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第十二章 逃走

 全力で駆けてはいるものの、背後から響いてくる謀反人だ反逆者だと叫ぶ声は途切れることはない。行手を阻む葛城(かづらぎ)家の兵を難なく蹴散らす龍守(たつもり)は息ひとつ上がってはいないものの、こうひっきりなしに湧き出てこられてはさすがにうんざりしてくる。


(己がそれほど気の長いたちではないと自覚はあったが、これはやらかしたな。せっかく向こうから転がり込んできた好機を、みすみす逃してしまった)


 そう反省はするものの、龍守(たつもり)は自らの行動に一片の後悔すらなかった。葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)のあの言動は龍守(たつもり)に対する明らかな挑発であったが、そこに滲む歪んだ自意識は龍守(たつもり)にとって唾棄すべきものでしかなかった。


(皇太后に対しては明らかな憎しみを抱いているが……翠蓮(すいれん)皇女に対しては、自らが受けたものと同じ恥辱をただ与えたいだけに過ぎぬ。皇女という生まれ、美しい容姿、そしてあの清らかさ……一見恵まれたその存在に、自らを侮った者たちを投影し貶めようとしているだけだ。あの男はそれで溜飲を下げて満足だろうが、翠蓮(すいれん)皇女はあの男に何をしたわけでもない。何の罪もない者を辱めるなど……頬ではなく正面から殴るべきだった……!)


 鷹比古(たかひこ)が聞けば頭を抱えるだろうが、これが偽らざる龍守(たつもり)の本音である。当初の計画通りに運んでいたもの──乙彦(おとひこ)の側近に収まり暗殺の機会を伺うという、龍守(たつもり)自ら提案したものである──を一瞬でぶち壊した行いを、馬鹿と言われればその通りだ。しかし狙い通りに事が成ったとして、その陰で無辜の者が涙するなら意味がないのである。

 そうこうしているうちに、朝堂を抜けた龍守(たつもり)の紅い瞳に堂々たる門の姿が映った。それは後宮──龍守(たつもり)に未来を託した物好きな皇女が住まう場所へと続く門だった。


(門衛は二人か。悪いが少し眠ってもらうしかなさそうだな)


 一際長身の門衛は、なぜか門の外ではなく後宮の内部を気にするように閉ざされた門に体を向けており、もう一人の門衛は落ち着かなげにその様子を窺っている。

 乙彦(おとひこ)の護衛から奪った刀を握り直し、龍守(たつもり)は一旦物陰に身を潜める。袖箭(ちゅうせん)の矢は乙彦(おとひこ)に使った一本のみ。今龍守(たつもり)の手にある武器は、刀一本と護身用の指輪を嵌めた拳だけである。普通の兵士が相手ならばこれでも充分過ぎるほどなのだが、不意に振り返った長身の門衛の顔を見た瞬間、龍守(たつもり)は計画の変更を迫られる羽目となった。


(あれは豺牙(さいが)か? なぜ葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)の護衛が後宮に……。くそっ、完全にこちらの行動を読まれている)


 わざわざ龍守(たつもり)を呼びつけたその時に側近を側から離すなど、それ以外に考えられない。豺牙(さいが)の実力の程は実際に目の当たりにしたわけではないので不確かだが、少なくとも武術に関しての乙彦(おとひこ)の評価は高いようだった。


(一か八かで正面突破を試みるか、それとも壁面を登るか、内部に続く穴でも掘るか……)


 壁は普通の人間ならそもそも登るなどという選択肢すら浮かばぬ高さだが、龍守(たつもり)は自らの運動能力に自信を持っている。問題はまだ陽の高いこの時分では、どうあっても人目に付いてしまうということだ。穴を掘るというのも、道具すらないこの状況では現実的ではない。よって消去法により後ろの二つは無し、自分が取るべき行動はやはり正面突破である──。

 刹那の思考の結果、結局初めに試みようとしていた結論に到達した龍守(たつもり)は、門衛の不意を突こうと飛び出しかけた──と、その背に、聞き知った女の声がかけられる。


龍守(たつもり)様、お待ちください。正面から行くのは危険過ぎます」

「……日向(ひむか)か」

鷹比古(たかひこ)様の命により天井からご様子を窺っておりましたので、今の状況は把握しております。なぜ後宮に向かおうとしておられるのか、その理由にも想像はつきますが……これは鷹比古(たかひこ)様も承知の上なのですか?」

