第十四章 桂州へ
夜の帳が下りた大地を、複数の馬蹄が踏み鳴らす。月の無い夜空はまるで小さな宝石をばら撒いたような輝きに満ちていたが、馬上の者たちの誰も頭上に目を向ける余裕などなかった。
背中に龍守の体温を感じるにも関わらず、織瀬は身体の震えを抑えることが出来ずにいる。
(人が斬られるところを見たのは初めてではない。それこそ前世で幾度も……。なのに何故、こんなにも私は怯えているの……)
その理由にある程度見当はついていた。俊元を斬ってしまったことを認識した龍守が見せた、あの感情を無くしたような瞳。今世で初めて顔を合わせた時からは感じられなかった、前世での冷たい眼差しの片鱗が、そこにあるように感じられた。
「あの……那岐山侯爵」
「……如何されました、織瀬姫」
「申し訳ありません。私の不注意のせいで、貴方の手を汚させてしまい……」
「織瀬姫のせいではございません。私は武官ですから、人を斬るのはこれが初めてではございません。ですので、お気になさらずに」
「……」
織瀬は襟元をぎゅっと握りしめた。泣き出したいような気持ちを、ぐっと押し殺す。一番涙を流したいであろう人物が平静を装っているのに、それを差し置いて織瀬が泣くことは出来なかった。
「……あちらに森が見えますな。今夜はこのあたりで休みましょう」
先頭を行く鷹比古の声に、ゆっくりと馬足を緩める。星明かりすら遮るほどの鬱蒼とした森のなかに、織瀬は龍守たちとともに分け入った。やがてわずかに木々が途切れ、柔らかな草が茂る場所に差し掛かる。
「龍守様。こちらで野営するのがよろしいと思いますが」
「ああ。……織瀬姫、お手を」
「はい。ありがとうございます」
龍守の手を取り、織瀬は馬の背から下りた。
「龍守、火は焚くか?」
「……いや、止めておこう。倶知比古、織瀬姫に水と食事を。──織瀬姫、結局野宿になってしまい申し訳ありません。この布の上におかけください」
「ありがとうございます」
「織瀬姫様、粗末なもので申し訳ございませんが。……龍守様もどうぞこちらを」
「ああ」
鷹比古と隼人にも食料を手渡して、倶知比古も腰を下ろす。星明かりの下で終始無言のまま、織瀬たちはそれぞれの食事を終えた。
「龍守。明日は夜が明けたらすぐ出発するよな?」
「……そうだな」
「じゃ、もう寝るか。見張りは俺と鷹比古で交代でやればいいよな?」
「そうですな」
「いや、俺も入る」
「龍守、お前ここんとこまともに寝てねぇだろ。ちゃんと休んどかねぇとまた──」
「気が昂って眠れそうにない。一番手は俺がやるからさっさと寝ろ」
やや投げやりな調子で言うと、龍守は立ち上がった。そして馬の背に積んでいた荷物から厚みのある布地を引き出し、それを織瀬の肩に掛ける。
「夏場とはいえ森の中は冷えます。織瀬姫はこちらをお使いください」
「ありがとうございます。那岐山侯爵、あの……」
「私は少し離れたところで番をしています」
そう言い置くと、龍守はひとり木の影のなかに姿を消した。
「……隼人殿。龍守様をおひとりにして大丈夫でしょうか」
「大丈夫じゃねぇけど……今はそうしてやるしかねぇだろ」
不安げな倶知比古の問いかけに溜め息混じりに応じると、隼人は草の上にごろりと横になる。倶知比古はなおも心配そうに鷹比古に視線を向けたが、鷹比古は無言のまま首を振るばかりだった。
「姫さんもあんなもの見ちまったあとで落ち着かねぇかもだけど、ちゃんと寝とかねぇと後がしんどいぜ」
「はい……」
龍守から渡された布地に、織瀬はそっと触れる。柔らかなそれは何かの動物の毛でできているのだろうか。かすかに龍守が使っているものと同じ香の薫りが感じられる。
胸の動悸が治まりきらないうちは眠れる気はしなかったが、鷹比古や倶知比古にも促され、織瀬は静かに瞼を閉じた。
*
「……」
うつらうつらと夢と現実のあいだを彷徨っているうちに、不意に何かが動くような気配がして、織瀬は薄らと瞼を開けた。
