君の嘆きを止められない
むせかえりそうなほど濃密で甘い薔薇の香りがした。
「来るか?」
とだけテオドシウスは言って、わたしが隣に座りやすいようにベンチの端に避ける。
「少し休憩中」
お疲れ様、と心の中で唱えながら彼の横に乗せてもらう。今日の対応も準備も隙なんてないほど素晴らしかったわ。
熱気に気圧されたの? わたしはそう。
だけどお祝いの場は大成功ね。前世でも何度もこういう会を開いたの? だから手際が良かったの?
「あちゃ? ちゃあ」
本当に悲しいことだけど、わたしの体はまだ一歳で、言葉を上手く紡げない。
それでもテオドシウスは、はは、と笑った。
「そうだよ、お前の言うとおり」
だけどテオドシウスがわたしの言葉を理解したわけではない証拠に、こんなことを言ってきた。
「時々、お前と話せたらどんなに楽しいだろうなって考えるよ。どんなことを考えてる? 前はどんな人生だった?」
むう、と返事をしておいた。
前の人生は最悪よ、聞いたらきっとびっくりすると思う。
テオドシウスがわたしに向けてまた微笑む。
「何があっても、お前は大切な俺の妹だよ。可愛い可愛い妹だ。ルナがグラディア家に来てくれて、本当に良かったって俺も思ってる」
そんな風に言われるとふわふわと落ち着かなくて、なんとなく、足をぷらぷらとさせた。
わたしは貴方にそこまでの感情を持てるかしら。
義両親にも、そう思えるかしら。
思えたらいいとは思うけど、思えないかもしれないわ。
胸がむずむずする。あと少しで解けそうな数学の方程式だったのに、根本的に公式から間違っていた時みたいな感じ。
彼が薔薇の木に目を向けたから、わたしもつられてそちらを見る。
「白い薔薇はしばしば妖精姫の象徴として使われるから、庭師が俺に気を利かせて植えたらしい。前世の俺は妖精姫を大層大事に想っていたらしいけど、正直言ってなにも思い出せない。
だけどここにいると、なんとなく気が休まるように思うんだ。だからしばしばここに来て過ごしてるんだ」
愛する妖精姫のことを話しているのに、空虚な瞳に思えてならない。それは記憶がまだないから?
だとしたら大丈夫よ、とわたしは彼に語りかける。
そう遠くない未来で、貴方は彼女に再会するから。
そうしたら、記憶を全部取り戻すはずよ。
「皆が俺を英雄王と呼ぶ。でも実感はあまりない。彼だった時の記憶はあるけど、皆が思うようなものじゃない――」
喉に言葉が詰まったように、その先を彼は紡がなかった。
代わりにベンチから立ち上がる。
「そろそろ行くよ。ルナも戻るか? 人を捲いてきたんだろう、きっと心配している」
そうね、そうかも。特にアンナには悪いことしちゃったかしら。
わたしは頷き、彼が差し出した手に掴まった。英雄王と手を繋いでいるなんて本当におかしなことよね。時が戻る前のわたしが知ったら卒倒しちゃうかもしれないわ。
広間は庭に面しており、今日は扉が開かれていて、自由に出入りをすることができた。
皆、気の向くままに花を見たり談笑したり、ご飯を食べたりしている。わたし達もその輪に戻ろうとしたその瞬間に、事件が起きた。
「おいクソ王子!」
切羽詰まったような、あるいは怒ったような大声だった。驚いて同時に振り返ると、知った顔がいた。
いつもわたしを貰われ姫とからかう、王都の外れに住む貴族の少年だ。
彼は険しい顔でこちらを睨む。
「お前、よく平気な顔で笑って兵士に声をかけられるな! 皆、地獄のような戦場で死線をくぐりぬけて来たんだ。何人死んだと思ってる!」
間違いなく、彼は怒っていた。だけど怒りの理由は分からない。
「いいか? 俺の父さんがいたからお前の父親は無事に帰って来れたんだ!」
少年は今にも殴りかかってきそうなほど拳をきつく握りしめ、血走った目でテオドシウスを睨み付ける。
テオドシウスは彼に向き直り、じっと言葉を待っているようだった。テオドシウスが黙っているのをいいことに、少年は続ける。
「忘れるなよ、お前達の栄光は、死んだ英雄達の血の上に築かれているってことをな! 生きてる奴は助けられただけだ。死んだ人が本物の英雄だ! 俺の父親が死んだから、お前の父親は生きてるんだ!」
肝が冷えたように思った。
同時に少年の怒りの理由を知る。
テオドシウスの瞳が揺れたような気がした。
この少年のお父さん、死んでしまったのね。
わたしはどうしたらよいのか分からなかった。短期間で戦争が終わったとはいえ、味方側の戦死者が一人もいなかったわけではない。
当然死んだ。たくさんの人が。
わたしは実父に対しての愛情はない。時が戻る前もそうして今も、彼に対して何も思えない。会ったこともない。少なくとも、覚えていない。愛情はない。多分、相互に。
父を殺した相手が罰を受け死んだと聞いても、なんの感情も動かなかった。
でも、他の多くの人にとって父親ってそういうものではないみたい。父の死は悲しいものだ。少年の怒りはそれを物語っていた。
わたしはテオドシウスの反応を待った。
英雄王、貴方はどう出るの?