「妙なことを訊くものだ。俺はどこに行くにも鷹比古(たかひこ)の許可が必要なのか」


 声を潜めて龍守(たつもり)は笑う。その言葉が皮肉ではなく単に楽しんでいるように聞こえて、日向(ひむか)は困り果てる。


「どうか無茶はお止めください。日華(にっか)殿の一件のみで、我らは寿命が半分は縮まりました」

「ほう。その台詞、俺はもう何遍も聞いているぞ。それが本当なら、今ごろ俺の配下は全員天に還っているはずだ。それともお前たちは齢千年を生きる妖か何かか?」

「そこまで言われている自覚がお有りなら、少しは自重してください。わたくしは禿頭の鷹比古(たかひこ)様など見たくはございませんからね。……ここはわたくしが何とかいたしますから、どうぞ龍守(たつもり)様は大人しくなさっていてください」


 そして日向(ひむか)は、懐から筒状のものと火打ち石を取り出した。何度か石を打ちつけて、その筒状のものから出ている紐に火花を落とす。


「何だそれは」

安比(あび)公爵邸に残されていたものを使って、倶知比古(くちひこ)殿が作られたのです」

「あいつは葛城(かづらぎ)公爵邸の様子を見て寝込んだと聞いたが」

鷹比古(たかひこ)様からこれの材料を見せられて、すっかり回復されたようです。……さあ、上手くいくと良いのですが」


 小さな火明かりを灯した筒状のそれを、日向(ひむか)は後宮とは反対の方角に向かって、勢いよく投げ捨てた。それが地面に落下すると同時に、聞き覚えのある轟音が龍守(たつもり)の耳をつんざいた。


「これは……まさか火薬を使ったのか? 倶知比古(くちひこ)め、なかなか粋なものを作る」


 それは昨夜、日華(にっか)殿の近くで聞いたものと全く同じ爆音であった。遠くで燃え盛る炎を、龍守(たつもり)はまるで珍しい動物でも見るような目で見つめた。

 にわかに複数のざわめきが炎に向かって集まってくる。


「何だ、この炎は……!」

「まさか反逆者どもの残党か……!? おい、そこの者たちも消火を手伝ってくれ!」


 兵士の一人の叫びに、周囲にいた人影が一斉に集まってくる。その中に豺牙(さいが)の姿を認めた龍守(たつもり)は、


「助かった。お前は鷹比古(たかひこ)に、隼人(はやと)たちも連れてさっさと逃げろと伝えてくれ」


そう日向(ひむか)に声をかけると、一直線に後宮へと向かっていった。





 眠気に堪えかねて寝室で横になっていた織瀬(おりせ)は、不本意なかたちで夢の世界から引きずり出された。昨夜聞いたものとよく似た轟音に、翠蓮(すいれん)宮の壁が震える。


(これは一体……!? まさか安比(あび)家の残党か何かが……)


 慌てて寝台を下り、部屋から出る。廊の欄干に手を付き音のしたほうを眺めると、塀の向こうから黒々とした煙が上がっていた。


「姫様!」


 廊の先から、明瑠(あかる)菊理(くくり)が駆けてくる。


「姫様、危険だから部屋に入って!」

「状況は私が調べて参ります。姫様は菊理(くくり)とともに中へ!」


 菊理(くくり)に腕を引かれて、織瀬(おりせ)は寝室に戻された。何が起こったか気になるものの、とりあえず身動きが取れるように支度は済ませておかねばならない。

 織瀬(おりせ)は部屋着を着替えると、手伝おうとする菊理(くくり)の手を制して自ら髪を結い上げる。昨夜の怪我も癒えていない菊理(くくり)に、無理をさせる訳にはいかない。さすがに侍女たちほどの技術はないが、翡翠の簪を飾った髪はとりあえず恥ずかしくはない程度には仕上がった。


(昨夜の段階では、前世ほどの被害は出ていないと安心していたけれど……)


 不安を押し込めるように、織瀬(おりせ)はぐっと胸の前で両手を握り合わせる。


(前世では私は安比(あび)将軍に皇宮から連れ出され、結局彼の弟である安比(あび)公爵に利用されることになった。捕らえた者たちの中にこの二人の姿はなかったようだし、もし前世と同じことが起こってしまったら……)


 そうなれば、織瀬(おりせ)の今までの行動は全て意味を失ってしまう。


(ここでこのまま身を潜めているだけで良いの? 何か行動を起こすべきでは……)


 焦燥感に追い立てられながらも、織瀬(おりせ)は必死で考えを巡らせようとする。そこでつと、側に控えていた菊理(くくり)が、何かを警戒するように鋭い視線を扉に向けた。