空に輝く星の位置は、目を閉じる前とは違っている。見張りの交代を行うのだろうか、隼人が静かに森の中を、龍守が消えたほうへと進んでいくのが見えた。
織瀬は肩からそっと毛布を落とし立ち上がる。
「……織瀬姫様、如何なされましたか……?」
思いがけず名を呼ばれ、織瀬は肩を震わせた。寝ぼけ眼を擦りながら、倶知比古がゆっくりと起き上がる。
「倶知比古殿……。えっと、その……少々、用を足しに……」
しどろもどろになる織瀬に、今度は倶知比古が肩を跳ねさせる。
「あ……申し訳ございません、察しが悪くて……。その、あまり遠くまで行かないようにしてくださいね」
「はい。すぐ戻りますので、倶知比古殿はお休みになっていてください」
倶知比古に言ったことはあながち嘘でもないので、織瀬は静かに草むらのなかに分け行っていく。そして用を済ませ、鷹比古や倶知比古のもとに戻ろうとしたところで、不意に隼人の声が耳に飛び込んできた。
「──龍守お前、眠れねぇとかぬかしてねぇで、せめて眼ぇ閉じて横になってろよ。それだけでも違うぜ」
その言葉に対し龍守は無言だ。
織瀬のいる場所からは、龍守たちの姿は見ることができない。だが見えぬはずの龍守の表情がありありと目に浮かぶ気がして、織瀬の胸は痛んだ。
「俺たちが厩に行ったあと何があったか鷹比古から聞いたけどよ、お前は姫さんを助けるためにやったんだろ? 襲ってきた奴らにも言ったけど、そっちが殺す気で来てんだから何されても文句言われる筋合いはねぇよ」
やがて絞り出すような龍守の声が聞こえてきた。
「……俊元殿は父の友人だ。斬らずともよかったのではないかと後悔している」
「おい龍守、兄貴にも言われてたけどお前甘すぎるぜ。俺に言わせりゃ、あの次男だって殴るんじゃなくて最初から斬っちまえばよかったんだ。今ごろきっと、那岐山龍守に襲われて家族と村人が殺されたとか県尉に訴えてるんじゃねぇの?」
「お前は昔から、陽気そうに見えてさらりと物騒なことを言うな。……もともとこの世界の人間ではないのだろうに、俺よりよほど適応しているではないか」
龍守の言葉に、織瀬は思わず口元を押さえる。
(隼人殿がこの世界の人間ではない……? 那岐山侯爵は一体何の話をしているの……?)
その意味を咀嚼しきれぬまま、今度は隼人が更に織瀬を混乱させるようなことを言い出した。
「前世を思い出したのは四年前だって言っただろ。それまでは普通にこの世界の人間として生きてたんだから、こっちの常識に染まってて当然じゃねぇか」
「だがお前が元いた世界には戦などなく、人を殺せば即座に獄に繋がれるのだろう?」
「あくまで俺がいた国では、の話だ。そうじゃねぇ所だってたくさんあったよ」
吐き出すように言うと、隼人は木にもたれかかった。
「ま、とりあえず何が言いてぇかっていうと、お前は一ミリも悪くねぇってことだよ。官試に受かって最初の従軍が酷かったからそれがトラウマなんだろうけど、お前いつも守んなきゃなんねぇもんはちゃんと守れてるじゃねぇか。今回だって姫さんは無事だったんだし。……むしろどこに凹むポイントがあんだよ」
「……隼人。ところどころ俺が知らぬ用語が混じっているのだが」
「そこは雰囲気で察しろ」
「適当な奴め」
ふっと龍守が笑うような声が聞こえた。
「さて……では俺も少し眠っておくか」
「ああ、そうしろ。俺はこのまま夜明けまで起きてるよ。鷹比古も疲れてるだろうし。……九割がたお前のせいだけど」
「それこそ自業自得だ。もっと良い仕官先もあっただろうに、わざわざ俺に仕えている酔狂人だからな、鷹比古は」
「……やっと言動がらしくなってきたな」
隼人がにやりと笑った。
「では見張りは頼んだぞ、隼人」
「おう、任せろ」
龍守が立ち上がり、織瀬のほうに向かって歩いて来る。そのかすかな足音で、呆然としていた織瀬は我に返った。
(いけない、早く倶知比古殿たちのところへ戻らなければ。……というか、私ったら立ち聞きなどをして、なんてはしたない……!)
