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第十四章 桂州へ

 夜の帳が下りた大地を、複数の馬蹄が踏み鳴らす。月の無い夜空はまるで小さな宝石をばら撒いたような輝きに満ちていたが、馬上の者たちの誰も頭上に目を向ける余裕などなかった。

 背中に龍守(たつもり)の体温を感じるにも関わらず、織瀬(おりせ)は身体の震えを抑えることが出来ずにいる。


(人が斬られるところを見たのは初めてではない。それこそ前世で幾度も……。なのに何故、こんなにも私は怯えているの……)


 その理由にある程度見当はついていた。俊元(としもと)を斬ってしまったことを認識した龍守(たつもり)が見せた、あの感情を無くしたような瞳。今世で初めて顔を合わせた時からは感じられなかった、前世での冷たい眼差しの片鱗が、そこにあるように感じられた。


「あの……那岐山(なぎやま)侯爵」

「……如何されました、織瀬(おりせ)姫」

「申し訳ありません。私の不注意のせいで、貴方の手を汚させてしまい……」

織瀬(おりせ)姫のせいではございません。私は武官ですから、人を斬るのはこれが初めてではございません。ですので、お気になさらずに」

「……」


 織瀬(おりせ)は襟元をぎゅっと握りしめた。泣き出したいような気持ちを、ぐっと押し殺す。一番涙を流したいであろう人物が平静を装っているのに、それを差し置いて織瀬(おりせ)が泣くことは出来なかった。


「……あちらに森が見えますな。今夜はこのあたりで休みましょう」


 先頭を行く鷹比古(たかひこ)の声に、ゆっくりと馬足を緩める。星明かりすら遮るほどの鬱蒼とした森のなかに、織瀬(おりせ)龍守(たつもり)たちとともに分け入った。やがてわずかに木々が途切れ、柔らかな草が茂る場所に差し掛かる。


龍守(たつもり)様。こちらで野営するのがよろしいと思いますが」

「ああ。……織瀬(おりせ)姫、お手を」

「はい。ありがとうございます」


 龍守(たつもり)の手を取り、織瀬(おりせ)は馬の背から下りた。


龍守(たつもり)、火は焚くか?」

「……いや、止めておこう。倶知比古(くちひこ)織瀬(おりせ)姫に水と食事を。──織瀬(おりせ)姫、結局野宿になってしまい申し訳ありません。この布の上におかけください」

「ありがとうございます」

織瀬(おりせ)姫様、粗末なもので申し訳ございませんが。……龍守(たつもり)様もどうぞこちらを」

「ああ」


 鷹比古(たかひこ)隼人(はやと)にも食料を手渡して、倶知比古(くちひこ)も腰を下ろす。星明かりの下で終始無言のまま、織瀬(おりせ)たちはそれぞれの食事を終えた。


龍守(たつもり)。明日は夜が明けたらすぐ出発するよな?」

「……そうだな」

「じゃ、もう寝るか。見張りは俺と鷹比古(たかひこ)で交代でやればいいよな?」

「そうですな」

「いや、俺も入る」

龍守(たつもり)、お前ここんとこまともに寝てねぇだろ。ちゃんと休んどかねぇとまた──」

「気が昂って眠れそうにない。一番手は俺がやるからさっさと寝ろ」


 やや投げやりな調子で言うと、龍守(たつもり)は立ち上がった。そして馬の背に積んでいた荷物から厚みのある布地を引き出し、それを織瀬(おりせ)の肩に掛ける。


「夏場とはいえ森の中は冷えます。織瀬(おりせ)姫はこちらをお使いください」

「ありがとうございます。那岐山(なぎやま)侯爵、あの……」

「私は少し離れたところで番をしています」


 そう言い置くと、龍守(たつもり)はひとり木の影のなかに姿を消した。


「……隼人(はやと)殿。龍守(たつもり)様をおひとりにして大丈夫でしょうか」

「大丈夫じゃねぇけど……今はそうしてやるしかねぇだろ」


 不安げな倶知比古(くちひこ)の問いかけに溜め息混じりに応じると、隼人(はやと)は草の上にごろりと横になる。倶知比古(くちひこ)はなおも心配そうに鷹比古(たかひこ)に視線を向けたが、鷹比古(たかひこ)は無言のまま首を振るばかりだった。


