第二十五章 逃走、再び
夜の帳が下りた皇宮の中で、二人の男たちが息を潜めていた。二人の目に映るのは後宮──本来ならば、宦官でもない彼らが立ち入ることは一生ないであろう場所である。
「──飛燕殿。翠蓮皇女殿下が仰っていた通路の入り口はあの祠か?」
「はい」
由比の問いに頷きつつ、飛燕は困ったように眉を下げる。
「そのはずです。しかし……」
「外に出る機会の少ない皇女殿下はご存知なかったのだな。あの場所が怠け癖のある兵たちの格好のたまり場になっていることを……」
そう呻きながら、由比は祠に視線を向ける。何の神が祀られているかは分からぬが、おそらくそれなりの由緒があるであろうその祠に、罰当たりにも数人の兵士が腰掛けている。
「どうしましょう。彼らがいなくなるのを待ちますか?」
「そうだな……。しかしそろそろ警備の巡回時刻に当たってしまう。どうしたものか──」
「貴女たち、ここで何をしているのです?」
不意に背後から女の声が聞こえ、飛燕と由比は喉元まで出かかった悲鳴を必死で押し殺した。
恐る恐る振り返ると、長身の美しい女官が剣呑な目つきで二人を見つめている。不味い、と飛燕と由比の背を冷や汗が伝った。
「な……何だ、外廷の女官か。我らはこれから警備の交代に向かうところで──」
「今、翠蓮皇女殿下の名が聞こえましたが」
「……! そ、それは……」
由比は必死で取り繕おうとするが、女官の冷ややかな眼差しに口を噤まずにはいられなかった。どうする、と訴えかける飛燕の視線を感じるが、由比とてどうしたらよいか分からない。そもそもなぜこんな時分に女官がうろついているのだ──と唇を噛んだ時、
「貴女たちは翠蓮皇女殿下の敵か? 返答次第では……」
女官は鋭い目つきで由比たちを睨みつけたまま、懐に手を入れた。これまでいくつかの戦場を経験したことのある由比は、それだけでこの女がただの女官ではないことを悟った。
「ま、待ってくれ。私たちは翠蓮皇女殿下の敵ではない。ここへは皇女殿下の命を受けて参ったのだ」
「由比殿……!」
飛燕が咎めるように由比の名を呼ぶ。確かにこの女官が何者かわからない段階でこちらの立場を明かすのは悪手だった。しかし今この女官に騒がれでもしたら、それこそ翠蓮皇女から託された任務は果たせなくなる。
「翠蓮皇女殿下の命……そうですか」
女官の周囲から、すっと殺気が消えた。
「──私は日向という。今は大楽署に勤めているが、本来の主は那岐山家に仕える鷹比古様です」
「那岐山家……。では貴女は……」
「仕方ない。貴方たちが翠蓮皇女殿下の命を受けているのなら、龍守様や鷹比古様の手前助けぬわけにはいきませんからね。──あの祠に用があるのですか?」
「あ、ああ。そうだが……」
「少しお待ちを」
そう言い置くと、日向は真っ直ぐに祠で油を売る兵士たちの元へと向かって行った。
「あの女官……何をするつもりでしょうか……」
不安げに呟く飛燕とともに様子を伺っていると、何やら日向は兵士たちと談笑を始めた。由比たちのいる場所からは会話の内容をはっきりと聞き取ることはできないが、時折日向が婀娜っぽい眼差しを兵士たちに向けている。
やがて日向を取り囲むようにして、兵士たちは祠のある場所から去って行った。
「……飛燕殿。今だ、行くぞ」
「はい!」
兵士たちが視界から消えたのを確認し、二人は物陰から飛び出した。走りながら、飛燕はそっと由比に囁く。
「しかし大丈夫ですかね、あの日向って女官。あの兵士たち絶対いかがわしいこと考えてますよ」
「……飛燕殿は、あの女官から何も感じなかったのか?」
「えっ? そりゃなかなかの美人でしたけど……」