慌てて踵を返そうとするも、
「──織瀬姫?」
「あ……那岐山侯爵……」
あっさりと龍守に見つかってしまった。
「申し訳ございません。その……用を足しに出てきたのですが、お二人の声が聞こえたもので……」
「ああ、そうでしたか」
気まずそうな織瀬に対し、龍守は何事も無かったかのように微笑む。
「それならば私と一緒に戻りましょう。ちょうど隼人と見張りを交代するところだったのです」
「……はい」
背中を向けたままひらひらと手を振る隼人に小さく会釈をし、織瀬は龍守の後に続く。
(先ほどの二人の会話……この世界だとか前世だとか、気になるけれど……)
もしかしたら隼人は過去から戻って来ているのか、織瀬と同じように──。それを確かめたい思いもあったが、
(……那岐山侯爵の気持ちが少し落ち着いたようで、良かったわ)
龍守の横顔に生気が戻ったことを安堵する気持ちのほうが、織瀬の胸のなかでより多くの場所を占めていた。
*
「龍守様。こちらをご覧いただけますか」
朝食を終え出立の準備を始めようとしたところで、倶知比古がそう声をかけた。織瀬も朝食の後片付けの手を止めて、倶知比古のほうへと目をやる。
──因みに今朝の朝食は、龍守と隼人がどこかから仕留めて来た兎と鳥だった。龍守自らそれを捌くのを思わず横から手伝ってしまったのだが、臆することなく小刀を扱う織瀬を見た龍守は、何とも形容しがたい表情をしていた。これも前世の経験が為せる技であるのだが、とっさに、
『以前に捌きかたを書物で読んだことがありまして……』
と取り繕ったのは、さすがに不自然すぎたかもしれない。
(那岐山侯爵は、意外と顔に感情が出るのね……。あれは完全に呆れられたわ……皇女らしくないって……)
織瀬としては庇護を受けるばかりでなく、何か役に立ちたいと思ったゆえの行動だったのだが、どうも空回っているようだ。それはともかく──。
「どうした倶知比古。……これは」
倶知比古が差し出したものを受け取り、龍守はほうと感心したように息を吐く。
「なかなか似ているではないか」
「何だ何だ?」
横から隼人が覗き込む。
「何だこれ、龍守の似顔絵か? あんま似てねぇぞ。……これスチルで出たら炎上すんな」
最後の呟きはおそらく誰にも意味が分からなかったであろうが、皆慣れているのかそのまま流している。
「似顔絵ではなくて手配書ですよ、隼人殿。昨夜襲ってきた者たちの懐に入っていたのですが、龍守様がお尋ね者になっているようです。……罪状は葛城公爵の暗殺未遂と皇宮への放火ですね」
「放火は倶知比古の作ったものを使って日向がやったのだから冤罪だ。……それはそうと、皇女誘拐には触れていないのだな」
「それはさすがに公表できぬのでしょうな」
「えーっと何なに、『金髪紅眼、長身痩躯、体貌閑麗にして文武に秀で──』って何だこれ。描写盛りすぎじゃね? まさか書いたの鷹比古か?」
「……私が作るなら、もっとましな人相書きにいたしますよ。ですが似ていないとはいえ特徴は捉えておりますので面倒ですな」
織瀬もそっと龍守の手にある人相書きを覗き込む。墨で描かれているため当然色はないのだが、それでも一目見ればこれが龍守だということははっきりと分かる。優美な弧を描く眉、切れ長の瞳、通った鼻筋、少し皮肉げな笑みの似合う薄い唇──。
「……あえて言えば、輪郭が違うのでしょうか」
思わず織瀬がそう呟くと、
「あっ、そうだそれそれ。そこ修正かけねぇとな」
「確かに織瀬姫様の仰る通り……」
「龍守様のお顔はもっと面長で品がありますな」
などと家臣たちも口々に言う。その会話を聞きながら、龍守は呆れたように肩を竦め、手配書を倶知比古の手に戻した。
「馬鹿どもばかりでなく織瀬姫まで……。無駄話をしていないでさっさと出発するぞ。──姫はこちらの馬へどうぞ」
「はい」
龍守の手を取り、織瀬は騎乗する。桂州までの道のりは遠いが、頭上の蒼天は晴れやかな輝きに満ちていた。
*
がしゃん、と陶器の割れる音が宮のなかに響き渡った。ばらばらになった破片と花びらが床に散乱する中、紅蘭はいらいらと爪を噛みながら呟く。
「もう、いつになったらお姉様は……那岐山侯爵は見つかるのよ」