「姫さんもあんなもの見ちまったあとで落ち着かねぇかもだけど、ちゃんと寝とかねぇと後がしんどいぜ」

「はい……」


 龍守(たつもり)から渡された布地に、織瀬(おりせ)はそっと触れる。柔らかなそれは何かの動物の毛でできているのだろうか。かすかに龍守(たつもり)が使っているものと同じ香の薫りが感じられる。

 胸の動悸が治まりきらないうちは眠れる気はしなかったが、鷹比古(たかひこ)倶知比古(くちひこ)にも促され、織瀬(おりせ)は静かに瞼を閉じた。





「……」


 うつらうつらと夢と現実のあいだを彷徨っているうちに、不意に何かが動くような気配がして、織瀬(おりせ)は薄らと瞼を開けた。

 空に輝く星の位置は、目を閉じる前とは違っている。見張りの交代を行うのだろうか、隼人(はやと)が静かに森の中を、龍守(たつもり)が消えたほうへと進んでいくのが見えた。

 織瀬(おりせ)は肩からそっと毛布を落とし立ち上がる。


「……織瀬(おりせ)姫様、如何なされましたか……?」


 思いがけず名を呼ばれ、織瀬(おりせ)は肩を震わせた。寝ぼけ眼を擦りながら、倶知比古(くちひこ)がゆっくりと起き上がる。


倶知比古(くちひこ)殿……。えっと、その……少々、用を足しに……」


 しどろもどろになる織瀬(おりせ)に、今度は倶知比古(くちひこ)が肩を跳ねさせる。


「あ……申し訳ございません、察しが悪くて……。その、あまり遠くまで行かないようにしてくださいね」

「はい。すぐ戻りますので、倶知比古(くちひこ)殿はお休みになっていてください」


 倶知比古(くちひこ)に言ったことはあながち嘘でもないので、織瀬(おりせ)は静かに草むらのなかに分け行っていく。そして用を済ませ、鷹比古(たかひこ)倶知比古(くちひこ)のもとに戻ろうとしたところで、不意に隼人(はやと)の声が耳に飛び込んできた。


「──龍守(たつもり)お前、眠れねぇとかぬかしてねぇで、せめて眼ぇ閉じて横になってろよ。それだけでも違うぜ」


 その言葉に対し龍守(たつもり)は無言だ。

 織瀬(おりせ)のいる場所からは、龍守(たつもり)たちの姿は見ることができない。だが見えぬはずの龍守(たつもり)の表情がありありと目に浮かぶ気がして、織瀬(おりせ)の胸は痛んだ。


「俺たちが厩に行ったあと何があったか鷹比古(たかひこ)から聞いたけどよ、お前は姫さんを助けるためにやったんだろ? 襲ってきた奴らにも言ったけど、そっちが殺す気で来てんだから何されても文句言われる筋合いはねぇよ」


 やがて絞り出すような龍守(たつもり)の声が聞こえてきた。


「……俊元(としもと)殿は父の友人だ。斬らずともよかったのではないかと後悔している」

「おい龍守(たつもり)、兄貴にも言われてたけどお前甘すぎるぜ。俺に言わせりゃ、あの次男だって殴るんじゃなくて最初から斬っちまえばよかったんだ。今ごろきっと、那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)に襲われて家族と村人が殺されたとか県尉に訴えてるんじゃねぇの?」

「お前は昔から、陽気そうに見えてさらりと物騒なことを言うな。……もともとこの世界の人間ではないのだろうに、俺よりよほど適応しているではないか」


 龍守(たつもり)の言葉に、織瀬(おりせ)は思わず口元を押さえる。


隼人(はやと)殿がこの世界の人間ではない……? 那岐山(なぎやま)侯爵は一体何の話をしているの……?)


