第十三章 一夜の宿
「龍守様、皇女殿下。もう外套は脱いでいただいて構いませんぞ」
帝都を囲む城壁が遠くなってから暫くして、一行を先導する鷹比古が振り返り、そう声をかけた。
「その言葉を待ちかねたぞ。この暑さで着込むなど地獄だった」
「自業自得なので苦情は受け付けませぬ。それにしても、通行手形が有ったとはいえ随分あっさり抜けられましたな。龍守様が北部尉だった五年前ならこうはいかなかったでしょう」
そこへ鷹比古のすぐ後ろに付いていた倶知比古が馬足を緩め、龍守と織瀬が乗る馬の傍らに並ぶ。
「翠蓮皇女殿下、龍守様、お水をどうぞ。……龍守様はこちらの剣もお持ちください」
「ああ。気が利くな、倶知比古」
「ありがとうございます、倶知比古殿」
それぞれに渡された竹水筒に口を付けようとした織瀬だが、ふと視線を感じて後ろの龍守を仰ぎ見る。
「那岐山侯爵、どうなさいました?」
「いえ……毒味もしていないものを、翠蓮皇女に渡して良いものかと思いまして」
「あっ、そうですね。申し訳ございません皇女殿下。ここは私が──」
慌てる倶知比古に、織瀬は微笑みかける。
「ありがとうございます。ですが、そこまでお気遣いいただかなくても大丈夫ですよ。貴方がたに、私を害す理由などないでしょうから」
そう言って、織瀬は水に口を付ける。ひんやりとした甘露が喉を滑り、ほっと息を吐いた。状況的にも性格的にも織瀬に不平は言えなかったが、龍守の言う通りこの暑さのなかで全身を覆うのはなかなかの苦行だった。
「そこまで我々を信じてくださっているとはありがたいですね。しかし残念だ。毒味を求められれば私が率先して志願したのに」
「そんな、侯爵にそのようなこと──」
「いえ、そうすれば間接的に口づけができると思いまして」
「……那岐山侯爵、貴方はいつもそのような言動をなさるのですか?」
織瀬は冷ややかな眼差しを龍守に向ける。
「……女人でこの反応は珍しいですな」
ぼそりと呟く鷹比古の声が聞こえた。
「もしや私は今軽蔑されましたか?」
「……」
「龍守、はたから見ても盛大に滑ってるぞ。他の女と同じノリでいると嫌われそうだからやめとけ」
「隼人に女人への態度で指摘されるとは──俺も焼きが回ったか」
わざとらしく溜息を吐いた後、龍守は倶知比古に声をかける。
「そうだ倶知比古。無理を言ったがあの通行手形はよく出来ていた。帝都を出られたのはお前の功績だ」
「ありがとうございます、龍守様。急いで作ったので心配だったのですが、関守たちが騙されてくれて良かったです」
「作ったってどういうことだよ、龍守。まさかあの手形って……」
「偽造だ」
「犯罪じゃねぇか!」
「ばれなければ問題ない。それにもう俺は殺人未遂に誘拐に──立派な重罪人だ。今更罪状がひとつふたつ増えたところで変わらん」
「……鷹比古は知ってたのかよ」
「日向から龍守様の状況を聞き、どう帝都を抜けるか考えようとしたところで倶知比古から聞きました」
「皇女殿下とお会いした後、屋敷でお休みになる前に龍守様から依頼されましたので」
「お前、最初から葛城乙彦を襲うつもりだったのかよ!」
「流石の俺も、何の備えもせずにあんな真似はしない。それにあの時俺は言っただろう、隙を見て暗殺でもするかと」
「あれは冗談のノリだっただろ!」
「……次回からは一言相談して欲しいものですな。一応私は龍守様の相談役なのですから」
「相談したら鷹比古は止めるだろう。故にしなかっただけだ」
「……袖箭も指輪も、その他諸々の隠し武器も、護身用だと仰るからお貸ししたのですが。信じた私が馬鹿でした」
額を押さえる鷹比古にかすかな同情の気持ちを抱きながら、織瀬は龍守に対し、
(一体この人のどこを見て、『白蓮国記』の著者は機知権謀に富むと評したのだろう……)
と失礼なことを考えていた。
「だが俺もまさか、この手形を使うことになるとは思わなかった。暗殺は確実に成功する状況で実行するつもりだったからな。──そう、ちょうど今の俺と隼人くらいの距離だったのだ。この至近距離で打った矢を避けるなど、化け物かと思ったぞ」
「ええ……それってお前が下手くそなだけじゃ──って危ねぇな! だからすぐに手ぇ出すなって言ってんだろ!」
龍守が抜き放った剣の切先が、隼人の前髪を掠めた。