花瓶を叩きつけた紅蘭は、落ち着かなげに部屋のなかを歩き回る。伯父である葛城乙彦の求めに応じ下女ふたりを差し出したにも関わらず、その対価である那岐山龍守は未だ紅蘭のものになっていない。
「どうして那岐山侯爵はお姉様を攫ったのよ。……私のほうがずっとお慕いしているのに。あんな利口ぶって可愛げのないお姉様なんかより、私のほうがずっとあのかたに相応しいのに……」
紅蘭の脳裏に、宴で舞う龍守の姿がよぎる。返す返すもあれほどに美しい男はいない。あの宝石のように紅い瞳に見つめられ、あの艶めいた声で愛を囁かれ、あの精巧に造られた彫像のような身体に抱きしめられるべきなのは、紅蘭なのだ。卑しい生まれの姉などではない──。
「あ、あの……紅蘭皇女殿下。皇太后陛下からのご指示で……今朝の儀式で巫女をお務めいただきたいので、御身を清められるようにと……」
恐る恐るといった様子で、部屋に控える侍女のひとりが紅蘭に声をかけた。紅蘭が顔を上げると、ひっと怯えたような声を漏らし、それが紅蘭の苛立ちを掻き立てる。
「……巫女ですって? なぜ私がそんなことをしなければならないのよ。年寄りたちの前で小難しい祝詞を読んで踊って……馬鹿みたい」
「ですが、その……ここのところ安比家の反乱や葛城公爵が襲われた一件など縁起の悪いことが続いておりますから、皇太后陛下が清めの儀式を行いたいと……」
「だから、なぜ私がやらなければならないの? そんなものお姉様にやらせれば──」
そう口走ったところで、紅蘭は無意識のままぎりっと歯軋りをした。
「しかし……翠蓮皇女殿下は今、皇宮にいらっしゃらないので……」
「その名を呼ばないで!」
紅蘭は手元にあった小箱を掴むと、それを侍女に投げつけた。小箱の蓋が開き、そこから色とりどりの宝石や装飾品が飛び散る。
「紅蘭皇女殿下……」
「お前のせいで、私の持ちものに傷がついたわ。……この首飾りはお母様にいただいたものなの。大きな赤い宝玉が綺麗で気に入っていたのに、お前のせいでこんなに大きな傷がついてしまった」
別の侍女に床に落ちた首飾りを拾わせ、紅蘭は顔を引き攣らせる侍女にそれを突きつける。
「困ったわ、お母様が知ったらきっと悲しまれる。……お前たちもそう思うでしょう?」
扇の影から流し見る紅蘭の視線を受けて、標的になっている侍女以外の者たちは一斉に頷きを返す。
「は、はい……。紅蘭皇女殿下の仰る通りです……」
「そうよね。ならばこの者には相応の罰を受けてもらわなきゃ……。伯父様に、他にも侍女の首が必要かどうか訊いてきなさい」
「か、かしこまりました……!」
「申し訳ございませんでした、紅蘭皇女殿下。どうかそれだけは……!」
「五月蝿いわね。罪人が自分で罰を選べるとでも思ってるの?」
泣き崩れる侍女、紅蘭の指示を果たすべく慌てて部屋を出ていく者、部屋の隅で怯えた表情を浮かべる者──。普段であればこれで多少は気がおさまるのだが、今日に限っては苛立ちが増すばかりだ。
「もうすぐ……もうすぐあのかたは私のものになるわ。お姉様なんかに渡さない……。大丈夫よ、私には味方がいるんだから……」
扇を握りしめながらぶつぶつと呟く紅蘭を、侍女たちはまるで物怪でも見るような目で見つめていた。
*
幾晩かの野宿を経た織瀬の眼の前には、初めて見る光景が広がっていた。
聳え立つ山々を背にした州都の門を潜ると、そこには活気のある街並みが広がっている。食べ物や装飾品、その他あらゆるものが売買される店が大通り沿いに軒を連ね、呼び込みの声がそこかしこで響く。
織瀬は瞬きすら忘れるほどの感動をもって、翡翠色の瞳でそれらを見つめていた。
「織瀬姫。愛らしい唇が開いておりますよ」
「……っ!?」
織瀬は慌てて掌で口元を覆った。街並みを見るのに夢中になってぽかんと口を開けていたのかもしれない。何とはしたない──と頬を赤らめていると、
「冗談です」
と、背後から龍守が悪びれもせずに言った。
「……那岐山侯爵」
じとりと織瀬が睨みつけると、龍守は可笑しそうに喉を震わす。
「いや、失礼。織瀬姫の反応があまりに初々しく可愛らしかったもので。……それはそうと、桂州は気に入りましたか?」