 その意味を咀嚼しきれぬまま、今度は隼人(はやと)が更に織瀬(おりせ)を混乱させるようなことを言い出した。


「前世を思い出したのは四年前だって言っただろ。それまでは普通にこの世界の人間として生きてたんだから、こっちの常識に染まってて当然じゃねぇか」

「だがお前が元いた世界には戦などなく、人を殺せば即座に獄に繋がれるのだろう?」

「あくまで俺がいた国では、の話だ。そうじゃねぇ所だってたくさんあったよ」


 吐き出すように言うと、隼人(はやと)は木にもたれかかった。


「ま、とりあえず何が言いてぇかっていうと、お前は一ミリも悪くねぇってことだよ。官試に受かって最初の従軍が酷かったからそれがトラウマなんだろうけど、お前いつも守んなきゃなんねぇもんはちゃんと守れてるじゃねぇか。今回だって姫さんは無事だったんだし。……むしろどこに凹むポイントがあんだよ」

「……隼人(はやと)。ところどころ俺が知らぬ用語が混じっているのだが」

「そこは雰囲気で察しろ」

「適当な奴め」


 ふっと龍守(たつもり)が笑うような声が聞こえた。


「さて……では俺も少し眠っておくか」

「ああ、そうしろ。俺はこのまま夜明けまで起きてるよ。鷹比古(たかひこ)も疲れてるだろうし。……九割がたお前のせいだけど」

「それこそ自業自得だ。もっと良い仕官先もあっただろうに、わざわざ俺に仕えている酔狂人だからな、鷹比古(たかひこ)は」

「……やっと言動がらしくなってきたな」


 隼人(はやと)がにやりと笑った。


「では見張りは頼んだぞ、隼人(はやと)

「おう、任せろ」


 龍守(たつもり)が立ち上がり、織瀬(おりせ)のほうに向かって歩いて来る。そのかすかな足音で、呆然としていた織瀬(おりせ)は我に返った。


(いけない、早く倶知比古(くちひこ)殿たちのところへ戻らなければ。……というか、私ったら立ち聞きなどをして、なんてはしたない……!)


 慌てて踵を返そうとするも、


「──織瀬(おりせ)姫?」

「あ……那岐山(なぎやま)侯爵……」


あっさりと龍守(たつもり)に見つかってしまった。


「申し訳ございません。その……用を足しに出てきたのですが、お二人の声が聞こえたもので……」

「ああ、そうでしたか」


 気まずそうな織瀬(おりせ)に対し、龍守(たつもり)は何事も無かったかのように微笑む。


「それならば私と一緒に戻りましょう。ちょうど隼人(はやと)と見張りを交代するところだったのです」

「……はい」


 背中を向けたままひらひらと手を振る隼人(はやと)に小さく会釈をし、織瀬(おりせ)龍守(たつもり)の後に続く。


(先ほどの二人の会話……この世界だとか前世だとか、気になるけれど……)


 もしかしたら隼人(はやと)は過去から戻って来ているのか、織瀬(おりせ)と同じように──。それを確かめたい思いもあったが、


(……那岐山(なぎやま)侯爵の気持ちが少し落ち着いたようで、良かったわ)


龍守(たつもり)の横顔に生気が戻ったことを安堵する気持ちのほうが、織瀬(おりせ)の胸のなかでより多くの場所を占めていた。





龍守(たつもり)様。こちらをご覧いただけますか」


 朝食を終え出立の準備を始めようとしたところで、倶知比古(くちひこ)がそう声をかけた。織瀬(おりせ)も朝食の後片付けの手を止めて、倶知比古(くちひこ)のほうへと目をやる。

 ──因みに今朝の朝食は、龍守(たつもり)隼人(はやと)がどこかから仕留めて来た兎と鳥だった。龍守(たつもり)自らそれを捌くのを思わず横から手伝ってしまったのだが、臆することなく小刀を扱う織瀬(おりせ)を見た龍守(たつもり)は、何とも形容しがたい表情をしていた。これも前世の経験が為せる技であるのだが、とっさに、


『以前に捌きかたを書物で読んだことがありまして……』


と取り繕ったのは、さすがに不自然すぎたかもしれない。


那岐山(なぎやま)侯爵は、意外と顔に感情が出るのね……。あれは完全に呆れられたわ……皇女らしくないって……)


 織瀬(おりせ)としては庇護を受けるばかりでなく、何か役に立ちたいと思ったゆえの行動だったのだが、どうも空回っているようだ。それはともかく──。


「どうした倶知比古(くちひこ)。……これは」


 倶知比古(くちひこ)が差し出したものを受け取り、龍守(たつもり)はほうと感心したように息を吐く。


「なかなか似ているではないか」

「何だ何だ?」


 横から隼人(はやと)が覗き込む。


「何だこれ、龍守(たつもり)の似顔絵か? あんま似てねぇぞ。……これスチルで出たら炎上すんな」


 最後の呟きはおそらく誰にも意味が分からなかったであろうが、皆慣れているのかそのまま流している。


「似顔絵ではなくて手配書ですよ、隼人(はやと)殿。昨夜襲ってきた者たちの懐に入っていたのですが、龍守(たつもり)様がお尋ね者になっているようです。……罪状は葛城(かづらぎ)公爵の暗殺未遂と皇宮への放火ですね」