「俺が下手ならお前はゴミ以下だ。弓術で俺より下だったくせに」
「何年前の話してんだよ! 言っとくけど武官試じゃ弓術と筆記以外は俺のが上だったんだからな!」
「馬鹿力で加点されただけだろう。本気でやり合ったら俺のほうが強い」
「ああ!? そっちがその気ならやってやるぞコラ」
「上等だ。桂州に着いたら覚悟しておけ」
騎乗していなければ今にも掴み合いの喧嘩でも始めそうな勢いに、織瀬は面食らう。そこへ倶知比古が、
「申し訳ございません、翠蓮皇女殿下。龍守様と隼人殿のこれはいつもの事というか……じゃれ合いのようなものですので、お気になさらず」
と苦笑した。
「そうなのですか……。ところで、目的地は桂州なのですか?」
「はい。あそこでしたら民たちも龍守様を慕っておりますので、一時身を潜めるにはよろしいかと」
「……」
倶知比古の言葉を聞き、織瀬は不安そうに眉を寄せる。
(那岐山侯爵がついこの間まで桂州の牧を務めていたのは周知のことだし、当然葛城公爵も追手をかけるのでは……大丈夫なのかしら……)
もしその事によって桂州の民に累が及べばと思うと、胸が騒つく。すると織瀬の心中を察したかのように、背後から龍守が言った。
「ご心配には及びません、翠蓮皇女。桂州の現在の牧は、元々那岐山家に仕えていた者です。それに万が一に備えて、帝都周辺に我が家の兵や鷹比古の配下の忍びたちを配置しておりますので、追手が差し向けられたとしてもそこで食い止められましょう」
「帝都周辺に兵が……外廷でお会いした時は、動かせる兵は五十ほどだと隼人殿が言っていませんでしたか?」
「それはあくまで帝都の中で動かせる兵です。……元々私が警戒されていたのか、それとも我が家の兵たちが少々粗野なせいかは分かりませんが、帝都へ入ることを許されなかった者たちが居りまして」
「そうなのですか」
「……たぶんあいつらのガラが悪すぎるせいだろうなぁ。龍守ときたら、行く先々で野盗だの破落戸だのに妙に懐かれるから、そんなのばっかり配下について──」
「えっ……」
「隼人、翠蓮皇女の誤解を招くような言いかたは止めろ。──赴任先で暴れ回っていて迷惑だったので軽く叩きのめしたのですが、釈放したあとも去る様子がないので、扱いあぐねて我が家の兵としただけです。まあ下手に野に放って野盗に戻られても面倒なので、結果的には良かったのですが」
「そういうことなのですか……」
「軍規はきちんと叩き込んでありますので、ご心配なく」
「妙な真似をしたら、龍守様と隼人殿にこてんぱんにされますからな……。始め州都を襲って来た時は獰猛な虎のような者たちでしたが、今では従順な猫のようになっておりますので問題ないかと」
「私でも普通に話せる者たちなので、大丈夫ですよ。皇女殿下」
安心させるように微笑む倶知比古に、
「でも最初お前、怖がって近づかなかったじゃねぇか」
そう隼人が茶化すように笑う。
「仕方ないでしょう! あんないかにもな見た目の者たちに物怖じしない隼人殿が異常なんです! それに私はこのなかでは一番非力なんですから、怖がって当然でしょう!」
「……あ、そこは素直に認めるのか。つーか開き直り?」
「違います。私は自身を過大評価しないだけです」
倶知比古は、つんと隼人から視線を逸らす。
「……ふふっ……」
思わず笑い声をこぼしてしまい、織瀬は慌てて唇を押さえる。
(私ったら、なんて失礼な……)
努めて平静を装おうとする織瀬に、背後から面白がるような声がかけられる。
「どうぞ笑ってやってください、翠蓮皇女。これが我らの日常ですから」
「那岐山侯爵……」
「それに貴女は憂い顔もお美しいが、そうして微笑んでいる時が一際愛らしく魅力的です」
さらりと発せられた一言に、織瀬は目を見張る。
(そういえば……那岐山家のかたたちと居ると、自然と気が緩んで……)
こんなふうに作り笑いでなく笑えるのは、弟の珀亜や侍女たちの前だけだった。龍守を始めとする那岐山家の者たちは、織瀬にとっていわば前世の仇の側なのに、なぜこんなにも気を許してしまっているのだろう。
(不思議だわ。那岐山侯爵の、この磊落な言動のせいもあるのかもしれないけれど……)
前世のあの冷たい瞳をした人物と、姿形が同じだけの別人のようだ。もっともこんな容姿をした人間が、そうそう居るとは思えないが──。
