辛酸なんてもうたくさん
わたしは今、テオドシウスの腕の中にいる。
彼の部屋で、長椅子に腰掛けて。
彼の部屋を訪れたのはエリィがお披露目に作ったレースたっぷりのベビードレスを着たので、見せるためだ。実際は、義理の兄妹の仲を取り持つためかもしれない。けれどわたしの顔は引きつっていた。
もしもエリィが隣にいてくれなかったら、泣いて暴れてしまっていたと思うほどには、テオドシウスの側にいるのは限界だった。
だけど彼はことあるごとに赤ん坊に構いたがって抱っこしたがる。だから抱っこももう何度もされていることだけど、慣れるはずもなかった。
「ルナ、どうしてそんなに可愛いの? ぼくらのところに来てくれてありがとう」
自分の腕の中にいるわたしに向かって目を細めながらテオドシウスはそう話しかけた。エリィと一緒に幸せそうにわたしを見つめている。
「きゃーあ」
どういたしましてお義兄様、と答えたつもりの言葉はごくごく短い赤ちゃん言葉にしかならない。
感謝してくれるなら、今度は殺さないでね?
期待を込めて微笑みかけると、彼は目を輝かせて自分の母に報告する。
「母様、見た!? 今、ルナがぼくを見て笑ったよ!」
「テオ様のことがお好きなんですよ。お兄様ってことがちゃんと分かっているんでしょうね」
当然、心臓の奥までよく分かっていますとも。まだ貴方に刺された胸がちくちくと痛い気がするほどには。
テオドシウスははにかみながら、またわたしに笑顔を向けた。笑顔が眩しすぎて、思わず目を反らしてしまう。だって彼がわたしにそんな顔を向けるなんてありえないことだったから、慣れないんだもの。そわそわしちゃうわ、当たり前でしょう?
だけど彼は追ってきて、わたしの額に容赦なく口づけをした。逃げる間もなく彼のキスを受け入れる。抵抗もできない自分が情けなくて泣けてくる。
「どんなことがあっても、絶対に守ってあげるからね」
ため息が出るほど甘くて優しい声だった。
朝の日差しが窓から部屋に柔らかく入り、彼等の姿を照らしていた。少し空いた窓からは花の匂いが漂ってきていた。
だけどそうはならないのよ、英雄王様。貴方はわたしを殺すんだもの。
それにしても、絵に描いたような幸せな乳児期がわたしにもあったなんて知らなかった。仲良しの家族なんて物語の中にしかいないと思っていたのに。
これは本当に驚くことなんだけど、テオドシウスはわたしのことをとても可愛がってくれているみたい。憎しみの争乱の果てに十八年後に殺すなんて、まだ夢にも思ってもいなさそうだ。
ふと、そんなことを考えてわたしに悪魔的なひらめきが浮かんだ。
――あ、待って。このテオドシウスは、わたしのことをまだ憎んでいないってこと?
そうよね。そうでしょ?
そうだわ。そうすればいいんだ!
思わず口元に笑みが広がった。
テオドシウスに媚びを売って、売って売って売りまくって、わたしのことを善人だと思ってもらえばいいんじゃない?
敵対なんてしないわ。したとしても自ら望んでやったことじゃないって、そういう風に分かってもらえるように良い子を演じればいい。
まあ、ルナったら天才じゃないの!?
わたしは自分で自分を褒め称えた。
っていうか英雄王と妖精姫をさっさと引き合わせて内乱を起こさせ無くすれば良いし、二人にとってよい義妹でいて、好感度を保っておくのよ。
上手くすれば、良縁に恵まれて一生苦労をせずにぐうたら暮らせるかもしれないわ。もう強大な権力も莫大な財産も狙わない。そこそこの権力と財産があればいい。
――死ぬときに思ったことがある。
もっと上手くやっていれば、こんなことにはならなかったはずなのにって。
だから今度こそ上手くやるのよ。これはきっと天啓ね。神様が、生き方を変えて今度こそ上手くやれと言ってくれているのよ。
「ルナ、なんだかとても嬉しそうね。いいことがあったのかもしれないわ」
そう言って微笑むエリィに向かって心の中で答えた。
そうよ、エリィお義母様。とってもいいことがあったの。
もう二度と争いなんかに巻き込まれたくない。命の危機に何度も見舞われるなんてごめんだわ。
だから生き方を変えるのよ。
望みは身の丈に合わない野望なんて抱かずに、普通の暮らしを送ること。おばあちゃんになるまで生き続けること。誰にも認められなくっていいわ。愛される必要もない。代わりに憎まれもしない生活が欲しい。
辛酸なんて舐め過ぎたほど舐めた。辛いのも苦いのも酸っぱいのももうたくさん。これからは甘い汁だけ吸って生きていきたい。
自分の小さな手を握りしめ、決意した。
わたし、今度こそ失敗しないわ。
そうと決まればさっそく好かれる作戦開始よ!
そうね、手始めに何をすればいいかしら。
ああ、でもこの腕の中、なんて温かいんだろう。
赤ちゃんの体って、すごく不便。だってすぐにふわふわと眠くなってしまうから――。
「ほら見てお母様。ルナったら、ぼくの腕の中で寝ちゃったよ」
テオドシウスの嬉しそうな声を聞きながら、わたしはまた眠りについた。