菊理(くくり)、どうしたの?」

「何か……誰かがこちらに向かって来ます。この足音、少なくとも明瑠(あかる)南陽(なんよう)宮の関係者じゃなさそう。……姫様、あたしの後ろに下がっててください」


 緊迫した菊理(くくり)の言葉に、織瀬(おりせ)は素直に頷きその指示に従った。

 菊理(くくり)の言う足音は初め織瀬(おりせ)の耳には全く聞こえなかったのだが、やがて複数の人々の駆ける音と、何かを探すような大声が響いて来た。


「くそっ、逃げ足の速い男だ。一体どこへ消えた!?」

「こちらの方向で探していないのは、あとは翠蓮(すいれん)宮だけだぞ」

翠蓮(すいれん)宮……しかし皇女の宮に立ち入るのは……」

葛城(かづらぎ)公爵閣下に関わることだ。許すも許さないもないだろう」


 兵士たちの会話に今自身がいる宮の名前が飛び出して、織瀬(おりせ)は身を硬くする。


菊理(くくり)……」

「その窓の外──宮の裏手に、何人か兵士がいるみたいですね」

「誰かを追って来たみたいだけれど、一体誰を……しかも翠蓮(すいれん)宮のほうに向かうなんて……」

安比(あび)初臣(はつおみ)だったらあたしがしばき倒しますから、姫様は安心してください」


 菊理(くくり)が懐から苦無を取り出し、身構えたその時だった。


「──翠蓮(すいれん)皇女、こちらにいらっしゃいますか」


 不意に扉の向こうから、男の囁き声が聞こえて来た。平時よりも潜められてはいるものの、隠しようのない艶を含んだその声は──。


那岐山(なぎやま)侯爵……!?」

「あっ、ちょっと姫様!」


 止めようとする菊理(くくり)の手をすり抜けて、織瀬(おりせ)は扉の前に駆け寄った。


那岐山(なぎやま)侯爵、なぜ貴方が……まさか兵士たちが追っているのは……」

「察しが良くて助かります。差し支えなければ、この扉を開けてはいただけませんか」

「え……」

「……絶対開けないほうがいいですよ、姫様」


 頭では菊理(くくり)の言うことが正しいとわかっている。しかし龍守(たつもり)がなぜこのような状況になっているかは分からないものの、そこに織瀬(おりせ)が全くの無関係とは思えないのである。

 織瀬(おりせ)は一瞬躊躇ったのち、意を決して扉を開いた。


「……翠蓮(すいれん)皇女の寛大なる御心に感謝いたします」

那岐山(なぎやま)侯爵、なぜ貴方が後宮に……しかも追われているなんて、何があったのです?」


 織瀬(おりせ)は扉を閉め、突然現れた龍守(たつもり)を見つめた。姿は昨夜の軍装のままだが、その襟元や目を惹く金の髪は乱れている。手に持った抜き身の刀は昨夜使っていたものとは違い、武官の官給品である。


「時がございませんので簡潔に申し上げますが、葛城(かづらぎ)公爵を暗殺しようとして失敗いたしました」

「なっ……!?」

「嘘でしょ、あんた馬鹿なの……!?」

「そう言われると一言もない。もっと慎重に狙うべきだったと後悔している」

「いや、そういう事じゃなくて……そもそもやろうとする事が馬鹿だって……」


 呆れる菊理(くくり)に大真面目に返答する龍守(たつもり)だが、そうしているうちにも宮の外のざわめきが大きくなってくる。宮に入れろと叫ぶ兵士の声、それを制止しているのは、様子を探りに出ていた明瑠(あかる)だろうか。


(このままでは、確実に那岐山(なぎやま)侯爵は捕まってしまう。私がこの人を頼ったばかりに……いいえ、そんなことはさせないわ)


「……上手く撒いたつもりでしたが、どうもこちらの行動は読まれていたようです。突然で申し訳ございませんが翠蓮(すいれん)皇女、どうぞ私と一緒に皇宮を出て──」


 予想外の事態に戸惑う織瀬(おりせ)には、龍守(たつもり)の言葉は殆ど耳に入ってはいなかった。


菊理(くくり)、手を貸して頂戴。那岐山(なぎやま)侯爵を逃すわ」


 織瀬(おりせ)は寝台に向かい、垂れ下がる敷布をめくってそこの仕掛けに手を這わせる。


「ちょっと、まさか姫様……またそれを使うんですか!? さすがにまずいですよ、部外者にそれは!」

日華(にっか)殿の抜け道も教えてしまったし、今更でしょう? 那岐山(なぎやま)侯爵、どうぞこちらへ来てください」

「……状況が理解できないのですが、寝台に誘うとは大胆ですね」

「冗談を言っている場合ではありません! いいからこちらに来て、この寝台を押してください!」

「かしこまりました。翠蓮(すいれん)皇女殿下のご命令とあらば」


 織瀬(おりせ)の焦りなどどこ吹く風と、龍守(たつもり)はおどけた様子で寝台に手をかける。二日前の夜と同じように、織瀬(おりせ)は寝台の下に隠れていた扉を両手で引き開ける。