「そうではない。あの女官は手練れだ。兵の数人どうということはないだろうよ」
祠に辿りついた由比は、翠蓮皇女に聞いたとおりにその中に隠された絡繰に手を這わせた。
鼓動が次第に速くなり、身体中の血が沸き立つように感じられる。一兵士である自分が皇女の命で国を動かすその一端を担うのだ。高揚するなというほうが無理であった。
*
南陽宮の中はひっそりと静まり返っていた。 牀に寝転がった珀亜は、今日もなかなか寝付くことが出来ず、ただただ暗闇を見つめていた。
(織瀬姉上はご無事だろうか)
今夜も心に浮かぶのは、美しく優しい姉の笑顔だ。
葛城公爵からは、翠蓮皇女は那岐山侯爵に誘拐され、その後反逆者たちの旗印として利用されていると聞かされた。それを聞いた皇帝──珀亜の腹違いの兄である佐穂彦は、姉上が可哀想だ、すぐに助けなければと泣き叫び、母である皇太后からの叱責を受けていた。だが、
(ここ最近、織瀬姉上は変わられた。以前の姉上ならば、葛城公爵の言うようなことも考えられるが……)
あの大喪の礼の日あたりから、姉の纒う雰囲気が変わったことを珀亜は感じ取っていた。
その名のごとく泥中より出でた睡蓮の花のような佇まいや、ふわりとほころぶ笑顔に変わりはない。しかし葛城公爵や皇太后に対する凛とした物言い、そして何よりその美しい翡翠色の瞳にたたえられた輝きが、以前とは明らかに異なっていた。
(姉上は、おそらく橘花国のために何事かを成そうとしている。那岐山侯爵は姉上の協力者か……?)
ひとつ寝返りをうち、珀亜は眉を寄せる。
(那岐山侯爵──。あの宴での歌舞も見事だったし、官人としては優秀なようだが、女性絡みの良くない噂も聞く……。姉上は大丈夫なのだろうか)
何度繰り返したか分からない懸念に頭を悩ませていた時、不意に部屋の隅でかたかたと言う音が聞こえた。
「……」
珀亜は静かに枕元に置いた懐剣に手を伸ばす。声を上げれば護衛たちがすぐに駆けつけるであろうが、珀亜はあえてゆっくりと身を起こし、音のしたほうへと目を向けた。
「……そこに誰かいるのか?」
ひゅっと息を呑む音が聞こえた気がした。
「答えぬか。それならば──」
「まっ……待ってください、南陽皇子殿下!」
珀亜が鞘から刃を抜こうとしたその時、部屋の隅からひとりの小柄な男が転がり出てきた。
「と、突然の訪問をお許しください。私は東苑軍所属の飛燕と申します。翠蓮皇女殿下の命を受け、南陽皇子殿下をお助けに参りました」
「……姉上の命だと?」
「はっ、はい。左様にございます。……こちらが翠蓮皇女殿下からお預かりして参りました文でございます」
「……」
飛燕と名乗る男の差し出した文を注意深く受け取った珀亜は、ゆっくりとそれを開く。
「これは……」
流麗ではあるが、一見すると女の手とは思えない力強さを合わせ持った筆致で、数首の歌が書かれていた。珀亜はしばし無言のままその歌の上に目を走らせる。
「姉上……。しばらくお会いせぬうちに随分と大胆になられた。これは何があったのか何としても聞き出さねばな」
ふっと唇を緩める珀亜を、飛燕が不思議そうに見つめる。
「南陽皇子殿下……?」
「その抜け道を知っているということは、確かにそなたは姉上の命を受けているのだろう。……それで、陛下は──兄上はもう連れ出したのか?」
「は……はい。陛下のもとにはもうひとりの者が向かっていますので、おそらく……」
「解った。では私も姉上のように、そなたたちに攫われるとしよう」
珀亜は瞳に悪戯っぽい光をたたえながら、飛燕の背後にある通路を見つめた。
*
