第二十一章 悲憤
織瀬が兵たちを前に和やかに講義を行っていた一方、龍守は安比路保を交えた軍議で己の自制心を試されていた。
「──何だ。翠蓮皇女は居らぬのか」
初めは生母の身分がどうのと見下していた路保であったが、数度顔を合わせるうちにすっかり翠蓮皇女の美貌の虜となってしまったらしい。龍守の傍らに立つ者が豊雲青弦のみであることを認めて、あからさまに興味を失ったようだった。
「……翠蓮皇女はお疲れとのことで、天幕にて休んでおられます」
目の前の尊大な男を蹴り飛ばしてやりたい欲求を理性で抑え込み、龍守は当たり障りのない嘘を吐いた。
「そうか、それは心配だ。何か翠蓮皇女の気分が晴れるようなものでも贈るとしよう」
にやりと笑う路保に対し、その後ろに立つ初臣が複雑そうな視線を向ける。
龍守はさりげなく深呼吸をしたのち、形式的な笑みを貼り付けた唇を開いた。
「……安比公爵閣下。閣下の優れた指導力により、連合軍の勢力も拡大しております。つきましてはご提案があるのですが──」
眼前で権高な眼差しを向けている者は人ではない、そうだ路傍の石のようなものだ。──龍守は努めて己にそう暗示をかけようとしていた。
龍守が一通りの説明を終えた後で、青弦がわざとらしい溜め息交じりにかぶりを振る。
「……那岐山侯爵の作戦は、相変わらず紙上に兵を談ずるようなものですね。そのように上手くいくとは思えぬのですが」
「ほう。具体的にどこに問題があるというのです? 批判ばかりでなく貴方の意見も聴かせて欲しいものだ、豊雲公爵」
「お前たちは相変わらずだな。私に気に入られたいのは分かるが、今は共に戦う仲間なのだ。仲良くやろうではないか」
龍守と青弦の猿芝居に気付かぬ路保は、この言い争いが自分の寵を得るためのものだと解釈したらしい。度量の大きさを見せつけるように、龍守と青弦を見やる。
「豊雲公爵の言い分はもっともだ。しかし那岐山侯爵の作戦は兵法の理論にかなっているし、先ずはやらせてみようではないか」
「安比公爵閣下の寛大なる御心に感謝いたします」
それから軍の配置などの細かな打ち合わせをしたのち、龍守と青弦は安比家の天幕を出た。安比家の陣から十分な距離をとったところで、青弦が龍守へ向かって頭を垂れる。
「龍守殿、先ほどは申し訳ない。失礼なことを言いまして……」
「いいや、青弦殿も路保の扱いを理解してきたな。貴方が私の策を否定してくれたおかげで、すんなりと軍議が終わった」
「……路保殿はかなりの天邪鬼ですね。己の意見がどうであれ、とにかく目の前の相手を否定したがる」
「その通りだ。よく見ているな」
我が意を得たりと龍守は笑った。
「さて、そろそろ織瀬姫の講義も終わる頃合いか。青弦殿、貴方さえよければこの後我が陣中で今後の戦いかたについて話し合えないか。出来れば建日たちも交えて」
「それは良いですね。龍守殿のお話はいつも興味深いですから──」
青弦が龍守に向かって笑いかけたのとほぼ同時に、
「……龍守様、至急お伝えしたき儀がございます」
そう抑揚の無い声に名を呼ばれ、龍守は振り返った。するとまるで地から湧き出たかのごとく、今まで誰も居なかった背後に鷹比古が膝を付いていた。
鷹比古の眉間に漂う陰鬱さを認めた龍守は、あえて軽口を叩く。
「どうした鷹比古。これから葬式にでも行くような顔だぞ。それとも葛城乙彦が万の兵でも送ってきたか?」
「……」
鷹比古はしばし無言のまま龍守を見つめていたが、
「龍守様、どうかご自身の天幕にお戻りを。そちらで報告をさせていただきます」
龍守の傍らに立つ青弦をちらりと見やりそう言った。
「……どうも深刻なお話のようですね。龍守殿、残念ですが戦談議はまたの機会にいたしましょうか」
鷹比古の視線を受けた青弦は柔らかに微笑む。
「ああ。……申し訳ないな、青弦殿」
「いいえ、お気になさらず。では私はこちらで失礼いたします」
一礼し去って行く青弦をしばし見送り、龍守は鷹比古とともに自身の天幕に向かって歩き出した。
*
「──龍守様、お気を確かにお聞きください。お父君と弟君に関することです」
いつになく深刻な鷹比古の口調に、龍守は表情を改める。
「父上たちがどうした。……今の状況では家族の身にも葛城乙彦の手が及ぶやもと、お前が避難先を手配してくれたのだろう?」
「はい。ですがその避難先へ向かう途中、陶州に差しかかった折──大殿たちがそこに住まう民たちに殺害されました」
その報告を聴いた瞬間、龍守の紅い瞳が見開かれた。
「……鷹比古、もう一度言ってくれ。父たちが……どうしたと?」
耳に届く己の声は、まるで見知らぬ人物のそれのようだった。
眉間にいつも以上の険しさを刻み、鷹比古は絞り出すように同じ報告を繰り返す。
「……大殿が陶州の民によって殺害されました。ご同行されていた弟君──義守様と従者たちも同様に命を奪われ、所持品もことごとく奪われたと……」
冷え切った頭のなかに鷹比古の低い声が響く。しかしそれらの言葉を理解するまでに、龍守の頭はかなりの時間を要した。やがて龍守は無意識のうちに拳をきつく握りしめる。爪が肉に食い込み、白皙の肌から鮮血が滴った。
*
龍守の父たちの訃報を聞いた織瀬は、隼人や倶知比古とともに龍守の天幕へ向かって走った。
(陶州……。何てことなの、その地は……!)