「……成程。ここから私に会いに来てくださったのですか」


 龍守(たつもり)は軽く眉を上げて、興味深そうに黒々とした穴を覗き込む。


「この抜け道は外廷だけではなく、皇宮の外まで続いています。今から道順をお伝えしますから──」


 穴から吹き上がる冷たい空気が、織瀬(おりせ)の頬を撫でる。その時俄かに、部屋の外が騒がしくなった。


翠蓮(すいれん)皇女殿下、葛城(かづらぎ)公爵閣下のご命令です。この扉をお開けください!」

「お止めください。姫様は今、体調を崩されて休んでいるのです!」


 必死になって兵士たちを止める明瑠(あかる)の声が聞こえる。もう一刻の猶予もない。


「姫様、あたしはそいつを突き出すほうが良いと思うけど、逃がしたいんだったら早くしないと!」


 いつ扉が破られても良いように臨戦態勢をとる菊理(くくり)に促され、織瀬(おりせ)は慌てて龍守(たつもり)へ脱出のための道順を伝える。


那岐山(なぎやま)侯爵、最初の分岐は右へ、その後は二股は左、複数の分岐は中央を進んでください! そうだわ、この蛍火石(けいかせき)も──」

「私だけが逃げ切れても、意味がないのですよ」


 そう呟くと、龍守(たつもり)織瀬(おりせ)の手を取った。


那岐山(なぎやま)侯爵、何を……!?」


 突然のことに目を見張る織瀬(おりせ)を、龍守(たつもり)は穴の中に引き摺り込んだ。


「ちょっと、あんた姫様に何して──!」

菊理(くくり)とやら、よく聞け。俺は今から翠蓮(すいれん)皇女を攫う」

「はあっ!?」

「お前は逆らえば皇女を殺すと脅されて、やむなく俺をそこの窓から逃した。皇女は人質として連れて行かれた──そういう筋書きだ。良いな?」

那岐山(なぎやま)侯爵、貴方は何を……!?」


 戸惑う織瀬(おりせ)の手首を握ったまま、龍守(たつもり)は穴の中から菊理(くくり)に呼びかける。


葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)翠蓮(すいれん)皇女に害意を抱いている。このまま皇宮に留まってはならない。──菊理(くくり)、お前も翠蓮(すいれん)皇女が大事なら俺に協力しろ。良いな?」


 それだけ言い放つと、龍守(たつもり)織瀬(おりせ)の手を引いて地下通路を駆け出した。


那岐山(なぎやま)侯爵……! そんな、私だけ逃げるなど……菊理(くくり)……っ!」


 織瀬(おりせ)は助けを求めるように、菊理(くくり)の名を呼ぶ。一瞬躊躇うも、しかし菊理(くくり)織瀬(おりせ)龍守(たつもり)を追うことはしなかった。次第に遠ざかって行く主の声を聞きながら、静かに地下通路の扉を閉め、寝台を元の位置に戻す。


「全く何なのよあの男……勝手なことだけ言って……!」


 菊理(くくり)が独りごちたその時、部屋の扉が勢いよく破られた。


那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)! 葛城(かづらぎ)公爵閣下を殺害しようとした罪で、お前を──」

「ああ、どうか助けてください! 姫様が、姫様が……!」


 菊理(くくり)は空涙を滂沱と流しながら床に突っ伏した。その傍に、明瑠(あかる)が駆け寄る。


菊理(くくり)、何があったのだ!? 姫様は……!」

那岐山(なぎやま)侯爵が……那岐山(なぎやま)侯爵が突然宮に入って来て、言うことを聞かなければ姫様を殺すって……そこの窓から逃げて行ったの……姫様を連れて……!」