そう織瀬が物思いに耽っていると、先頭を進んでいた鷹比古がゆっくりと隣に並ぶ。
「ところで龍守様、桂州までは馬でも数日かかります。我らのみならともかく、皇女殿下を連れたままで野宿ともいかぬのでは」
「そうだな……」
「私のことなら心配せずとも大丈夫ですよ。野宿でも構いませんから」
これは本当である。なにせ前世では皇宮から連れ出された後、一年近くもの間安比家の陣中で野営をしていたのだから。
しかしそんなことなど知る由もない龍守は眉を顰める。
「いけません。もちろんやむを得ない場合は野宿も致し方ありませんが、男ばかりのなかで貴女お一人なのです。お互いのためにも宿泊地は重要です」
「あ……」
龍守の言葉に織瀬ははっとした。前世であのような目に遭って、龍守に救われなければ取り返しのつかないことになっていただろうに、自分の危機感の無さに恥じいるばかりだ。
「申し訳ありません。私の配慮が足りませんでした」
「貴女が謝罪なさる必要はございません。ただ我らはすでに一連托生なのですから、過剰にご遠慮なさらずとも良いと申し上げたかったのです」
「ありがとうございます」
そう小さく頭を垂れる織瀬に、龍守はふっと唇を緩める。
「貴女は本当に、皇族らしくありませんね」
「え?」
龍守の呟きに織瀬が振り返った時、そうだ、と後ろに続く隼人が声を上げた。
「龍守、お前の親父さんの友だちが確かこの先に住んでなかったか? ええっと確か──」
「和仁俊元殿か。……そうだな、あのかたならば父とも親交が深いし良いかもしれぬ」
「ええ、私も賛成です。俊元殿ならば信頼できるでしょう」
鷹比古が頷く。どうやら今夜の目的地が決まりそうだった。
「和仁俊元殿……もしや十年ほど前まで太倉令を務めていたかたですか?」
織瀬の問いかけに、龍守が頷く。
「ええ、私の父とは古くからの友人なのです。体調を崩されて、太倉令を最後に退官されているのですが……翠蓮皇女は面識がお有りですか?」
「いいえ。官人録でお名前を見たことがあるだけで、お会いしたことはありません。その頃はまだ私も公の場には出ておりませんでしたので、和仁殿も私の顔は知らないはずです」
「ほう、それは好都合です。俊元殿が貴女が皇女であると知っていれば、なぜ私とともにいるのか疑問を抱くでしょうから。……面識がないのであれば、貴女は私の恋人ということにしておきましょう」
「え……」
「貴女は帝都の貴族の令嬢です。私が貴女に一目惚れし求婚したが、貴女のご家族に婚姻を反対されたため、やむなく駆け落ちしてきた。──この筋書きでいきましょう」
「それは……和仁殿は信じてくださるでしょうか」
「おそらく問題ないでしょう。俊元殿は実直な性格ですから」
「それに女絡みの揉め事なら、龍守ならありそうだってあちらさんも思うだろうから……って止めろ! 抜刀すんな!」
「この場で斬られたくなくば黙っていろ、隼人」
ぎろりと紅い瞳で睨みつけてから、龍守は剣を納める。
「そういうことなので、呼びかたも変えねばなりませんね」
「呼びかたですか?」
「俊元殿の前で翠蓮皇女とお呼びするわけにいきませんから。何か貴女の呼びかたを考えねば」
「確かにそうですね。……では、私のことは織瀬と呼んでください」
「織瀬……ですか? 美しい名ですが、それは今考えられたのですか」
「いいえ。織瀬は私の真名なのです」
微笑む織瀬に龍守は目を見張る。
「真名? それを我らに教えてしまってよろしいのですか」
「構いません。真名を呼ぶ事が禁忌だったのは昔の話ですし、弟などは普段から私をそう呼びます。それに全く馴染みのない偽名を使って、もし私が不自然な反応をしてしまってもいけませんから」
「翠蓮皇女がそう仰るならば……。そうですね、では織瀬姫とでもお呼びしましょうか」
「なあ、真名って何だ?」
龍守と織瀬の会話に割って入る隼人に、倶知比古がこれ見よがしに溜め息を吐く。
「隼人殿、貴方は……。武官試の筆記でもそれくらいの知識は問われるはずですよ。というか、貴族階級の一般常識なのではありませんか?」
「知らねぇよ。だって俺は──」
「真名というのは、貴族階級の本名のことですな」
何かを言いかけた隼人だったが、鷹比古がやんわりと口を開く。