「放火は倶知比古(くちひこ)の作ったものを使って日向(ひむか)がやったのだから冤罪だ。……それはそうと、皇女誘拐には触れていないのだな」

「それはさすがに公表できぬのでしょうな」

「えーっと何なに、『金髪紅眼、長身痩躯、体貌閑麗にして文武に秀で──』って何だこれ。描写盛りすぎじゃね? まさか書いたの鷹比古(たかひこ)か?」

「……私が作るなら、もっとましな人相書きにいたしますよ。ですが似ていないとはいえ特徴は捉えておりますので面倒ですな」


 織瀬(おりせ)もそっと龍守(たつもり)の手にある人相書きを覗き込む。墨で描かれているため当然色はないのだが、それでも一目見ればこれが龍守(たつもり)だということははっきりと分かる。優美な弧を描く眉、切れ長の瞳、通った鼻筋、少し皮肉げな笑みの似合う薄い唇──。


「……あえて言えば、輪郭が違うのでしょうか」


 思わず織瀬(おりせ)がそう呟くと、


「あっ、そうだそれそれ。そこ修正かけねぇとな」

「確かに織瀬(おりせ)姫様の仰る通り……」

龍守(たつもり)様のお顔はもっと面長で品がありますな」


などと家臣たちも口々に言う。その会話を聞きながら、龍守(たつもり)は呆れたように肩を竦め、手配書を倶知比古(くちひこ)の手に戻した。


「馬鹿どもばかりでなく織瀬(おりせ)姫まで……。無駄話をしていないでさっさと出発するぞ。──姫はこちらの馬へどうぞ」

「はい」


 龍守(たつもり)の手を取り、織瀬(おりせ)は騎乗する。桂州までの道のりは遠いが、頭上の蒼天は晴れやかな輝きに満ちていた。





 がしゃん、と陶器の割れる音が宮のなかに響き渡った。ばらばらになった破片と花びらが床に散乱する中、紅蘭(こうらん)はいらいらと爪を噛みながら呟く。


「もう、いつになったらお姉様は……那岐山(なぎやま)侯爵は見つかるのよ」


 花瓶を叩きつけた紅蘭(こうらん)は、落ち着かなげに部屋のなかを歩き回る。伯父である葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)の求めに応じ下女ふたりを差し出したにも関わらず、その対価である那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)は未だ紅蘭(こうらん)のものになっていない。


「どうして那岐山(なぎやま)侯爵はお姉様を攫ったのよ。……私のほうがずっとお慕いしているのに。あんな利口ぶって可愛げのないお姉様なんかより、私のほうがずっとあのかたに相応しいのに……」


 紅蘭(こうらん)の脳裏に、宴で舞う龍守(たつもり)の姿がよぎる。返す返すもあれほどに美しい男はいない。あの宝石のように紅い瞳に見つめられ、あの艶めいた声で愛を囁かれ、あの精巧に造られた彫像のような身体に抱きしめられるべきなのは、紅蘭(こうらん)なのだ。卑しい生まれの姉などではない──。


「あ、あの……紅蘭(こうらん)皇女殿下。皇太后陛下からのご指示で……今朝の儀式で巫女をお務めいただきたいので、御身を清められるようにと……」


 恐る恐るといった様子で、部屋に控える侍女のひとりが紅蘭(こうらん)に声をかけた。紅蘭(こうらん)が顔を上げると、ひっと怯えたような声を漏らし、それが紅蘭(こうらん)の苛立ちを掻き立てる。


「……巫女ですって? なぜ私がそんなことをしなければならないのよ。年寄りたちの前で小難しい祝詞を読んで踊って……馬鹿みたい」

「ですが、その……ここのところ安比(あび)家の反乱や葛城(かづらぎ)公爵が襲われた一件など縁起の悪いことが続いておりますから、皇太后陛下が清めの儀式を行いたいと……」