前世でも聞いたその地名に、織瀬は唇を噛む。それは織瀬にとって、そしておそらく前世で出会った龍守にとっても、忌まわしい記憶を呼び起こさせる地名だった。
『陶州で罪のない民たちを虐殺した貴方が、そのように甘いことを──』
前世で龍守に向けて発した言葉を、織瀬は思い出す。
(今世の龍守殿と虐殺という言葉が結びつかなくて、すっかり頭の片隅に追いやっていた……。前世の龍守殿は、葛城公爵と対立し近衛将軍の任を解かれた後、なぜか陶州に攻め入りそこの民や役人たちを殺害している……)
その行動の理由は当時は詳らかにされておらず、葛城公爵に放逐された腹いせではないかと囁かれていたが──。
(龍守殿と行動を共にした今ならわかる。彼は身勝手な理由で誰かを傷つけるような人ではない。もしかしたら、前世で陶州に攻め入ったのも……)
遥か前方を駆ける隼人の後ろ姿を倶知比古と共に追いながら、織瀬は唇を噛む。
(なぜ私は前世で龍守殿の行動の理由を知ろうとしなかったの? もし過去でも同じ出来事が起こっていたのだとしたら……過去から戻ってきた私なら、それを止められたかもしれないのに)
まるで大きな手に心臓を握りつぶされたようだった。己の無力さが悔しくて、目と鼻の奥につんとした痛みが走る。
隼人はすでに龍守のいる天幕に飛び込んだようだった。遅れて到着した織瀬たちの耳を、隼人の叫びがつんざく。
「龍守どういうことだよ、軍を離れるって!」
「……」
血相を変えた隼人に一瞥もくれぬ龍守は、軍装を纏いすでに出陣の準備を終えていた。
「親父さんたちのこと、俺たちも聞いた。俄には信じられねぇけど……」
「信じたくはございませんが、事実です。──陶州の城門にお二方の首が晒されているのを、我が配下が確認しております」
龍守の傍らに立っていた鷹比古が、感情を押さえこむようにきつく眼を閉じる。
「私の見立てが甘かったのです。陶州牧の丹陽伯爵は今まで中央の勢力争いに関わろうとしなかったゆえ、大殿たちの一行が通過しても危険はなかろうと思っていた……。龍守様、私の落ち度です。この罰は如何様にも──」
「罪はそれを犯した者どもに贖わせる」
龍守の唇から発せられた感情の欠落したような声に、みなが息を呑んだ。
「……龍守様」
その名を呼ぶ倶知比古の声が震えている。
「龍守お前、今何考えてる」
「……」
隼人の問いに龍守は答えない。
「親父さんたちの弔いに行くってんならわかる。だけど三百の兵を連れてって……お前何するつもりだよ!?」
「……相手は剣もまともに握ったことのないような者たちばかりだろう。三百も居れば十分だ」
「質問に答えろよ! その三百の兵を連れて陶州の民たちに何をする気かって訊いてんだ!」
「……お前も良く言っているではないか。殺す気でかかって来る者たちに情けをかける必要などないと。──殺す気どころか、父と弟は本当に殺されたのだ」
地を這うような声音に、さすがの隼人もびくりと肩を震わせる。
「……龍守、冗談だろ? お前、そんなことしちまったら……」
「隼人殿。大殿たちは殺害されただけに留まらず、梟首などという罪人のような扱いを受けたのです。報復を行わなければこちらが侮られます」
常に冷静であったはずの鷹比古の発言とも思えなかった。隼人と倶知比古は眼を見張り、織瀬は喉元まで出かかった声を押し込める。
「報復って、鷹比古お前……相手は民だぞ?」
「もちろん最終的には州牧である丹陽伯爵に責任をお取りいただきます。しかしながら──」
「先生、今は葛城公爵との戦の最中です。陶州への派兵が避けられぬとしても、龍守様自ら出陣されるのであれば私は反対です」
声を震わせながらも、倶知比古はきっぱりと師の言葉に反駁する。
