第二十二章 奇縁
織瀬が天幕を出ると、すかさず菊理と明瑠が駆け寄ってきた。
「姫様! 何だか物凄い怒鳴り声が聞こえたけど大丈夫ですか!?」
「姫様、何があったのです!?」
二人も途中までは織瀬とともに龍守の天幕に向かっていたのだが、部外者は通せぬと警護の者たちに止められてしまったのである。
「那岐山龍守と鷹比古って男が出てきたけど、二人とも何も教えてくれなくて……」
「姫様、中で一体何があったのですか?」
「明瑠、菊理……」
様々な感情が入り混じり織瀬が答えあぐねていると、後ろで二人の男たちが織瀬に向かって深く頭を下げた。
「姫さん、あんたのお陰で助かった。ありがとうな」
「織瀬姫様、心より感謝申し上げます」
「隼人殿、倶知比古殿……」
織瀬は思いを押し込めるように、ぐっと瞼を閉じた。
「お二人とも、顔を上げてください。私は何もしておりません」
「そんなことねぇよ。姫さんが止めてくれたから龍守も思い止まったんだ。俺たちだけじゃ無理だったよ。……なぁ?」
隼人の視線を受けて、倶知比古も頷く。
「ええ。織瀬姫様のお言葉は龍守様だけでなく、我ら家臣や陶州の民たちもお救いくださいました。なんとお礼を申し上げたら良いか……」
隼人と倶知比古の言葉を聞きながら、織瀬はきつく唇を噛み締める。
(違う。私は……私は何も出来なかった。止められたはずなのに、止められなかった……。こうなることを予測できたはずなのに、龍守殿からご家族を奪ってしまった……)
自分が受けるべきなのは感謝ではなく非難である。本当ならば龍守の膝下に跪いて許しを乞うべきなのだ──。
身体の震えを押さえこむように強く自身の腕を握りしめる織瀬を、明瑠が心配そうに覗き込む。
「姫様、お顔の色が優れません。今はご自身の天幕でお休みください。私が側におりますから」
「ええ。ありがとう、明瑠……」
織瀬はぎこちなく明瑠に微笑みかける。込み上げてくる罪悪感を必死で押さえ込みながら、織瀬は明瑠に付き添われ歩きだした。
「ちょっと倶知比古に馬鹿男! うちの姫様に何しやがったのよ! ちゃんと説明しなさいよね!」
背後から、菊理が龍守の家臣たちに詰め寄る声が響いてくる。本来ならば止めるべきなのだが、今の織瀬はその余裕すら無くしていた。
*
燭台の上で燃える炎を、葛城乙彦は忌々しげに見つめていた。
那岐山龍守に殴られた頬の痛みはすでに引いているが、口を動かすたびに感じる違和感が乙彦を苛つかせている。筆頭医官の華彰が出奔した宮中には、ろくな医者が残っていないのだ。
そして那岐山龍守を排除するために放った軍も、乙彦の期待に沿う働きは見せていなかった。
乙彦が苛立ちを抑えきれずに肘掛けを指先で叩いていたその時、
「葛城公爵! 今度は必ず翠蓮皇女を連れ戻してみせる! 俺にもう一度機会をくれ!」
扉が勢いよく開け放たれ、一匹の猛獣のような男が部屋に駆け込んで来た。
「さ、豺牙将軍、なりません! 葛城公爵閣下は朝堂に誰も入れるなと──」
乙彦が壇上から睥睨すると、侵入してきた豺牙ではなく、それを止めようとしていた衛兵がびくりと肩を震わせる。
「か……葛城公爵閣下……申し訳ございません。お止めしたのですが、豺牙将軍がどうしてもお目通りをと……」
「私の命を無視して勝手に出陣したあげく、おめおめと逃げ帰ってきた負け犬が何をほざく?」
乙彦は片方の口角を引き上げて豺牙を嘲笑った。
「お前の豺牙という名はその強さ故に与えてやったというのに、どれだけ私を失望させれば気が済むのだ? いっそ負け犬に改名するか?」
小馬鹿にしたような乙彦の視線を受けて、豺牙はぐっと拳を握りしめる。
「あと一歩……もう少しだったのだ。邪魔さえ入らなければ、那岐山龍守を討ち取れていた。あの隼人とかいう奴が来なければ……。一対一で戦えば、俺が負けるはずがない」