 慟哭し、菊理(くくり)明瑠(あかる)の胸に縋り付く。するとそこに、長身の陰が落ちかかった。


翠蓮(すいれん)皇女が拐かされただと……」


 煮えたぎる感情を押し込めたような低い声に、部屋の中にいる全ての者がびくりと身体を震わせた。


「貴方は……豺牙(さいが)将軍……」


 兵士たちが怯えたようにその名を呟く。

 しかし豺牙(さいが)は兵士たちに見向きもせずに、まるで親の仇を見るような目つきで窓の外を睨みつける。


翠蓮(すいれん)皇女を守ると言ったのに、俺は……おのれ那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)、何と悪辣な……!」


 ぎりっとひとつ歯軋りをすると、豺牙(さいが)は脇目も振らず窓から外へと飛び出した。その背を呆然と見送る兵士たちに、明瑠(あかる)は叫ぶ。


「み……皆様! 今逃げたばかりなら、まだそれ程遠くには行っていないはずです! どうか姫様をお助けください!」


 菊理(くくり)を抱きしめながらそう絶叫する明瑠(あかる)の声で我に返った兵士たちは、弾かれたように宮の外へと駆け去っていった。

 やがて静寂を取り戻した翠蓮(すいれん)宮で、明瑠(あかる)菊理(くくり)に問いかける。


菊理(くくり)、何があった。とりあえずお前の演技に合わせたが、姫様はどちらに──」

「兵士たちに言ったとおりよ。あの金髪野郎が姫様を攫って逃げてった」

「な……!?」

「窓から逃げたってとこと、脅されたってとこは嘘だけど」

「お前、それを黙って行かせたのか!?」

「……」

菊理(くくり)!」

「ああもう、あたしだって何で止めなかったのか分かんないわよ! だけどこのまま皇宮に居たら姫様が危ないってあの男が……あたしも確かにその通りだって思ったから……」

「……姫様とあの男はどこから逃げた? まさか──」

「先帝陛下の抜け道。姫様が教えちゃったの」

「……全く、姫様はお人よしが過ぎる。それと兵士たちが言っていたが、あの男が葛城(かづらぎ)公爵を殺そうとしてしくじったというのは本当なのか」

「マジよ、マジ。本人がそう言ってた」

「……馬鹿か、あの男は」

「そうみたい。でも一人で逃げればいいものを、わざわざ姫様を助けるためにここまで来たってことは……ちょっとは信用していいのかもと思って」

「……」


 明瑠(あかる)は溜め息を吐きながら立ち上がった。


「とりあえず、私たちも姫様を追うぞ。皇宮が混乱している今なら抜け出せるだろう。……菊理(くくり)、お前怪我は大丈夫か?」

「無理なんて言えないでしょ、この状況で。……で、どうする? 珀亜(はくあ)様をこのままここに置いておいて良いと思う?」

「……良くはないが、連れても行けぬだろう。あちらの護衛たちの機転を信じるしかない」

「ま、そうよね。あたしたちは姫様の護衛なんだから、とりあえず姫様が一番よね……あ」


 そこで菊理(くくり)は、卓の上に置いたままになっていた一冊の書物に目を留める。


「『白蓮(びゃくれん)国記』……これ、姫様の読みかけの……」

菊理(くくり)、何をしている! さっさと忍び装束に着替えて後を追うぞ!」

「分かってるって!」


 書物を懐に押し込むと、菊理(くくり)明瑠(あかる)の後に続き部屋を飛び出して行った。





 蛍火石(けいかせき)の灯りのおかげで全くの闇ではないものの、織瀬(おりせ)はこの暗さに心まで押しつぶされそうであった。


(流されるままでいたら前世と同じ結末になってしまうと……そうならないために足掻いて来たのに……)


 織瀬(おりせ)はぐっと下唇を噛み締める。これでは前世と何も変わらない。ただ皇宮から織瀬(おりせ)を連れ出す者が、安比(あび)初臣(はつおみ)から那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)へと変わっただけだ。


「……翠蓮(すいれん)皇女、申し訳ございません。私の浅はかさのために、貴女にご無理を強いてしまいました」


 先を進む龍守(たつもり)が、そう謝罪の言葉を口にする。


「ですが、これで終わりにはいたしません。貴女との約束は必ずや果たしてみせます」

「約束……」


 織瀬(おりせ)は不意に足を止めた。


翠蓮(すいれん)皇女」


 振り返った龍守(たつもり)の紅い瞳を、織瀬(おりせ)は真っ直ぐに見つめる。


那岐山(なぎやま)侯爵、どうぞ貴方ひとりで逃げてください。私は皇宮に戻ります」

「……何を仰るのですか」

「私ひとりだけ逃げることなどできません。弟や妹を置いて、私だけ逃げるなど……葛城(かづらぎ)公爵が皇族を狙っているのなら、一番危ないのは私ではなく──」

「一番危険なのは貴女です、翠蓮(すいれん)皇女」


 断定的な龍守(たつもり)の言葉に、織瀬(おりせ)は目を見張る。


「そんな、だって私は何の力もないのですよ? 私を害したところで葛城(かづらぎ)公爵に何の益も……皇族の中では最も取るに足らぬ私などを……」

「だからこそです。取るに足らぬ存在であるからこそ、葛城(かづらぎ)乙彦(おとひこ)に狙われても貴女を守る者がいない。申し訳ないが、あの侍女たちだけでは力不足です」