「昔は名というものは、その者の魂そのものと考えられていたのです。故に名を知られるということは魂を支配されることを意味しますから、みだりに他人に名を教えてはならぬとされていたのです。最も名を呼べぬなど不便ですから、今では皇家にしか残っていない慣習ですが」
「へえ、そうなのか。じゃあ姫さんの本当の名前は翠蓮じゃなくて織瀬なのか」
「はい。翠蓮というのは私の住んでいる宮の名なのです」
そのような会話をしているうちに、目の前に集落の姿が現れてきた。
「あの村ですな、俊元殿が隠居されたのは。……龍守様、そろそろ陽も落ちる頃合いですし、俊元殿に一夜の宿を請いましょう。私は先行して俊元殿に来訪を伝えて参ります」
「ああ。頼んだぞ、鷹比古」
「御意」
肩までの黒髪を靡かせた鷹比古の後ろ姿が遠ざかる。
「──では私たちも参りましょうか、織瀬姫」
「……はい」
自分でそう呼んで欲しいと言ったのに、龍守にその名を呼ばれ、なぜか織瀬は形容し難い気恥ずかしさのようなものを感じた。
(お父様や珀亜以外の殿方から真名を呼ばれることなど初めてだから……不思議な気持ちね)
そもそも今では織瀬の真名を知っているのは、珀亜と二人の侍女たちだけではないだろうか。葛城家の血を引く者たちなどは、元より覚えてすらいないだろう。
(菊理と明瑠は……無事かしら)
ふと二人のことを考えて、織瀬は眉を曇らせる。
二人とも機転のきく者たちだ。織瀬が龍守とともに皇宮を出たとなればおそらく追及の手は彼女たちにも及ぶだろうが、きっと上手く逃げおおせているに違いない。弟の珀亜のことも気にかかるが、南陽宮の護衛も織瀬の侍女たちに劣らない。きっと皆無事でいるだろう──。
(今はそう信じるしかないわ。前世と今の状況は大きく変わっている……。前世で菊理と明瑠が命を落としたからといって、今世でもそうなるとは限らない。那岐山侯爵が私を皇宮から連れ出して何を成そうとしているかは分からないけれど、私は私なりにこれからどうするのか考えなければ)
そう心中で静かに決意する織瀬だったが、
「私はともかく、織瀬姫は村に入る前にもう一度外套を着るべきでしたね」
背後でぼそりと呟く龍守の声で、はっと顔を上げた。
「え?」
「ご覧ください。村の者たちの視線が、貴女に釘付けになっています」
龍守に促され、織瀬は周囲を見回す。農作業からの帰りだったのだろうか、鋤や鍬などを持った者、桶を抱えた者たちなどが、老若男女問わずぽかんと織瀬たちを見上げていた。
「すごい美人……どこのお姫様だい?」
「翠色の目なんて貴族にしかいないぞ」
「後ろの男は金髪に紅眼だ。胡人なのだろうが気味が悪いな」
「でも色はともかく素敵よ」
「本当。あんなきれいな男の人初めて見たわ」
村人たちの囁きは、馬上にいても聞こえるほどだ。
「……私だけではなくて、貴方も目立っていますね」
「まあ私は慣れておりますから何ともありませんが。……倶知比古」
「はい、龍守様」
名を呼ばれただけでその意図を察したのか、倶知比古が龍守に外套を差し出す。それを受け取ると、
「失礼」
そう一言かけて、龍守は織瀬の姿を外套で覆った。
「ご不便をおかけして申し訳ありませんが、俊元殿の屋敷はすぐそこです。しばしご辛抱を」
「はい、ありがとうございます」
好奇の視線を外套で遮ることができて、織瀬はほっと息を吐いた。
*
「これはこれは龍守殿。しばらく見ぬうちに立派になられて!」
「ご無沙汰しております。俊元殿」
和仁家の門前で来訪を告げると、家主である俊元が間を置かずに現れた。その背後から先触れを行った鷹比古も姿を見せる。
下馬し恭しく頭を垂れる龍守を見て、俊元は相好を崩した。
「相変わらず優雅なお姿ですな。義龍も鼻が高いでしょう、悪童と呼ばれたご子息がこのように出世されて。……しかし宿ならいくらでもお貸ししますが、なぜこのような辺鄙なところへ? 任期を終えて帝都に戻られたと義龍の文にはありましたが……」
屋敷のなかに龍守たち一行を誘いながら、俊元が首を傾げる。
「父とは今も変わらず交流してくださっているのですね。ありがたいことです。……実は帝都でひと騒動起こしてしまいまして、ほとぼりが冷めるまで身を潜めようと思いまして」