「はい。とても賑やかで、民たちも生き生きとしていて……。こちらの気持ちも晴れやかになりますね」
「それは良かった」
龍守が微かに唇を緩めたその時、
「おい、あの金髪……前の州牧様じゃないか!?」
馬上の龍守を指さして、通りに居た男のひとりが叫んだ。その声に人々の視線が一斉に男の示すほうへと集まる。
「本当だ、龍守様だ!」
「おかえりなさい龍守様!」
老若男女問わず、口ぐちに歓迎の言葉を投げる。その声に応えるように龍守が手を挙げると、一際大きな歓声が沸き起こった。
「相変わらず人気者ですね、龍守様は」
「分かんねぇよなぁ、この沸点の低い馬鹿の何処が良いのか……」
「人間性云々よりも、まずは為政者として優れていることが重要なのです。隼人殿」
「……」
後ろに従う家臣たちの囁きを聞きながらも、織瀬はそっと龍守の表情を窺う。
口角を上げ、紅い瞳には自信に満ちた輝きが溢れている。陽の光を背負ったその姿は、まさに民たちの称賛を受けるに相応しいものだった。
「──龍守様、そちらのお綺麗なかたはどこから攫ってこられたので?」
不意に響いた声に、街路がどっと笑いに包まれる。龍守は呆れたような苦笑を浮かべながら、
「おいこら、今失礼なことを言ったのは茶屋の主人だな? この後俺の配下で酒に強い者を十人ばかり送るから覚悟しておけ。──こちらの姫君は、帝都で最も高貴なおかただ。遠からず俺の妻になるのだから、皆丁重に扱うのだぞ」
「なっ……!?」
「何だって、ついに龍守様がご結婚なさると!?」
「そんな、嘘でしょう!?」
喉元まで出かかった織瀬の抗議は、人々の喝采と女性たちの悲壮な叫びにかき消される。
「あのっ……那岐山侯爵……!」
「如何しました、織瀬姫?」
「私が貴方の妻って……どういうことですか!?」
「そう約束したでしょう?」
「しましたけど……それは反乱を止められたらの話で……!」
「日時も貴女が仰ったものと違っていたのに、良くやったほうだとは思いませんか? それに貴女の本当の目的は葛城乙彦を追い落とすことでしょう? そちらに関しては私はまだ諦めておりませんので」
「……!」
耳元で囁かれ、織瀬の背を戦慄が走る。
「那岐山侯爵……! 耳元で言わないでくださいっ……!」
「おや。民たちに聞かれると憚りがあると思ったゆえなのですが……何をそんなに赤くなっているのです?」
「貴方という人は……!」
にやにやと笑う龍守を、織瀬はきっと睨みつける。
「おやおや、龍守様が楽しんでおられる」
「仲睦まじそうで結構なこと」
「悔しいけど……美男美女すぎて文句言えない……」
民たちの声に、『そんな関係じゃありませんから!』と織瀬が思わず訴えようとしたその時、
「龍守様ぁ! お待ちしておりましたぞぉ!」
大音声とともに、馬上にいても見上げるほどの体格の大男が人波を掻き分けながら現れた。
「忍たちから知らせを聞き、今か今かと待っておりました! さあ、どうぞ屋敷のほうへお越しください!」
「出迎えご苦労、野磨」
「……相変わらず声がでけぇよ。鼓膜破れそうだわ」
「お前に言われたくないなぁ、隼人!」
野磨と呼ばれた大男は、顔をしかめる隼人に対しがははと豪快な笑い声を上げる。
突然現れた男にきょとんとする織瀬に、龍守が苦笑混じりに言った。
「織瀬姫。これが現在、桂州の牧を務めている野磨という者です。少しお話ししてあったとは思いますが、元々那岐山家に仕えていた者故あまり緊張せずとも大丈夫ですよ」
「は、はい……。よろしくお願いします、野磨殿。私は──」
「よろしくお願いいたします、奥方様!」
「えっ……!?」
戸惑いながらも名乗ろうとする織瀬の言葉を遮って、野磨がにかっと屈託のない笑みを浮かべる。
「あ、あの……奥方と言うのは……」
「気が早いぞ、野磨。そう呼ぶのは祝言を挙げてからだ」
「ああ、そうですな。いやいや申し訳ない、奥方様」
「ですからっ……私は奥方ではありませんっ……!」
「そう照れずとも良いでしょう、織瀬姫。私と貴女の仲で」
「だからどんな仲ですかっ! 誤解を招くようなことを言わないでください那岐山侯爵っ!」
顔を真っ赤にして言い募る織瀬を揶揄う龍守の唇に、笑いがさざなみのように広がっていった。




