあ陛下、私と一緒に──」
「い……いやだ……!」
差し伸べられた紅蘭の白魚のような手を、皇帝は振り払った。
「……なんですって?」
途端に紅蘭の眦が吊り上がる。
「ち、朕は……翠蓮姉上のところに行く」
皇帝は珀亜の胸に縋り付いた。
「陛下……」
「朕は……紅蘭姉上よりも翠蓮姉上が好きだ。翠蓮姉上のほうがお優しいし……それに、もう少ししたら翠蓮姉上が朕の皇后になるんだから」
「……は?」
紅蘭が呆気にとられたように眼を見張った。珀亜は込み上げてくる嘔吐感を抑え込みながらも、懸命に兄である皇帝を嗜める。
「……陛下、一体何を仰っているのですか。翠蓮姉上は陛下の姉です。姉と弟が、結婚できるはずが──」
「だって、翠蓮姉上と南陽の父上は前の皇帝だけど──朕と紅蘭姉上の父上は葛城公爵だよ? 母上も違うし、きょうだいじゃないんだから結婚出来るでしょう?」
子どものような無邪気な問いかけに、それを発した本人と豺牙以外の者は揃って声を失った。
「それにもし朕と翠蓮姉上がきょうだいでも、葛城公爵は母上の兄上なんだから……朕が母上と同じことをしても、母上は朕を叱れないよ」
「陛下……いえ、兄上。今の言葉は取り消してください。兄上の父は先帝陛下で──」
「違う!」
突如激高する皇帝に、珀亜は思わずびくりと身を強張らせる。
「違う違う! 朕の父上は葛城公爵だ! だから朕は翠蓮姉上と結婚する! 朕は翠蓮姉上がいいんだ! 翠蓮姉上が朕の──」
佐穂彦が狂ったように翠蓮皇女の名を連呼していた、そのときだった。
「──翠蓮皇女は、誰にも渡さぬ」
豺牙の手が、腰の刀に触れる。はっと我に返った珀亜は咄嗟に皇帝を庇おうと地を蹴ったが、豺牙のほうが一歩も二歩も速かった。
間に合わない。そう思ったその瞬間、珀亜の視界を鮮やかな紅が埋め尽くした。銀色の刃から飛び散る紅。常軌を逸した表情のまま崩れ落ちる皇帝の玉体。全てが悪夢のなかの出来事のようだった。
珀亜が呆然とするなか、背後から悲鳴が上がる。飛燕の声だった。
「こっ、皇帝陛下を……。皇帝陛下を斬った……」
腰を抜かした飛燕が、唇をわななかせる。
「豺牙将軍、貴方は自分が何をしたか解っているのか!」
狼狽する飛燕と、豺牙に食ってかかる由比の声を聞きながら、珀亜は徐々に冷静さを取り戻していく。
「そなたたち」
珀亜は真っ直ぐに豺牙と紅蘭を見据えたまま、二人の兵士に呼びかけた。
「……そなたたち二人は逃げよ。そしてここで何があったか──良く思案の上、姉上に伝えよ」
「何を仰るのですか、南陽皇子殿下!」
「そうですよ。私たちは貴方様を助けるために……」
「そなたたちでは豺牙将軍には勝てぬ。みすみす命を散らすな。──逃げて、姉上の役に立ってくれ」
珀亜は懐から小刀を取り出し、それを豺牙に突きつけながら叫んだ。
「行け! これは命令だ!」
「か……かしこまりました! 行くぞ飛燕殿!」
「はっ、はい!」
へたり込んでいた飛燕を叱咤し、由比が身を翻した。
豺牙は逃げていく二人の兵には興味がないのか、追おうという素振りすら見せない。やがて二人の足音が聞こえなくなるまで、まじまじと珀亜の顔を見つめていた。
「お前、似ているな。翠蓮皇女に……」
「……」
内心の恐怖を気取られぬよう、珀亜は努めて鋭い眼差しを豺牙に向ける。
一方紅蘭は、手に持っていた扇を地下道の壁に叩きつけた。
「何なのよ……みんなお姉様お姉様って……。それに貴方、殺すほうを間違えてるわよ!」
紅蘭は豺牙を怒鳴りつけるが、豺牙は微動だにしない。紅蘭はいらいらと爪を噛みながら呟いた。
「なんてことしてくれたのよ。これで南陽を殺せなくなっちゃったじゃない。……那岐山侯爵が来るまでの間、帝位に誰かいないといけないのに……」
「……那岐山侯爵だって?」
その名を聞き咎め、珀亜は紅蘭へ顔を向ける。その反応が気に入ったのか、紅蘭は満足げに口角を引き上げた。
「そうよ。那岐山侯爵が皇帝になるために──彼に帝位を禅譲する、繋ぎの皇帝が必要なの。……仕方ないから一旦貴方を皇帝にしてあげるわ、南陽。言っておくけど拒否はできなくてよ。そんなことしたら大事な翠蓮お姉様が大変なことになっちゃうから」
「紅蘭、お前は何を企んでいる。那岐山侯爵を皇帝にするとは──」
「彼がそれを望んでいるの。那岐山侯爵は皇帝になりたいのですって。そして私は彼の皇后になる……。ふふっ、初めは宮で囲おうと思っていたのだけれど、どうせなら皇帝と皇后のほうがいいわ。あのように美しい皇帝……皆が私を羨ましがるに違いないわ」
紅蘭の口ぶりは、まるで夢見がちな少女が心ときめく物語の内容を語るようだった。
(何ということだ。まさか葛城公爵ではなく、紅蘭の手の上で踊らされるとは……)
珀亜は唇を噛む。