「なぜ……そんな私のために、なぜわざわざ翠蓮(すいれん)宮に来たのです。私のことなど放って、貴方だけで逃げれば良かったのに」


 織瀬(おりせ)は込み上げる思いを押し込めるように、ぐっと胸の前で両手を握りしめる。


「申し訳ありません。私が貴方に頼ったばかりに、那岐山(なぎやま)侯爵家は……」

翠蓮(すいれん)皇女、貴女は大きな勘違いをしておられます」

「え……」

「時が惜しいので先へ進みながらお話ししましょう。……まず私の今の状況は貴女のせいではありません。私自らの選択の結果です」

「ですが、私が貴方に葛城(かづらぎ)公爵を除いて欲しいと頼んだから……」

「それはあくまで切っ掛けに過ぎません。私は自らの意思で貴女と手を組むことを選び、自ら葛城(かづらぎ)公爵と敵対する道を選んだ。──それは誰に命ぜられたからでもなく、全て私の意思によるものです。何より私は、誰かに命ぜられることが大嫌いです。……たとえそれが天命であろうとも」

那岐山(なぎやま)侯爵……」


 織瀬(おりせ)は何と返して良いのか分からなかった。龍守(たつもり)の言葉が本心からのものなのか、それとも織瀬(おりせ)に気を遣わせまいという配慮なのか──。いずれにしても、覚悟が足りていなかったのは織瀬(おりせ)自身であった。


那岐山(なぎやま)侯爵が命がけで行動を起こしてくれたのに、私は自分のことばかり考えて……)


 こんなことではいけない。なぜ一度死んでしまった身が蘇ったのか、その意味をきちんと自覚しなければならない。


(私が生き返ったのは……橘花(きっか)国を救うため。それ以外にないのだから)


 織瀬(おりせ)は顔を上げ、先を進む龍守(たつもり)の背を見つめる。


那岐山(なぎやま)侯爵、取り乱してしまい申し訳ありません。これからもどうか、この国のために力を貸してくださいますか」

「無論です。そのために今私はここにいるのですから」

「……ありがとうございます」


 やがて織瀬(おりせ)たちは通路の終点に辿り着いた。龍守(たつもり)が壁面を登り、出口をゆっくりと押し開ける。金色の光が、織瀬(おりせ)たちの頭上に降り注いだ。





「ここは……もしや禁苑ですか」

「はい。その通りです」


 龍守(たつもり)の手を借りて、織瀬(おりせ)は地下通路から地上へ出た。夏真っ盛りにも関わらず、神泉を湛えたこの場所では清らかな風が頬を撫でて行く。


「……」


 鬱蒼と茂る木々によって隠されてはいるが、この先には聖なる泉がある。本来の神泉は帝都の外れにあるのだが、ここの水もそれと同じ水源から引かれたものだ。

 織瀬(おりせ)は跪き、祈りを捧げる。


「……翠蓮(すいれん)皇女」

「申し訳ありません、時が無いのでしたね」


 織瀬(おりせ)は着物に付いた土を払いながら立ち上がる。


「ですがここの泉には、神が宿っていると言われていますから。……とても気性の激しい龍神なので、利益をもたらしてくださるかは分かりませんが」

「……もしや、今私に皮肉を仰いましたか」

「まあ、そう聞こえましたか? ですが同じ龍同士で、貴方になら手を貸してくださるかもしれません」

「……」


 微笑む織瀬(おりせ)にひとつ肩を竦めると、龍守(たつもり)も泉の方角へ向かって跪いた。短く祈りを捧げて、立ち上がる。


「さあ参りましょう、翠蓮(すいれん)皇女。運の良いことに、ここからなら私の配下との合流場所にほど近い。馬と最低限の物資だけ調達して、帝都を出ます」

「はい。よろしくお願いします、那岐山(なぎやま)侯爵」


 地下通路での様子と打って変わり、どこか吹っ切れたような織瀬(おりせ)に、龍守(たつもり)は微笑みかけた。





龍守(たつもり)お前! またやらかしやがったな!」


 龍守(たつもり)が言った合流場所とは、帝都のなかでも訪れる者は殆どいない地主神を祀った社だった。

 禁苑と同じく木々が陽の光を覆い隠すように茂っているが、どこか清らかな光を感じさせる禁苑とは違い、ここは物悲しい雰囲気に満ちている。しかしその空気は、隼人(はやと)の叫びによってかき消された。


