40.終幕ー目覚めー
ゆらり、と炎が揺れた。
「どうして上手くいかないのかしら……あのときは上手くいったのに」
ぼんやりと、文机に肘をつきながら考える。そう、あのときは上手くいった。龍の番に与えられる、赤い珠。それを手に入れることができた。
あの女は絶対に飲まない。それを奪えばわたくしは、龍の妻……花姫となれる。そうしてわたくしは、この湟国の頂点に立てた。帝よりも上の立場に……!
わたくしが! 女であるわたくしに、帝すらもひれ伏すのだ。
下女に産ませた、役に立たない姫と言われていたわたくしに!! 男であれば役に立ったのにと、わたくしを蔑んだ母親だって泣いて喜んだ。
全部、全部わたくしの思い通りに進んでいた。
恋は狂わせる。人も、龍も。
あの女に思い人がいることを龍は知らなかった。そしてあの女も……ただの善意が、悲劇を生むなんて考えもしない。気持ち悪いほどの独善。独りよがりに、わたくしの境遇を哀れんだ女。
だから殺した。あの女も、そして――――あの女の思い人も。
毒を喰らわせ、あの女の前で殺してやった。そう、あの男も……お人好しで、愚かな男だったわね。だからこそ平気で騙せたのだけど。
そして囁いてやったのだ。あの男が死んだのは、お前のせいだと。お前の持っている赤い珠はお前に近づく者に死を与える。それだけ龍の執着とは重いのだ、と。
だからこそあの女は赤い珠を手放した。
自ら手放し、そしてわたくしから奪い返さなかった。あの赤い珠を。花姫の証を。
「同じ。いいえ、今世はもっと上手くやる。今度は殺されないわ……」
わたくしがもう一度、栄華を極めるには花姫に選ばれなければならない。
今度こそ上手くやる。そして殺されたりしない。帝は、わたくしを危険視して殺した。龍の執着を解除するにはわたくしを殺すしかないから。
たとえ愛していなくても、花姫の証は龍を花姫に縛り付ける。
愛していると、錯覚させるのだから。
「上手く擬態しなければ。本当に、南雲千夏の器は使い勝手がいい。だってわたくしと同じだもの」
南雲宗家の娘として生まれた燕。あの女を特に憎んでいる。たとえ両親が愛し合っていても、所詮は正室の娘を追い出し居座った側室の娘、と分家の者は千夏を白い目で見ていた。
側室の子が悪いわけではない。ただ南雲燕は、南雲に繁栄を齎した先代当主が求めた娘なのだ。それを分家の者は知っている。
凡庸で役立たずな現当主を嘲る意味もあるのだろうけど。だからこそ、南雲燕を追い出した春裳の前、そして千夏に向けられる視線は厳しくなる。
青羽の君や南雲燕よりも役立つことができるのかと?
「まあ、癇癪を起こして当たり散らしていたのだから仕方ないわね。それに燕が見切りをつけて出て行ってから、南雲家はさらに傾いてきているもの。春裳の前と千夏の金遣いが荒いから」
それ故に、南雲燕への期待値が高いのだろう。もういない相手だからこその、勝手な期待だが。だからこそ千夏は怒りを抱えている。いない相手の評価を自分に押しつけられて。
「だからこそ、わたくしを受け入れられたのだけど。燕ではわたくしを受け入れることはできなかったもの。まさか南雲家にあるとは思わなかったけど」
わたくしの鏡。大事な、大事な鏡。
***
ゆらり、と炎が揺れる。
「あら、おかしいわね。手紙を……書いていたはずなのに」
文机の上には東宮様に書こうとした料紙が置かれたまま。そのことに首を傾げる。
何も書いていない。わたくしの思いを伝えるには、手紙を書くしかないから。わたくしの方がずっと、ずっとあの女よりも東宮様を思っている。そう伝えるための、手紙。
それに返事が返ってきたことはない。
虚しい。悲しい。どうして? なにがわたくしに足りないの?
ただただ疑問だけが浮かぶ。それとも料紙が好みではなかったのかしら? 焚きしめた香の薫り? 歌がよくなかった??
何もわからない。
「東宮様は、何がお好みなのかしら?」
何も知らない。
筆をとり、料紙に言葉を綴ろうとする。するとぽたり、と墨が落ちた。
その事実に腹が立つ。筆を置き、汚れた料紙を丸め苛立ち紛れに投げ捨てようとした。その瞬間、部屋の隅で何かがキラリと光る。
そこに視線を向ければ、鏡が一つ。普段は布をかけているのに、なぜか今日はそのままだった。侍女の怠慢だろう。
「鏡……布を……かけないと」
この鏡は見ているとなぜか心がザワつく。昔はそんなことなかったのに。立ち上がり、鏡に近づく。古い意匠の鏡。それがわたくしの姿を映し出していた。
小さい頃に、南雲宗家の倉で見つけたものだ。だいぶ古く、箱にはよくわからない札が貼られていた。お父様もいつからあるか知らないと言っていた鏡。だからねだって、自分のものにしたのだったわね。わたくしにこそ、持つのに相応しいと思ったから。けど……見つけたときこそ気に入っていたけれど、花姫として入内するときに家に置いてきたはず。
だって一流の品々で部屋を埋め尽くさねば、花姫の品位が問われてしまう。それなのにどうしてこの鏡が、この部屋にあるのだろうか?
しかも鏡にはひびが入っている。そのひびは、後宮に入る前に落としてできたひび。
だから絶対に持ち込むはずないのだ。それなのにわたくしの部屋にある。
その事実に、首を傾げた。
「おかしいわね。ひびの入った鏡なんて処分しなければいけないのに。どうして誰も処分しないのかしら?」
連れてきた侍女たちもわたくしを蔑んでいるのかしら? そんな考えが頭をもたげた。だが直ぐに思い直す。彼女たちは南雲宗家にいたときから、わたくしの側にいた侍女たち。
今さらわたくしに反旗を翻すわけがない。
鏡をのぞきこむ自分の姿。
なにか、違和感がある。でもその違和感の正体がわからない。
わたくしは、本当にこんな姿だったかしら?
「……処分し忘れたのね。ああ、だめね。このぐらいで腹を立てていたら、きっと後宮を治めることはできないわ。花姫に選ばれたら、わたくしがこの後宮を統べるのだから」
自分の侍女たちにくらい、寛容でなければ。
他はどうでもいいけれど。
そう呟いて、鏡の前に落ちていた布をかける。
あとで処分するように言いつけよう。その前に、手紙を書いて東宮様に思いを伝えなければ。
文机に向かい直し、筆をとる。
手紙に集中していたからか、布の落ちる音にわたくしが気がつくことはなかった。