(それにしても、余りにも手際が良すぎる。私の知っている紅蘭は、このように相手の先を読めるような者ではない)
紅蘭に命じられた豺牙が、珀亜の腕を掴んだ。からん、と珀亜の手から懐剣が落ちる。
(紅蘭の言っていることは本当なのか? 那岐山侯爵と紅蘭が手を組んで帝位の簒奪を企んでいるのだとしたら、織瀬姉上は……)
薄闇のなか、珀亜は紅蘭の後ろを豺牙に引きずられるようにして歩く。姉の儚げな微笑みを思いながら、珀亜は己の無力さにきつく拳を握りしめた。
*
すっかり心許なくなった蛍火石の灯りだけを頼りに、由比と飛燕は地下道を走った。
「……ッ、飛燕殿……地下道の道順は覚えているか?」
「はい! 次の三叉路を右、次は中央です!」
「……飛燕殿が居てくれて助かった。よくあの迷宮のような地図を覚えられたな」
「伝令役なので、ものを覚えるのは得意なのです。……私よりも、その迷宮の地図をすらすらと書いてみせた翠蓮皇女のほうが相当ですよ」
「ははっ、確かに」
現実逃避をするように軽口を叩き合いながら、二人は地下道の出口のひとつに辿り着いた。
「ここはおそらく東苑軍の修練場の近くです。武器庫から少し拝借して翠蓮皇女のもとへ戻りますか」
「そうだな」
地下道へ潜入するために最低限の武装しかしていなかった二人は頷きあった。出来れば数日分の糧食も調達したい。この時分に修練場に居る者などいないだろう──そう思いつつも飛燕がゆっくりと出口である井戸の縁から顔を覗かせた時、
「……君たち、また意外なところから現れたね」
「……ッ!」
聞き覚えのある穏やかな声に、由比と飛燕は今夜何度目かの悲鳴を飲み込んだ。
「か、加々美将軍……こんな夜中に何をなさって……」
声を震わせながら問いかける由比に向かって、東苑軍将軍である加々美朱鷺也は苦笑を向ける。
「それはこっちが聞きたいんだけどね。こんな時間に井戸の中で何をしてたの」
「それは……」
由比と飛燕はしばし顔を見合わせていたが、意を決して口を開いた。
「実は──」
二人の説明を聞きながら、朱鷺也は額を押さえた。
「成程ねぇ……。確かに僕は龍守君たちを助けてあげてとは言ったけどさ、さすがに無謀過ぎるでしょ。断んなきゃ駄目だよ君たちも」
「そ、その……これは那岐山侯爵ではなく……」
「翠蓮皇女殿下からの命なのです」
「……翠蓮皇女殿下だって?」
「はい。……正確に言うと、作戦を立てたのは翠蓮皇女殿下と倶知比古殿と将軍の弟君です」
「……しょうがないなぁ、ちょっと待ってて。──あ、念のためその辺の草むらにでも隠れてなよ」
そう言い置いた朱鷺也は東苑軍の宿舎へ向かって行く。由比と飛燕は素直に修練場の隅で身を潜めていた。
「──はい。これをもって行くといい」
やがて戻ってきた朱鷺也が、二人に向かって包みを差し出した。
「これは……」
「数日分の食糧が入ってる。武器はこれね、しっかり持って」
「は、はい。ありがとうございます」
「後は外に出る方法だけど、念のため地下道は使わないほうがいいかもね。また豺牙君とかに遭遇しちゃったら詰みだし。……ついておいで」
朱鷺也に促され、二人は修練場を囲う塀の近くに歩み寄った。塀の足元には、丁度人の背丈ほどまで草が生い茂っている。
「確かこの辺に……ああ、あった。──よいしょっと」
朱鷺也はがさがさと草を掻き分けると、そこに置かれた大きな石をひっくり返した。
「……嘘でしょう。ここにもこんなものが……」
「皇宮って以外と無防備なんですね……」
石の下で口を開ける黒々とした穴を見て、由比と飛燕は呆れたように呟いた。そんな二人を見やり、朱鷺也は笑う。
「言っておくけどこれは皇族が作ったものじゃないよ。新人武官だった龍守君とうちの弟の仕業」
「……はあ!?」
「たまに訓練さぼってここから抜け出してたみたい。……ま、あの二人には近衛軍の訓練なんてぬるすぎて退屈だったんだろうけど。隼人なんて一月もたなかったし」
「……やってることがただの不良じゃないですか」
「那岐山侯爵ってそういう人だったんですね……」
「あ、もしかしたら龍守君、本当は翠蓮皇女殿下を攫ったあとここから逃げるつもりだったのかな。……まあいいや。後は僕が上手いことやるから、二人はさっさとお逃げ。皇帝殺害事件の目撃者なんて、一番命が危ないよ」
「……はい、ありがとうございます」
朱鷺也に深く頭を下げると、由比と飛燕は穴の中に姿を消した。その後しばらくして、朱鷺也は元通りに穴を塞ぐ。
「さてと。何だか混沌としてきちゃったねぇ……。どうするつもりかな、龍守君は」
夜空を仰げば、龍守の髪色を思わせる月が昂然と輝いている。
「ま、何にしても、君は誰かに利用されたり勝手に道を決められたりするのが大嫌いだろうから……何とかするよね」
朱鷺也は月を見つめて微笑んだ。