「それに陶州は……桂州の前に龍守様が治められていた地です。みな龍守様を慕っていました。今回のことが一部の民たちの暴走なのか、州牧である丹陽伯爵の指示によるものなのかも分かりません。まずはそこを明らかにしてからでも遅くは──」
「だが直接手を下したのが民たちであることは、残念ながら事実だ。私は大殿に大きな恩がある。──寄る辺なき身であった私を、家臣として引き立ててくださった恩が。いかな理由があったとしても、大殿を害した者たちを許すことはできない」
「先生……」
鷹比古の静かな決意を聞き、倶知比古は言葉を飲み込まざるを得なかった。
男たちの激しいやり取りを聞きながらも、織瀬は龍守の様子が気にかかっていた。
「……龍守殿」
かけるべき言葉を見つけられぬまま、織瀬は龍守の名を呼んだ。
振り返った龍守の、元々作り物のように整った相貌からは生気が抜け落ちている。まるで幽鬼のような凄絶さに織瀬は圧倒されたが、ここで怯むわけにはいかなかった。龍守の紅玉のような瞳に湛えられていたのは、今世で馴染んだ輝きではなく、前世で見たあの氷のように冷たい炎だったからだ。
(このままではいけない。龍守殿の手を、民たちの血で汚させてはならない)
織瀬は翡翠色の瞳を、真っ直ぐに龍守に向けた。
「……龍守殿。貴方は……父君たちの仇討ちとして、陶州の民を殺す気なのですね」
「……」
「そのようなことをすれば、貴方の名声は地に堕ちます。桂州で貴方が得ていたような民たちからの信頼も失うでしょう。……それでも陶州を攻めるつもりなのですか」
織瀬の言葉に、龍守は無言のままだ。
「……龍守、姫さんの言う通りだ。親父さんたちの仇討ちしなきゃってのも、やり返さなきゃ舐められるってのもわかる。だけど、普段お前に色々言ってる俺が言うのも何だけど……今回はやり返すべきじゃない。お前のこと好いてた民たちが、何の理由もなく親父さんたちを襲うはずねぇ。倶知比古の言う通り、せめてその理由を調べてから──」
「……理由があれば、父たちを殺したことを許せというのか」
「そう言うわけじゃねぇよ。でも戦で敵を斬るのとは訳が違う。一方的に民たちを殺したりなんかしたら、お前は──」
「五月蝿い!」
龍守の怒声は、まるで雷鳴のようにその場の空気を震わせた。織瀬は龍守と隼人の言い争いを何度も目にしていたが、これは今までのものとは全く質の違う争いだった。
「俺は鷹比古と兵たちを連れて陶州へ向かう。ここに残す兵たちの指揮は隼人と倶知比古に任せる」
「待てよ龍守!」
「……龍守殿。出陣を許可することはできません」
身を翻す龍守の背に向かい、織瀬は努めて冷静にそう言った。
「貴方が隼人殿と倶知比古殿の諫言に耳を貸さぬと言うのなら……連合軍の盟主として、そしてこの国の皇女として命じます。陶州への侵攻は許可できません」
「姫さん……」
織瀬は龍守へ向かって一歩を踏み出した。驚きを滲ませた隼人の視線が織瀬を追う。そして同じように驚愕の表情を浮かべる鷹比古と倶知比古の傍を通り過ぎ、織瀬は龍守と相対した。
「──織瀬姫。私に命令すると言うのですか」
「貴方がその怒りをそのまま民たちに向けるというのであれば、そうせざるを得ません」
「貴女も……民たちには何の責任もないと言うのですか。ふざけるのも大概にしていただきたい!」
今までの龍守の振る舞いからは考えられないほどの怒声が、織瀬に浴びせられた。
「龍守様……」
さすがに止めねばと声を上げる倶知比古に一瞥もくれず、龍守は織瀬を見据える。
「民たちは命ぜられただけで何の責任もないと? 兵士ではないのだから見逃せと? 兵であろうが民であろうが、自らの行いに対する責は負うべきだ。それにそもそも俺の父とて今は引退した身だ。何の理由もなく殺されて黙っていろと言うのか?」
「違います。黙っていろと言うわけではなく……」