「黙れ。お前は当分謹慎だ。……どのみち今、あの連合軍とやらの陣中に那岐山龍守はおらぬ。しばらく頭を冷やすことだ」
「……那岐山龍守が陣中にいない? それはどういうことだ。あの男が実質大将だという話ではないのか」
「お前も含め、こちらの将はみなあの男の策に踊らされる無能ばかりなのでな。このままでは兵が目減りするばかりゆえ、陶州の丹陽伯爵を焚き付けて那岐山龍守を前線から追いやった」
乙彦はくっと可笑しそうに喉を鳴らす。
「あの男……頭は切れるようだが、激しやすく情に絆されやすいのが玉に瑕だな。父親と弟を殺してやったから、今頃は頭に血を上らせて陶州に攻め込んでいるだろうよ。そのまま陶州の民たちを血祭りにあげてくれれば、もうあの男に従う者はいなくなる。……よって差し当たって問題となるのは、那岐山龍守よりも翠蓮皇女だな」
その名を聞き、豺牙の黒い瞳が爛々と光る。
「そうだ、翠蓮皇女……! 那岐山龍守がいない今なら、翠蓮皇女を救い出せる……」
「──救い出せるだと? 豺牙、お前はどこまで馬鹿なのだ? 翠蓮皇女は攫われたのではない。自ら那岐山龍守の元へ行き、自ら橘花国に──私に弓を引いたのだ」
乙彦の発言に、豺牙は目を見張る。
「そんな、馬鹿な……皇女がなぜ……」
「さあな。おおかた他の女たちと同じように、那岐山龍守のあの容貌にのぼせ上がったのであろうよ。陣中で行動をともにして、あの男を相手に幾度股を開いたのやら。毒姫という話はどうやら交わった相手を殺すという意味ではなかったようだな。古の悪女のように男を誑かす毒婦といったところか。……清楚な顔をしてとんだ売女だ」
「……違う。翠蓮皇女はそのような女ではない」
拳を震わせながら呟く豺牙を見やり、乙彦はふんと鼻を鳴らす。
「……本気で惚れているのか。やはり翠蓮皇女の存在は厄介だな。その美貌に誑かされたお前のような馬鹿どもが、続々と連合軍に加わっている。……安比家は血縁関係のある貴族以外からの支持は薄いゆえ捨て置いても構わぬと思っていたが、翠蓮皇女の存在が知れ渡った途端連合軍の勢力が拡大している」
「それならば尚のこと翠蓮皇女を奪還すべきだ。頼む……いや、お願い申し上げます。必ずこの豺牙が翠蓮皇女を連れ戻して参ります……」
たどたどしい敬語を遣いながら、豺牙が乙彦の前に跪いた。
「何だ。幾度教えてやっても舐めた口ばかり利いていたお前が……それほどまでに翠蓮皇女が欲しいのか?」
「翠蓮皇女は特別だ。翠蓮皇女だけが俺を蔑んだ目で見なかった。翠蓮皇女もきっと……」
「良かろう。そこまで言うのであればお前に任せる。……しかし二度目はないぞ、解ったな?」
「解った……いや、かしこまりました。必ず翠蓮皇女を連れ戻してみせます」
豺牙のなかでは翠蓮皇女は拐かされた哀れな姫君、そして自分はそれを救い出す高潔な勇士なのだろう。あまりに馬鹿馬鹿しいその思い込みを、乙彦は冷笑せずにはいられなかった。
*
ぱちぱちと爆ぜる焚き火の炎を、織瀬は虚ろな瞳で見つめていた。陶州へ出征してしまった龍守は、今ここにはいない。馴染んだはずの陣中にあって、その事実が織瀬を心細くさせていた。
「姫さん、魚焼けたぜ。米はどれくらい食う? ……姫さん?」
「……え?」
数度隼人に呼びかけられて、織瀬はゆっくりと顔を上げた。
「あ……申し訳ありません、隼人殿。食事の支度を全て任せてしまって……」
「いや、それはいいんだけどよ……。姫さん、大丈夫か? なんかずっと思い詰めた顔してっけど」
「そんなことは──」
「あるだろ。龍守の親父さんたちの話を聞いてから、ずっと暗い顔してるぜ?」
「……それは」
隼人が差し出した少し焦げた匂いの漂う串を受け取りながら、織瀬は言い淀む。
「何と言うか……龍守殿に偉そうなことを言って、私にあのようなことを言う資格があったのかと──ずっとそんなことばかり考えてしまって」