「ひと騒動とは今回はどのような……。それに、隼人殿たちは見知っておりますが、その後ろの顔を隠したかたは一体……」
「ああ、そうでしたね。──織瀬姫、外套を脱いでいただいて構いませんよ」
「はい」
頭を覆っていた被りを下ろした織瀬を見て、俊元は目を見張った。
「これは、また……。私は神話の咲耶姫の幻でも見ているのですかな。──龍守殿、こちらの姫君はどこから攫ってこられたのです?」
俊元の一言に、倶知比古は小さく、隼人は盛大に吹き出した。鷹比古でさえ、手の甲で口元を押さえ肩を震わせながら下を向いている。
「やべぇ、バレバレじゃねぇか龍守」
「五月蝿い、黙れ隼人。……さすがは俊元殿、お察しの通り実は──」
そこで龍守は、事前に打ち合わせした通りの筋書きを俊元に語る。
「成程、駆け落ちですか……。いや、本来ならばなんて馬鹿なことをと諌めるべきなのでしょうが……」
そこで俊元はちらりと織瀬の顔を見る。
「……この姫君なら致し方ありませんな」
「ご理解いただけて幸いです。ちなみにこちらの姫君は、容姿のみならず心映えも美しく、更に知性も備えておりまして……とにかく私はすっかり夢中になってしまったのです」
「成程、成程……。経緯はともかく、ついに身を固められるなら喜ばしいことです。昔から義龍は龍守殿の優秀さを自慢していましたが、とにかく女人絡みのことは心配していて良く私にも愚痴を──」
「俊元殿。織瀬姫の前ですので、そのくらいでご容赦いただけませんか」
「ははっ、いや失礼。幼い頃の龍守殿を知っているせいか、つい揶揄いたくなってしまっただけです。……姫君、大変失礼いたしました。龍守殿は大変素晴らしい御仁ですので、どうか私の戯言はお気になさらずに」
「はい……」
反応に困り、織瀬は苦笑する。
(那岐山侯爵……昔はあまり素行が良くなかったのかしら……)
その典雅な容姿からは想像もつかないが、これまでの大胆な行動を見るに、さもありなんという気もしてくる。
(それにしても、良くあんなにすらすらと麗句が出てくるものね……)
恋人同士という演技のためとはいえ、織瀬は感心半分呆れ半分という心持ちである。
「こちらの広間へどうぞ。いま夕餉と各々がたの部屋を用意させておりますので……ああ、龍守殿と姫君はご一緒の部屋がよろしいですかな?」
「そうですね、では──」
「別々でお願いいたします!」
思わず大きな声を出してしまい、織瀬は慌てて口を押さえる。
(私ったらつい……! 那岐山侯爵がせっかく演技してくれているのに……!)
「も、申し訳ありません……」
誰に言うともなく、織瀬は小さく呟いた。その様子に、龍守が笑う。
「このように無垢なところも可愛らしいのですよ。俊元殿、我ら男どもは一部屋に押し込んでいただいて構いませんから、織瀬姫には一部屋ご用意いただけますか」
「ええ。そういたしましょう」
「ありがとうございます……」
「いえいえ、どうぞお気になさらずに。そうだ、この暑さでご不快でしょう。女の使用人を付けますから、姫君は湯をお使いになりますか?」
「それは──」
織瀬は判断を仰ぐように龍守の顔を見る。龍守はふっと唇を緩め、
「せっかくのご好意です。甘えさせていただきましょうか」
と織瀬に言った。
「では……お願いいたします」
「かしこまりました。龍守殿たちも、姫君の後にどうぞ湯殿をお使いください。後ほど案内をさせますから。……おい、お前たち。姫君を湯殿にお連れしてくれ」
「かしこまりました」
俊元の呼びかけに、扉のそばに控えていた下女ふたりが進み出る。
「姫君、わたくしどもがご案内いたします」
「ありがとうございます。……では、行かせていただきますね」
「ええ。どうぞ行ってらっしゃいませ」
龍守の声に見送られ、織瀬は広間を出た。
*
湯浴みを終えた織瀬は、下女たちに濡れた髪を拭かれながら、ほっと息を吐いた。前世のことを思えば野宿すら問題ないとは思っていたが、やはり汗を流せることはありがたい。用意された着替えも、突然の訪問にも関わらず清潔で上質なもので、家主の気遣いに織瀬は心から感謝した。
「姫君。こちらの簪はお使いになりますか?」
「ええ、お願いできるかしら」
「かしこまりました」
結い上げた髪に翡翠の簪をさした織瀬の姿が、鏡に映る。
(……?)