「貴女の言っていることはそういうことだ。家族を殺された俺の気持ちも分からず口を挟まないでいただきたい!」
「……」
織瀬は暫し黙したまま、龍守を見つめた。その沈黙の間に、龍守は僅かながら冷静さを取り戻したのかもしれない。紅い瞳に宿っていた怒りの炎が、微かに揺らめく。
「織瀬姫、申し訳ございません。私は──」
「龍守殿」
謝罪の言葉を遮り、織瀬は龍守の怒りと対峙する。
「私に貴方の胸の内の、全ては分かりません。ですが貴方は貴方自身の気持ちを、最も深く理解しているはずです」
「は……」
「家族を、父君たちを害されて、貴方は怒っている。陶州の者たちを、貴方のご家族を襲った民たちを、深く恨んでいる。……ですがもし貴方が怒りのままに陶州に攻め入れば、貴方に家族を殺されるであろう民たちの怒りが──今の貴方と同じ激しい怒りが、今度は貴方自身に向かうことになるでしょう。それを恐れて、陶州の民全てを葬りますか? そのようなことをすれば、陶州だけでなく橘花国全土の信頼を貴方は失うことになります」
織瀬には家族を殺された龍守の気持ちが痛いほどに分かった。しかし同情などでは龍守の怒りを鎮めることはできないだろう。どれほど言葉を尽くしても、龍守には伝わらないかもしれない。──しかし織瀬は言わずにはいられなかった。
「私には貴方の想いの全てを理解することはできません。貴方のその怒りも悲しみも貴方だけのものです。貴方や鷹比古殿の怒りを否定することは誰にもできません。……ですがどうか、心から貴方を思う者たちの言葉を聞いてください。隼人殿や倶知比古殿がどのような思いで貴方を止めているか、貴方になら分かるはずです」
織瀬は両目から溢れ出しそうになる感情を堪えながら、真っ直ぐに龍守を見つめた。
「龍守殿。貴方が私を助けてくださるその理由のなかに、橘花国への忠義だけでなく貴方自身の野心があることは私も気づいています。その上で、あえて言います。──貴方にもしこの国に対する野心があったとしても、このままでは葛城公爵と同じ轍を踏み早晩破滅します。臣下の諫言も聞かず、治めるべき、庇護するべき民を害するような者に、一体誰が従うと言うのです」
織瀬の言葉に、この部屋にいる者全員が息を呑んだ。龍守に対し真っ向から正論を述べる胆力に対してはもちろんだが、それ以上に皇女である織瀬の口から発せられたその言葉を、その意味をどう捉えれば良いのか分からずに、那岐山家の家臣たちは困惑していた。
「織瀬姫、貴女は私に……」
その真意を問おうとする龍守も、続く言葉を見つけられぬようだった。
「龍守殿。私はあの夜──貴方と外廷でお会いした時、貴方に私自身とこの国の未来を託しました。貴方がどうあっても考えを変えぬというのなら、これ以上私に言うことはありません。……ですがどうか、道を誤らないでください。貴方にとって最も大切なものを見失わないでください。貴方がこれから進む道に、汚点を残すようなことだけはしないでください」
「……」
龍守は無言で織瀬を見つめたのち、踵を返した。出口に向かって歩きだす背に向かって、鷹比古が静かに呼びかける。
「……龍守様」
「鷹比古、兵を集めよ。出陣する」
「おい、龍守お前……っ!」
「但し目指すのは州牧である丹陽伯爵の屋敷だ。陶州の民たちは捨て置く。──いや、決して傷つけてはならぬ。兵たちにもよくよく伝えよ」
「……はっ……!」
龍守の命を受けた鷹比古は、当初の怒りを消し去った表情で天幕を出て行った。そのあとに続き立ち去ろうとする龍守に向かって、織瀬は深く頭を垂れる。
「……龍守殿、ありがとうございます」
「……」
金の髪がかすかに揺れた。龍守はわずかに躊躇うような仕草を見せたものの、ついに振り返ることはせずに天幕を出て行った。