「だから、なぜ私がやらなければならないの? そんなものお姉様にやらせれば──」


 そう口走ったところで、紅蘭(こうらん)は無意識のままぎりっと歯軋りをした。


「しかし……翠蓮(すいれん)皇女殿下は今、皇宮にいらっしゃらないので……」

「その名を呼ばないで!」


 紅蘭(こうらん)は手元にあった小箱を掴むと、それを侍女に投げつけた。小箱の蓋が開き、そこから色とりどりの宝石や装飾品が飛び散る。


紅蘭(こうらん)皇女殿下……」

「お前のせいで、私の持ちものに傷がついたわ。……この首飾りはお母様にいただいたものなの。大きな赤い宝玉が綺麗で気に入っていたのに、お前のせいでこんなに大きな傷がついてしまった」


 別の侍女に床に落ちた首飾りを拾わせ、紅蘭(こうらん)は顔を引き攣らせる侍女にそれを突きつける。


「困ったわ、お母様が知ったらきっと悲しまれる。……お前たちもそう思うでしょう?」


 扇の影から流し見る紅蘭(こうらん)の視線を受けて、標的になっている侍女以外の者たちは一斉に頷きを返す。


「は、はい……。紅蘭(こうらん)皇女殿下の仰る通りです……」

「そうよね。ならばこの者には相応の罰を受けてもらわなきゃ……。伯父様に、他にも侍女の首が必要かどうか訊いてきなさい」

「か、かしこまりました……!」

「申し訳ございませんでした、紅蘭(こうらん)皇女殿下。どうかそれだけは……!」

「五月蝿いわね。罪人が自分で罰を選べるとでも思ってるの?」


 泣き崩れる侍女、紅蘭(こうらん)の指示を果たすべく慌てて部屋を出ていく者、部屋の隅で怯えた表情を浮かべる者──。普段であればこれで多少は気がおさまるのだが、今日に限っては苛立ちが増すばかりだ。


「もうすぐ……もうすぐあのかたは私のものになるわ。お姉様なんかに渡さない……。大丈夫よ、私には味方がいるんだから……」


 扇を握りしめながらぶつぶつと呟く紅蘭(こうらん)を、侍女たちはまるで物怪でも見るような目で見つめていた。





 幾晩かの野宿を経た織瀬(おりせ)の眼の前には、初めて見る光景が広がっていた。

 聳え立つ山々を背にした州都の門を潜ると、そこには活気のある街並みが広がっている。食べ物や装飾品、その他あらゆるものが売買される店が大通り沿いに軒を連ね、呼び込みの声がそこかしこで響く。