そこでふと、奇妙な違和感に織瀬は眉を寄せた。織瀬の背後に立つ下女、鏡に映った彼女の手が小さく震えている。もうひとりの下女は織瀬に薄く化粧を施しながらも、そわそわと心ここに在らずといった様子だ。
(突然訪問した私の世話を命ぜられて、緊張しているのかしら……。前世の経験もあるから、身の回りのことはある程度自分でもできるけれど……)
彼女たちを萎縮させているならば申し訳ないが、家主である俊元がつけてくれた使用人を織瀬の一存で戻って良いとも言えない。ここは早く切り上げて龍守たちの元へ戻るのが最善だろう。
「お二人とも、そのくらいで大丈夫ですよ。私は那岐山侯爵たちの元へ戻ります」
立ち上がろうとしたその時だった。扉の外からガタリと何かがぶつかるような音と、人が走り去る足音が聞こえた。
「誰ですか!?」
織瀬は慌てて扉に駆け寄り、勢いよくそれを開け放った。
「姫君……!」
下女たちが不安そうに織瀬を見つめる。
星明かりしかないなかでははっきりと判別はつかないが、ちらりと見えた後ろ姿は織瀬の見知った者ではなかったように思う。
(この部屋を覗いていた? 一体なぜ……)
言い知れぬ気味悪さを感じ、肌が粟立つ。
(那岐山侯爵たちが信頼しているようだったから油断してしまったけれど……。俊元殿以外の家人や使用人たちまで信用できるかは分からない。とにかく早く戻りましょう)
「二人とも、私は皆のところに戻りたいのだけれど……」
そう声をかけるも、下女たちは動こうとしない。
(何かが変だわ)
他人の家での不作法は承知で、織瀬は部屋を飛び出した。広間までの道筋は記憶している。とにかく早く龍守たちの元へ戻らなければ。そう気を急く織瀬がある部屋の前を通り過ぎようとしたところ、いくつかの男の囁きが聞こえてきた。
「──おい、見たか? 那岐山龍守が連れて来たあの女……かなりの上玉だぞ」
「ああ。さすがに湯殿の中までは覗けなかったが、あれは佳い女だ」
「親父は妙に那岐山家に肩入れするが……あんな成り上がりとつるんでも何の益もないと思っていたが、良い土産を持って来てくれたな」
「どうやら奴は家臣を三人しか連れていないようだ。村の者総出でかかればいくら奴でも……」
下卑た笑い声が響き、湯上がりで火照った身体が一気に冷め切った。
(今の会話……まさか俊元殿の息子たち? 私を──いいえ、那岐山侯爵をどうするつもりなの……?)
分かりきった答えを認めたくなかった。織瀬は吐き気を堪えながら走った。
湯殿に向かう時の倍以上の時間がかかったように感じながらも、なんとか織瀬は龍守たちのいる広間へと辿り着いた。
「……織瀬姫? 随分と早いお戻りで──」
飛び込むように部屋に入って来た織瀬に眼を見張った龍守だが、すぐに表情を改めてゆっくりと扉を閉めた。織瀬の前に跪き、穏やかな声で問いかける。
「織瀬姫、顔色が悪いですがどうなされたのです? それに一緒に付いて行った下女たちは何処に?」
「那岐山侯爵……」
織瀬は口を開きかけて躊躇った。先程聞いた会話は織瀬の思い違いかもしれない、とふと不安になったのだ。龍守たちが信頼している俊元の身内に関わること、もし織瀬の勘違いなら皆を不快にさせてしまう──。
(でも……もしそれで那岐山侯爵たちに危害が及べば? そうなれば、私はきっと後悔する)
織瀬は意を決して顔を上げた。
「織瀬姫?」
「……那岐山侯爵。俊元殿は良いかたかもしれませんが、ご家族は違います。今すぐここを出ましょう」
語気を強める織瀬を、龍守は真剣な眼差しで見つめる。
「織瀬姫。湯殿で何かあったのですか? 一体──」
そこで不意に、龍守は言葉を切った。形良い眉を寄せ、緊迫した面持ちで扉のほうを見やる。
「……隼人」
「おうよ。……あーあ、せめて夕飯食ったあとに来てくれりゃいいのに。空気読めねぇ奴らだな」
「仕方ないな。人数は……そこそこ居るな。三、四十といったところか」
「マジか。村の男総出ってやつ? これも龍守の日頃の行いが悪いせいだな」