「俺は何度も言ったよな!? 無茶するな短気を起こすなすぐ手ぇ出すなって! 何ひとつ聞いちゃいねぇじゃねぇかどういうことだよ!」

「悪い」

「悪いですむか馬鹿野郎!」


 今にも掴みかからんばかりの勢いで捲し立てる隼人(はやと)に圧倒された織瀬(おりせ)は目を瞬かせるが、当の龍守(たつもり)は涼しい顔をしている。


隼人(はやと)殿、翠蓮(すいれん)皇女殿下が驚いておられます。龍守(たつもり)様への説教は後で私がしておきますから、貴殿は倶知比古(くちひこ)とともに出立の用意をなさってください。こうなった以上、とにかく急いで帝都を出なければ」

鷹比古(たかひこ)……ってそうだ、皇女!」


 そこで隼人(はやと)は初めて織瀬(おりせ)のほうにちらりと目を向けてから、再び龍守(たつもり)を睨みつける。


「何で姫さんがここにいんだよ! ……龍守(たつもり)、お前まさか」

「ただで逃げるのも癪なので攫って来た」

「お前なあ!」

那岐山(なぎやま)侯爵、その言い方は……。隼人(はやと)殿、違うのです。侯爵は私を助けるために──」

「ちょっと隼人(はやと)殿! 時が無いのだとさっきから先生が仰っているでしょう! さっさと荷物を積んで出ますよ!」


 とりなそうとする織瀬(おりせ)の言葉は、焦る倶知比古(くちひこ)の声によって遮られる。倶知比古(くちひこ)は荷物を載せていない馬を一頭、龍守(たつもり)のもとへと引き出した。


龍守(たつもり)様、こちらの馬をお使いください。翠蓮(すいれん)皇女殿下は──」

翠蓮(すいれん)皇女は私と同乗でよろしいですね?」


 龍守(たつもり)の言葉に、織瀬(おりせ)は頷く。


「はい。よろしくお願いいたします」

「では、お手を」


 差し伸べられた手を取って、織瀬(おりせ)は馬の背に跨った。背中ごしにほのかな麝香の香りを感じる。

 そこへ鷹比古(たかひこ)が近寄り、龍守(たつもり)に外套を差し出した。


龍守(たつもり)様、それと皇女殿下もこちらをお召しください。できればお(ぐし)まで覆っていただいて。……龍守(たつもり)様は言わずもがなですが、皇女殿下もそのままでは目立ってしまいますので」

「私はひと暴れしたおかげで適度に汚れていますが、翠蓮(すいれん)皇女は些か美し過ぎますね。……倶知比古(くちひこ)、墨はあるか」

「ここに」

翠蓮(すいれん)皇女、申し訳ございませんがこちらでお顔を少し汚していただけますか」

「分かりました」


 織瀬(おりせ)倶知比古(くちひこ)から受け取った矢立の墨を数滴頬に落とし、指先で擦る。


「これで如何でしょうか」

「この程度では貴女の美しさは隠せませんが、とりあえずは良いでしょう」

「準備は整いましたな」


 鷹比古(たかひこ)も騎乗し、その場にいる者たちの顔を見回す。


「では改めて確認です。私は奴隷商人で倶知比古(くちひこ)は従僕、隼人(はやと)殿は道中の用心棒、龍守(たつもり)様は胡人の奴隷で今から陶州の貴族に売られます。皇女殿下も──申し訳ございませんが龍守(たつもり)様と同じ設定でよろしいでしょうか」

「はい、構いません」

「それでは参りましょう」


 鷹比古(たかひこ)に先導され、一行は出発した。向かうは帝都の関所である。





「も、申し訳ございません葛城(かづらぎ)公爵閣下……。すぐに周辺を捜索したのですが、那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)の行方は杳として知れず……」

「関所に触れは出したのだろうな?」

「は、はい……。先程遣いの者を向かわせました……」

「先程……か。遅いな、おそらく奴は逃げるぞ。逃げ足も頭の巡りもお前たちより速いだろうからな」

「……」


 朝堂に冷たい静寂が流れる。

 平伏し恐縮しきった様子を見せつつも、赤く腫れた頬をちらちらと見やる護衛たちに、乙彦(おとひこ)は鋭い一瞥を投げた。


「この際、那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)などどうでも良いのだ。問題は、奴が翠蓮(すいれん)皇女を連れて逃げた事……。この失態は、誰の首で贖ってもらおうか」