 織瀬(おりせ)は瞬きすら忘れるほどの感動をもって、翡翠色の瞳でそれらを見つめていた。


織瀬(おりせ)姫。愛らしい唇が開いておりますよ」

「……っ!?」


 織瀬(おりせ)は慌てて掌で口元を覆った。街並みを見るのに夢中になってぽかんと口を開けていたのかもしれない。何とはしたない──と頬を赤らめていると、


「冗談です」


と、背後から龍守(たつもり)が悪びれもせずに言った。


「……那岐山(なぎやま)侯爵」


 じとりと織瀬(おりせ)が睨みつけると、龍守(たつもり)は可笑しそうに喉を震わす。


「いや、失礼。織瀬(おりせ)姫の反応があまりに初々しく可愛らしかったもので。……それはそうと、桂州は気に入りましたか?」

「はい。とても賑やかで、民たちも生き生きとしていて……。こちらの気持ちも晴れやかになりますね」

「それは良かった」


 龍守(たつもり)が微かに唇を緩めたその時、


「おい、あの金髪……前の州牧様じゃないか!?」


 馬上の龍守(たつもり)を指さして、通りに居た男のひとりが叫んだ。その声に人々の視線が一斉に男の示すほうへと集まる。


「本当だ、龍守(たつもり)様だ!」

「おかえりなさい龍守(たつもり)様!」


 老若男女問わず、口ぐちに歓迎の言葉を投げる。その声に応えるように龍守(たつもり)が手を挙げると、一際大きな歓声が沸き起こった。


「相変わらず人気者ですね、龍守(たつもり)様は」

「分かんねぇよなぁ、この沸点の低い馬鹿の何処が良いのか……」

「人間性云々よりも、まずは為政者として優れていることが重要なのです。隼人(はやと)殿」

「……」


 後ろに従う家臣たちの囁きを聞きながらも、織瀬(おりせ)はそっと龍守(たつもり)の表情を窺う。

 口角を上げ、紅い瞳には自信に満ちた輝きが溢れている。陽の光を背負ったその姿は、まさに民たちの称賛を受けるに相応しいものだった。


「──龍守(たつもり)様、そちらのお綺麗なかたはどこから攫ってこられたので?」


 不意に響いた声に、街路がどっと笑いに包まれる。龍守(たつもり)は呆れたような苦笑を浮かべながら、


「おいこら、今失礼なことを言ったのは茶屋の主人だな? この後俺の配下で酒に強い者を十人ばかり送るから覚悟しておけ。──こちらの姫君は、帝都で最も高貴なおかただ。遠からず俺の妻になるのだから、皆丁重に扱うのだぞ」

「なっ……!?」

「何だって、ついに龍守(たつもり)様がご結婚なさると!?」

「そんな、嘘でしょう!?」


喉元まで出かかった織瀬(おりせ)の抗議は、人々の喝采と女性たちの悲壮な叫びにかき消される。


「あのっ……那岐山(なぎやま)侯爵……!」

「如何しました、織瀬(おりせ)姫?」

「私が貴方の妻って……どういうことですか!?」

「そう約束したでしょう?」

「しましたけど……それは反乱を止められたらの話で……!」

「日時も貴女が仰ったものと違っていたのに、良くやったほうだとは思いませんか? それに貴女の本当の目的は葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)を追い落とすことでしょう? そちらに関しては私はまだ諦めておりませんので」

「……!」


 耳元で囁かれ、織瀬(おりせ)の背を戦慄が走る。


那岐山(なぎやま)侯爵……! 耳元で言わないでくださいっ……!」

「おや。民たちに聞かれると憚りがあると思ったゆえなのですが……何をそんなに赤くなっているのです?」

「貴方という人は……!」


 にやにやと笑う龍守(たつもり)を、織瀬(おりせ)はきっと睨みつける。


「おやおや、龍守(たつもり)様が楽しんでおられる」

「仲睦まじそうで結構なこと」

「悔しいけど……美男美女すぎて文句言えない……」


 民たちの声に、『そんな関係じゃありませんから!』と織瀬(おりせ)が思わず訴えようとしたその時、


龍守(たつもり)様ぁ! お待ちしておりましたぞぉ!」


大音声とともに、馬上にいても見上げるほどの体格の大男が人波を掻き分けながら現れた。


「忍たちから知らせを聞き、今か今かと待っておりました! さあ、どうぞ屋敷のほうへお越しください!」

「出迎えご苦労、野磨(のすり)

「……相変わらず声がでけぇよ。鼓膜破れそうだわ」

「お前に言われたくないなぁ、隼人(はやと)!」


 野磨(のすり)と呼ばれた大男は、顔をしかめる隼人(はやと)に対しがははと豪快な笑い声を上げる。

 突然現れた男にきょとんとする織瀬(おりせ)に、龍守(たつもり)が苦笑混じりに言った。


織瀬(おりせ)姫。これが現在、桂州の牧を務めている野磨(のすり)という者です。少しお話ししてあったとは思いますが、元々那岐山(なぎやま)家に仕えていた者故あまり緊張せずとも大丈夫ですよ」

「は、はい……。よろしくお願いします、野磨(のすり)殿。私は──」

「よろしくお願いいたします、奥方様!」

「えっ……!?」


 戸惑いながらも名乗ろうとする織瀬(おりせ)の言葉を遮って、野磨(のすり)がにかっと屈託のない笑みを浮かべる。


「あ、あの……奥方と言うのは……」

「気が早いぞ、野磨(のすり)。そう呼ぶのは祝言を挙げてからだ」

「ああ、そうですな。いやいや申し訳ない、奥方様」

「ですからっ……私は奥方ではありませんっ……!」

「そう照れずとも良いでしょう、織瀬(おりせ)姫。私と貴女の仲で」

「だからどんな仲ですかっ! 誤解を招くようなことを言わないでください那岐山(なぎやま)侯爵っ!」


 顔を真っ赤にして言い募る織瀬(おりせ)を揶揄う龍守(たつもり)の唇に、笑いがさざなみのように広がっていった。

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