そう口に出してから、織瀬は苦笑する。
「すみません、詮なきことをいつまでも……。いただきますね」
迷いを振り切るように微笑むと、織瀬は食事に口を付けた。そんな織瀬を、隼人は苦笑まじりに見やる。
「姫さんも、なかなか損な性格してるよなぁ。少し龍守を見習ったほうがいいぜ」
「……龍守殿を?」
「ああ。あいつは考えてもどうしようもねぇことは迷わず脇に置いておく主義だからな。そうしてるうちに考えが変わることもあるし──ってな」
隼人は半分ほど焦げてしまった魚にかぶりつきながら言った。
「姫さん、何度も言うけど俺たちはあんたに感謝してんだ。多分だけど、あんたのおかげで龍守は道を踏み外さずにすむ。……正直なところ俺、最初に龍守があんたを連れ出してきた時ホントに大丈夫かって思ってたんだけどさ、今はあんたがいてくれて良かったって思ってるよ」
「隼人殿……」
織瀬は僅かに目を見張り、その後静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、隼人殿……。ご心配をおかけしました」
「良いよ、そんな気にしなくても。……あんたが暗い顔してたら、龍守が帰って来たとき俺がどやされるからな」
「そういえば……今回は龍守殿に同行しなくてよかったのですか、隼人殿?」
緒戦で龍守と共に出陣できないことに憤っていた隼人の姿を思い出し、織瀬は首を傾げる。
「ん? あー……まあ心配は心配だけどな。だけど龍守に本陣の指揮と……あんたを頼むって任されちまったから」
「……私を?」
「ああ。出陣る直前にな、あんたは聞いてなかったかもだけど──『何があっても織瀬姫を守れ』だとよ」
「龍守殿が……」
「ま、命令には従わねぇとな。あんなんでも一応主君だ。──それにあんたもあの明瑠って侍女を貸してくれたし、まぁお互い様だな」
早々に食事を終えた隼人は、傍に置いてあった書物をぺらぺらとめくり出す。
「でも姫さんこそ、あの侍女を龍守たちと一緒に行かせて良かったのか? 本人めっちゃ不満そうだったけど」
「それは……一応明瑠本人にはきちんと説明して了承を取りました。明瑠は医術の心得がありますから、きっと龍守殿のお役に立てると思ったので。龍守殿は華彰や軍医殿をこちらに残すとのことでしたから……」
「ああ、それは助かったぜ。鷹比古もそのあたりの知識はあるんだけど、やっぱり専門家がいたほうがいいもんな。……それに、今回はどっちかっつーと龍守より鷹比古のが心配だし」
「ええ、驚きました。鷹比古殿はいつも冷静な印象だったので……」
「まぁ、あいつも色々と訳ありだからな……。姫さんも変だって思わねぇか? 何であいつが官吏にならずに龍守に仕えてんのか」
「それは……はい、そうですね」
「だろ? 本人がいないとこで言うのも何だけど……あいつさ、元々は宗我家の出なんだよ」
「え……」
それは十八年前、反逆の罪によって討伐された一族の名である。討伐軍の指揮を執っていたのは、当時家督を継いだばかりの葛城乙彦。──最もその罪が宗我家と勢力争いをしていた葛城家によるでっち上げであることは、今や公然の秘密である。
「鷹比古殿が、宗我家の……」
「ああ。……といっても分家も分家で、殆ど平民と暮らしは変わんなかったらしいけどな。だけどそのおかげで上手く葛城家の目を掠めて逃げられて、でも食うにも困るなかで働き口を探してたところで龍守の親父さんに拾われたんだってよ」
「そうなのですか。──ですがそれで腑に落ちました。鷹比古殿が忍たちを従えているのは、宗我家にゆかりがあるからなのですね。宗我家は古来よりまつろわぬ者──皇権の支配の及ばぬ裏の世界の者たちと繋がりが深い一族だったようですから」
「あ〜……そういえば何か龍守がそんなこと言ってたな」