「今の状況でそれは洒落にならんから止めろ。……鷹比古、お前も行けるな?」
「無論です」
懐から苦無のようなものを取り出しながら、鷹比古は表情ひとつ変えずに頷く。
「織瀬姫は部屋の奥に下がっていてください。……倶知比古、お前も下がっていて良いが万が一の時は──」
「お任せください。織瀬姫様は必ずお守りいたします」
「良し、その意気だ。……隼人、鷹比古。相手はおそらく素人だ。手加減するのだぞ」
「……御意」
「面倒だけど分かったよ」
「那岐山侯爵……」
翡翠色の瞳が、不安げに揺れる。龍守はすらりと剣を抜きながら、織瀬に向かって微笑みかけた。
「織瀬姫。我らに危機を知らせてくださったこと、感謝いたします。貴女には指一本触れさせませんのでご安心を。──来るぞ」
龍守の言葉から一拍置いて、部屋の扉が破られた。
「那岐山龍守、大人しくその女と身ぐるみ全て置いていけば、命だけは助けてやるぞ!」
「……そう言って本当に助ける奴は、古今東西居らぬだろう!」
襲撃者たちは龍守の予想通り四十ほどは居たが、龍守は臆することなく真っ先に部屋に入って来た男に殴りかかった。
「ぐえっ……!」
蛙の鳴き声のような悲鳴をあげて、男は崩れ落ちる。
「兄貴!」
「お前たち……俊元殿の息子だな? 父君の客人に対して、随分変わったもてなしをするのだな」
「くそっ……!」
男たちはそれぞれに武器を携えては居るものの、きちんとした刀を手にしているのは先頭に立つ俊元の息子と思われる三人の男のみ──最もそのうちのひとりは龍守によってすでに倒されているが──、ほかの者たちは鋤や鎌などの農具を武器代わりにしているだけだ。それを握った手も、緊張のためか小刻みに震えている。
「お前たち、この金髪の男だ! こいつを殺せ!」
「そうはさせるかよ!」
「……!」
俊元の息子たちの叫びによって殺到してきた男たちに、隼人は迷わず刃を一閃させ、鷹比古は無言のまま苦無を突き立てた。
鮮血が散り、複数の悲鳴とともに男たちの身体が床に落ちる。
「……隼人、鷹比古。俺は手加減しろと言ったはずだが」
「龍守様に刃を向けるなど、万死に値しますので」
「右に同じく。……つーかこいつら俺たちを殺す気で来てるんだから、当然自分たちだってそうされる覚悟は出来てんだろ。なぁ?」
龍守の前に進み出ると、隼人は普段の快活さからは想像もつかないほど冷たい笑みを浮かべる。
「……ひっ……!」
それだけで数人の男たちが萎縮し、じりじりと後ずさる。
「くそっ、役立たずめ。こうなれば女だけでも……!」
「きゃっ……!」
ぎりっとひとつ歯軋りをして、俊元の息子のひとりが織瀬に襲い掛かろうとする。
「あっ、やべ。倶知比古任せた!」
「全く貴方は! きちんと護衛の役目を果たしてください!」
言うが早いか、倶知比古は織瀬の前に飛び出して、袖口を襲ってきた男に向けた。
「ぐはっ……!」
そこから放たれた矢が首に突き刺さり、男はくずおれた。
「……成程。袖箭とはそうやって使うのか」
襲いかかってくる複数の男を相手にしながら、龍守が感心したように呟く。
「これは照準を合わせやすいように改良して、ついでに威力も増したものです。まだ試作品なので龍守様にはお渡ししなかったのですが……これなら使えそうですね」
にこにこと楽しそうに笑う倶知比古に、織瀬は目を丸くする。
(ご自分のことを非力だなんて言って、戦いには自信がなさそうだったけど、これは……)
龍守と隼人は言わずもがなだが、文官然とした鷹比古や倶知比古もなかなかの戦闘能力である。従者の数は少なくとも、このように精鋭揃いでは生半な相手で勝てるはずもない。こちらの十倍近くいた襲撃者たちは、瞬く間に制圧されてしまった。
「倶知比古、よく織瀬姫を守ったな。──姫、お怪我はありませんか」
「はい。……倶知比古殿、ありがとうございました」
「とんでもございません」
腕につけた袖箭に触れながら、倶知比古が微笑んだ。
「さて……なぜ彼らが襲ってきたかは分からんが、これで屋根の下で眠ることは諦めねばならんな」