「……あのう、南陽皇子殿下。随分とあっさり私を信じてくださって、ありがたいのですけれど……」
翠蓮皇女から託された不思議な石──蛍火石のかすかな灯りで地下道を照らしながら、飛燕はおずおずと珀亜に話しかける。
「その……大丈夫なのですか? 何も言わずに出てきて、側付のかたたちが心配なさるのでは……」
「兵は神速を貴ぶ、と言うではないか」
「……はい?」
「あれこれ悩んでいたら機を失う。──この抜け道を知っていること、そしてあの文の内容からしてそなたが姉上の命を受けていることに疑いはない。そして私の側付たちは有能だ。私が部屋にいないことに気づけば、その時点で何があったかおおよそは察するだろう」
「はあ……」
翠蓮皇女についてはともかく、側付については無茶振りが過ぎやしないか。そう思いながらも、立場上皇子に意見など出来ようはずもない飛燕は、黙々と足を動かす。
「それで、兄上とはどこで落ち合う予定なのだ?」
「この先に少し開けた場所があるようなので、そちらで合流いたします」
そう言葉を交わしているうちに、前方に飛燕の手の中にあるものと同じ、かすかな光が見えてきた。
「……飛燕殿か?」
「由比殿! 良かった、無事皇帝陛下をお連れ出来たのですね」
「ああ……」
由比はなぜか疲れたように笑った。
「それで、皇帝陛下はどちらに──」
「嫌だ、朕は行かない! 帰る! 宮に帰る!」
地下道の壁に、泣き叫ぶ声が反響する。
「なっ……何なのですか、あの子どもは?」
「……飛燕殿、言葉を慎め。あちらが皇帝陛下だ」
「何ですって!?」
泣き声にかき消され由比の言葉が聞こえづらかったこともあり、飛燕は思わず大声をあげた。
「陛下! どうかお気を確かに。こちらは翠蓮姉上の協力者のかたです」
むずかる皇帝のそばに駆け寄った南陽皇子が、ゆっくりと語りかける。
「何も恐ろしいことはございません。翠蓮姉上が陛下と私を救うために、この者たちを遣わしてくださったのです」
「……翠蓮姉上が……?」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、皇帝が龍顔を上げた。
(皇帝は確か齢十四と聞く……。幼いのは仕方ないが、これは余りにも……)
二つ下であるはずの南陽皇子が落ち着き過ぎているのもあるが、
(これではどちらが兄で皇帝なのか分からないな)
そう不敬極まりないことを飛燕は胸中で呟いた。
「陛下、南陽皇子殿下。恐れながら我らには余り時がございません。これより翠蓮皇女殿下の元へお連れいたしますので、どうぞお急ぎください」
「ああ、頼んだぞ。──陛下、参りましょう」
「でも……。南陽、母上に何も言わずに行くなんて……」
「陛下。ご心配なさらずとも、翠蓮姉上は皇太后陛下のこともきちんと考えておいでです。──そうであろう?」
南陽皇子の視線を受け、由比は咄嗟に口裏を合わせる。
「……南陽皇子殿下の仰るとおりです。いつ何時戦が激化するとも分かりませんので、皇族がたをお救いするために翠蓮皇女殿下は我らを遣わしたのです」
恭しく礼をする由比に、南陽皇子は満足げに笑いかけた。
「そなたは有能だな。──さあ、陛下。私がお支えいたしますから参りましょう」
「……うん……」
「恐れながら、私が先導させていただきます。──飛燕殿、陛下たちの後ろへ付いてくれ」
「かしこまりました」
由比の呼びかけで、一行が進み始めようとしたその時だった。
「──あら。こんなところにもぐらが四匹……一体何を企んでいるのかしら?」
極彩色の蝶のような少女が、酷薄な笑みを浮かべながら目の前に立ち塞がった。