「そっ……それは……」

「別にお前たちの首でなくとも良い。……翠蓮(すいれん)皇女の侍女二人の首を切るか」

「その……申し訳ございません、公爵閣下。その侍女二人も、後宮のどこにも姿が見当たらず……」

「ほう、やはり向こうのほうが一枚上手ではないか。翠蓮(すいれん)皇女の側付きはあの侍女たちしか居らぬし……仕方ない、紅蘭(こうらん)宮の下女を二人ばかり貰おうか。翠蓮(すいれん)皇女の侍女ということにして首を晒せば良い」

「なっ……お待ちください伯父様! なぜ私の下女を出さねばならないのです!? お姉様の不始末なのに……!」


 どこか楽しんでいるように喉を鳴らす乙彦(おとひこ)に、上座に座っていた紅蘭(こうらん)が声を上げる。


「黙りなさい、紅蘭(こうらん)

「だってお母様……!」


 傍らに座す皇太后がとりなそうとするも、紅蘭(こうらん)は収まらない。


「あまり怒るな紅蘭(こうらん)、美しい顔が台無しだぞ? その代わりに下女でも宦官でも、お前好みの者を紅蘭(こうらん)宮にやろう」

「……それならば、良いですけど。そうだわ、では那岐山(なぎやま)侯爵を捕らえたら私にくださいません?」

紅蘭(こうらん)、貴女はなんて事を……! あの男はお兄様の命を狙ったのよ!?」

「だって勿体ないと思いませんか、お母様? あんな美しいかた、そうそう居りませんわ。……ねぇ伯父様、良いでしょう? どうせ殺してしまうなら私にくださいな。それこそ適当な胡人の首を刎ねて、それを那岐山(なぎやま)侯爵だって言えば騙せるでしょう?」

「考えておこう。いずれにしても、捕らえることが出来たらの話だからな」

「ふふっ、期待しておりますわ。伯父様」


 紅蘭(こうらん)は扇で口元を隠しながら笑い声を上げた。しかし扇を持っていないほうの手は、膝の上で固く握りしめられている。それに気づいたのか、乙彦(おとひこ)はふんと小馬鹿にしたように笑った。

 すると俄かに朝堂の扉が開かれ、長身の偉丈夫が中に入って来た。


葛城(かづらぎ)公爵! 俺に那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)を追わせてくれ!」


 粗野な振舞いの男に、皇太后や紅蘭(こうらん)の眉が顰められる。今まで全く存在感を感じられなかった皇帝佐穂彦(さほびこ)が、短い悲鳴をあげて母親に縋り付いた。それを五月蝿そうに払い除けると、皇太后が男に食ってかかる。


豺牙(さいが)将軍! 仮にも将軍位を得ているのですから、それに相応しい振舞いを──」

螺鈿(らでん)、この男は良いのだ。いくら教えても敬語など遣えぬのでな。──それで、せっかく後宮に向かわせたというに、あっさり那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)と皇女を取り逃したお前が一体何の冗談だ?」

「もうあんな失態はしない。俺に任せてくれれば必ず──」

「黙れ。那岐山(なぎやま)龍守(たつもり)の追討には別の者を向かわせる。少なくともお前より頭の回る奴をな」

葛城(かづらぎ)公爵……!」

「くどいぞ。お前は武しか能がないのだから、またこのようなことがあった時に備えて鍛錬でもしていろ」

「だが、俺のせいで翠蓮(すいれん)皇女が誘拐された。あの男のもとで、どんな思いをしているか……!」

「ほう……。お前、翠蓮(すいれん)皇女に惚れたのか?」

「何ですって?」


 なぜか紅蘭(こうらん)が眦を吊り上げる。


「なぜ皆、お姉様を……」

「惚れた……? 分からない、だが俺は翠蓮(すいれん)皇女を救わねば……」

「それならば、尚のこと鍛錬をしておけ。翠蓮(すいれん)皇女が見つかったら、お前を正式に皇女の護衛にしてやっても良い。側で守っていれば、翠蓮(すいれん)皇女もお前に心を開くかもしれんぞ」

「……分かった」


 乙彦(おとひこ)の言葉が魅力的に聞こえたのか、豺牙(さいが)は大人しく朝堂を出て行った。

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