「菊理と明瑠も、元を辿れば宗我家に仕えていた一族の出なのです。……元は私の母の一族に仕えていた家と聞いています」
「……ん? じゃあ姫さんの母親って……」
「鷹比古殿と同じく、宗我の分家の出です。まだ皇位に登っていなかった父が、乱の最中で見初めたと聞いています。……もっともそのことが葛城家に露見したら母は無事ではすまないので、宗我家の罪が誣告によるものだと明らかになった後に宮中に招き入れたようです」
「──成程なぁ。それも理由なのかな、皇太后が姫さんを嫌うのは。自分の実家の不始末を見せつけられてるみてぇだから……」
「……」
織瀬は隼人の呟きを否定も肯定もせずに、曖昧に微笑む。何気なく夜空を見上げると、そこには無数の星々を従えながら、昂然と輝く月の姿があった。
(龍守殿……。どうかご無事でありますように)
その月の光は、戦場にあって気高くなびく龍守の髪を思わせる。柔らかなその光に照らされながら、織瀬がそっと祈りを捧げていると、
「──ただいま戻りましたぁ、姫様」
どこか疲れたように息を吐きながら、菊理が織瀬の隣に崩れ落ちた。
「お帰りなさい、菊理。ご苦労様。……どうしたの? 貴女がそんなに疲れるなんて」
「……あたし、倶知比古をいいヤツだって言ったこと撤回します。アイツ人遣い荒すぎよ。鷹比古って奴が忍たちを連れて行っちゃったから人手が足りないのは分かるけど、一体一日にどんだけ働かせんのよ! 敵だけじゃなくて安比家の陣も探れとか……。これ超過勤務手当出ないとやってられないわ」
「あ〜……悪りぃな。うちは身内に限ってはみなし残業代しか出ねぇから……。ちなみに龍守のなかでは、多分姫さんとその仲間たちは身内認定されてる」
「何それ最悪……」
消え入るように呟きながら、菊理が両膝に顔を埋める。
「菊理……頑張ってくれてありがとう。お腹が空いているでしょう? 食べて、それからゆっくり休んで頂戴」
「姫様マジ女神……」
目を潤ませながら、菊理は織瀬の差し出した椀を受け取る。
「それにしても贅沢よね、戦場で白米なんて。──って言うかあんた、何読んでんの?」
「ん? ああこれか。六なんたらって言う兵法書。……軍を率いる前にこれくらいは読んどけって龍守が言うから、仕方なく読んでる」
「……あんた、それ読んで意味わかるの?」
「そのまんまだとさっぱりだけど、これは龍守の解説付きの特別版だから」
「まあ、そうなのですか? ──隼人殿、私にも見せていただけませんか?」
「いいぜ、ほら」
隼人が差し出した書物を覗き込み、織瀬はほうとため息をついた。
「凄い……この行間に書かれている文字は、全て龍守殿のものなのですか?」
「ああ。あいつ兵法書オタクなんだよ」
「とても分かりやすいですね。私、兵法書を読んでもあまり良く理解できなくて……でもこの解説は分かりやすい……」
「興味があれば貸そうか? 俺もう一回読んでるし」
「良いのですか!?」
顔を上げ、ぱっと花が咲いたように表情を輝かせる織瀬に、隼人は思わず目を見張る。
「うわあ……これはヤバいな。……姫さん、そういう顔は龍守に見せてやってくれ。ついでにその本の感想も言ってやると、多分あいつ凄ぇ喜ぶぜ。色々語り出しちまって止まらねぇかもだけど」
「まあ、それは楽しみですね。私はそのあたりの知識に乏しいので、お話が聞けるのはありがたいです」
うきうきと書物をめくる織瀬を見やりながら、隼人は菊理に囁く。
「なあ、じゃじゃ馬。お前んとこの姫さんってもしかして変人か?」
「……不本意だけど否定できない」
「って言うかさ、あの笑顔の破壊力凄ぇな。何だアレ、無自覚ならかなりヤバいぞ。免疫ない男なら勘違いする」
「そーなのよ、無自覚なのよ。だから心配なのよお……」
白米を口いっぱいに頬張りながら、菊理は深く息をついた。




