彼の名を呼んだ日
驚いて今度はわたしがテオドシウスを見た。彼は人差し指を口元に当てて、静かに、というようなポーズをする。既知の事実に取り乱すな、とでもいうように。
混乱していた。
どいうこと? エリィがテオドシウスを生んだんじゃないの?
クローディンは父親でしょう? じゃあ、誰が――。
わたしの思考は実母により遮られる。
「良かったじゃないエリィ。腹も股も痛めずに母親ごっこができて。前グラディア妃から英雄王を盗んだだけでは飽き足らず、わたしから先帝の子を盗むつもり? わたしの子は返してもらいます」
エリィの震える声がする。悲しみなのか怒りなのか分からない。
「そんな、わたしは――」
けれどその先を彼女は紡げないようだった。
勝ち誇ったかのような実母の声がする。
「とにかく、ルナは連れて帰ります。わたしが死にかけながら生んだ命です。わたしのものです。あの子はどこにいるの?」
一瞬の間の後で、静かなクローディンの声がした。
「フラローサ。それはできない。だめだ」
義父のこんな怖い声を聞いたのは初めてだった。怒りをなんとか抑えつけているみたいな声色で、淡々と彼は言う。
「ルナを保護したとき、どんな状態だったと思っているんだ? 碌に食事も与えられずに痩せ細り、排泄物さえ取り替えられいなかったと聞いている。蝿がたかり、死ぬ寸前だったのだと。エリィが医者に運び込み、ひと月かけて旅ができるまで回復させた。
貴女も色々と事情があったのだろうが、そんな環境のところにルナを行かせるわけにはいかない。
俺達は誓ったんだ。ルナはグラディア家の子として育てると。生後半年間の苦難など存在しなかったと思えるほどに、愛して愛して愛し抜くと。愛だけを与えて育てることを――貴女のところに戻すということは、その誓いを破ることになる」
自分がそれほど衰弱していたとは知らなかった。
だけどお母様も譲らない。
「誓いが何だって言うの? それに、わたしはあの子をきちんと育てていたわ。エリィが嘘を付いているんでしょうね」
「報告したのはエリィと共に行かせた俺の友人だ。帝国の貴族だぞ、嘘を吐く意味がない」
「わたしも忙しかったのよ」
「新たな家族を作るためにか」
もうクローディンの陽気な仮面は外れていた。わたしの実のお母様は、この頃、確かに新たな後ろ盾を求め、ローゼン家の遠縁に当たる貴族の後妻に入ることに成功していた。
「生活の基盤が整ったから実の娘を迎えに来たのがそれほど理解できないことなのクローディン?」
「そうではないだろうフラローサ。帝都は今混乱している。貴女はルナを自らの盾にするつもりではないのか」
あるいは剣に。
実母にとってのわたしは道具に過ぎない。
「お前達は違うというの?」
「ルナの父親が誰かは誰にも言っていないしこの先も言うつもりもない。強いて言うのならあの子の父親は俺で、それ以外にはいない」
「流石忠誠公ですわね、高潔ですこと。それほど子供が大切なら、自分達でも作ったら?」
言った後にお母様は可笑しそうに笑う。
「ああ、一度だめになってしまったんでしたっけ? お前、昔から体が弱かったものね。ねえクローディン、子供が必要ならわたしが腹を貸してあげましょうか? わたしの子が可愛くてたまらないようですし?」
最悪だった。
本当に最悪。我が母親ながら、ここまで最低な人だとは思わなかった。
ダン、という鋭い音がした。テーブルを叩いたのかもしれない。クローディンはついに怒りを抑えきれなくなったようだ。
「いい加減にしてくれないか! どれだけ我が家を侮辱すれば気が済むんだ!」
「わたしの子を返さない限り、永遠に」
決裂は明らかだった。
ガタリ、と中で音がしたと思った時には扉が開かれた。
目が合った。フラローサ・オルエンヌがいる。
間近でお母様を見るのは久しぶりだ。ピンクローズのウェーブがかった髪の毛。決して人に心を許さないと決めている鋭い瞳。あ、お母様だ、と嫌に呑気にそんなことを考えた。抗えない血の繋がりを感じる。
実母は素早かった。わたしを見るなり抱え上げ、そのまま外へ出ようとする――でも、できなかった。
わたしはお母様の腕の中ではなく、未だ床の上にいた。
テオドシウスがわたしの手をがっちりと掴んでいる。お母様は彼を睨み付けた。
「お前、その手を離しなさい。どういうつもり?」
「離すわけないだろ」
静かな怒りを含んだその声に、わたしの背筋はやはり冷える。
テオドシウスは止まらない。
「俺は心の底からお前を軽蔑する。ルナはこの城で俺の妹として一年過ごした。お前がルナと過ごしたのなんてせいぜい半年だろ。世話なんて放置していたんだからもっと短いはずだ。
そんな希薄な付き合いでなぜ母親と言える? 生んだだけで母親面ができるなんて、いい立場だな」
お母様の顔が怒りに震えた。
「お前、英雄王ね。いいこと? 教えてあげるわ。生めばそれが母親なのよ。共に過ごした時間なんて関係ない。
お前がそんな態度だから、お前の母親は死んだんでしょう! わたしの物から手を離しなさい――!」
彼女がそう叫んだ瞬間、空間が奇妙に歪んだように思えた。テオドシウスに掴まれている手が痛い。
お母様に黒い霧が纏わり付き、次には目と鼻から血が流れた。
彼が魔法を使っている。
大変だわ! やばいかも?
テオドシウスがお母様を殺しちゃう! それは絶対にだめだと思った。
だけどわたしが彼をどうやって止められる? どうやって? どうやって――!
「て……てお!」
無我夢中で彼の名を呼んだ。情けないわ、こんなことしかできないなんて。これで英雄王の怒りが鎮まるなら誰だってやっているわ。
だけど彼はハッとしてわたしを見て魔法を止める。痛かった手が緩む。
彼の目から涙が出たように見えたけど、もしかしたら見間違いだったかも。周囲の状況を冷静に判断できる余裕なんてなかった。
だって次の瞬間、わたしはテオドシウスと手を繋いだまま、知らない森の中にいたんだもの。