部屋のなかを見回してから、溜め息混じりに鷹比古が言う。
「そうですね。……申し訳ありませんが、少し探らせていただきますね」
倶知比古が倒れた男たちの懐に手を入れる。するとそこへ、扉の辺りから何かをがしゃりと取り落とすような音が聞こえた。
「龍守殿……? これは、一体……」
「──俊元殿」
両目を見開き呆然と立ち竦む俊元の足元に、複数の盃が転がっている。割れた瓶子からこぼれた酒が、じわりと床を濡らした。
「お騒がせして申し訳ない。襲撃を受けたゆえ応戦させていただきました。ところでこの男たちに見覚えはございますか」
分かりきったことを、あえて龍守は問いかける。
「……村の、男たちです」
「そうですか。ではこちらの身なりの良い男たちは?」
「……」
「貴方の息子たちであったと記憶していますが」
「……それを分かっていて、殺したのですか」
「先に手を出してきたのはそちらですので。それに、ご次男のかたは気絶しているだけですぐに目覚めましょう。ご長男と末のご子息に関しては残念ですが」
隼人に斬られた男が長男、そして織瀬を襲おうとして倶知比古の矢に喉を貫かれた男が末息子なのだろう。織瀬の目から見ても、この二人がすでに絶命していることは明らかだった。
力無く床に膝をつく俊元に、龍守は痛みを堪えるような眼差しを向ける。
「俊元殿。こちらを去る前にひとつだけお教えください。……この襲撃に貴方も関与しておられるのですか」
「私は……何も知らなかった。ただ、ここのところ不作が続いて村の者たちも困窮しており……これまでも旅人が数人行方知れずになっていたが……」
「成程、六部殺しということですか。村の状況を知らずに訪れて申し訳なかった。──お前たち、荷物をまとめろ。出立するぞ。……織瀬姫も慌ただしくて申し訳ありませんが、ご準備を」
「……はい」
頷く織瀬のそばから、倶知比古が進み出る。
「私は馬の準備をして参ります。隼人殿、手伝っていただけますか」
「おう」
倶知比古と隼人が、部屋を出て行く。
「龍守様。我らもとりあえずこの部屋を出ましょう」
「ああ。……織瀬姫、こちらへ」
「はい」
龍守の呼びかけに、織瀬は足を踏み出す。放心したままの俊元の横で一瞬足を止めかけたが、かけるべき言葉を見つけられずそのまま通り過ぎようとしたのだが、
「……っ!? きゃっ……」
急に世界が反転するような感覚に襲われ、織瀬は悲鳴をあげた。
床にくずおれていた俊元が、織瀬の足首を掴んだのだ。体勢を崩し倒れ込む織瀬の上に、俊元がのしかかる。その手に握られているのは、鋭利な輝きを放つ短刀──。
「織瀬姫!」
龍守の叫ぶ声が聞こえる。
全身が金縛りにあったように、織瀬は動くことができなかった。己の最期を覚悟してせめて目を閉じてしまいたいのに、それすらも叶わなかった。
(せっかく過去に戻れたのに、ここで終わりなのね……)
絶望に染まりかける織瀬の視界に、鮮やかな紅が散った。
「……っ、あ……」
声にならない叫びをあげながら、俊元が仰向けに倒れた。その身体から流れ出る紅が、じわじわと床を蝕んでいく。
織瀬は凍りついたまま、その光景を見つめることしかできなかった。
「……龍守様」
その名を呼ぶ鷹比古の声も、どこか重苦しい。
龍守は無言のまま鮮血がつたう刀を振ると、懐紙でそれを拭い鞘に納めた。
「……織瀬姫、申し訳ありません。貴女に指一本触れさせないと大口を叩いておきながら」
表情を強張らせた龍守が織瀬のもとに歩み寄る。
「お怪我はございませんか」
「あ、その……大丈夫、です……」
「立てますか?」
「はい。……あ……」
急に全身ががたがたと震えだした。
「申し訳ありません。私……」
「謝る必要はございません。……失礼いたします」
肩と膝裏を龍守の腕に掬われ、織瀬の身体が浮き上がった。
「那岐山侯爵……」
「御身に触れるご無礼をお許しください。一刻も早くここを離れねばなりませんので」
「はい……」
感情を押し殺した白皙の相貌に前世の龍守の影が重なり、織瀬は心臓を掴まれたような痛みに襲われた。