テオドシウスは一歩、少年に歩み寄った。逆に少年は、驚いたように一歩下がる。だけどテオドシウスは怯まないどころかますます彼に近づき、言った。
怒るのだろうか、と思ったけどそうではなかった。
「オズワルド。君の父はとても勇敢な戦士だったと父から聞いている。恐れを知らず、戦う姿は皆を勇気づけたのだと。誰もがそうなれるわけではない。君の父は立派な人だった」
少年だけなく、わたしもぎょっとしてテオドシウスを見た。彼の声は静かで、有無を言わせず、明瞭だった。
「君の言うとおりだ。君の父のおかげで俺の父は生きている。俺が死ぬまで、それを忘れることは決してない。
俺が君の悲しみを癒やすことはできない。君の父を生き返らせることもできない。
だけどその代わり、俺は君達のために生きる。君の父が俺の父のために命を賭けてくれたように、俺もいつか君達のために命をかける。それが俺の、いずれグラディア王となる人間の責任だ。――どうかそれで許して欲しい」
さらに驚くことに、テオドシウスは頭を下げていた。わたしが知る英雄王って、高飛車で冷酷だった。
こうやって人に頭を下げることがあったなんて信じられないわ。
許して欲しいって、自分より身分が下の人間にこんな態度で謝るなんて。
それはテオドシウス自身の言葉だった。だけど本心なのか、相手が喜ぶ言葉を選んだのかは、背を向けるテオドシウスからは読み取れなかった。
きっとそれはオズワルドと呼ばれたその少年が最も欲しい言葉だっただろう。
オズワルドは泣いていた。人目も憚らず、やるせなさを受け止めきれないみたいに、大泣きしていた。どんなにわたしをからかう意地悪を言ってきても――意地悪さえも、自身の父が従軍することへの恐怖の裏返しだったのかもしれない――彼は子供だった。哀れな子供だった。
テオドシウスの両手が固く結ばれているのを見た。
いつもわたしをからかうオズワルドの涙に、狼狽えたのはわたしの方だった。自分でも驚くくらいに動揺していた。
これは空論に過ぎないし、実際のところはどうか分からない。
運命なんて実は少しも変わっていないのかもしれないし、義両親は死に、わたしもテオドシウスに殺されるのかもしれない。
だけどもし、わたしが運命を少しでもずらしてしまったのだとしたら――?
記憶の通り、わたしの実父を殺した将軍は討伐された。だけどどこまでが記憶と同じだったのかなんて、細部は分からない。
時が戻る前は、もしかするとオズワルドの父親は生きて家族の元へ帰ったのかもしれない――そんな風に思ってしまった。
だとしたら少年は悲しみの涙を流すことはなく、父を思い切り抱きしめたかもしれない。
今日流すのは悲しみの涙ではなく喜びの涙だったのかもしれない。
だけどそうはならなかった。
彼の父は死に、死体さえも二度と帰らない。
生きるはずだった人が死に、生まれるはずのなかった命が生まれる。人々の命のうねりは、ずれたまま進み続ける。
運命を変える。それはもしかすると、とてつもなく過酷な道のりかもしれない。
じゃあ、歩みを止める?
わたしは両手を握りしめた。
いいえ、止めないわ。絶対に。
半年前に決意したんだもの。この家族を守るって。皆を幸せにするって。
わたしは広間を振り返る。騒ぎを聞きつけた義両親がやってくるのが見えた。
彼等はテオドシウスに頷くと、オズワルドを抱きしめる。
愛情深い人達。その愛が、どうしても必要だ。
彼等を失いたくないのはわたしのエゴだ。彼等を生かすために、一体何人が死ぬのだろう、そんなこと見当も付かない。
三人の様子を見つめるテオドシウスの隣に行き、未だ固いその手をそっと握ると、義兄の手から力が抜けるのが分かった。彼は前を見たままだったけど、ゆっくりとわたしの手を握り返してくれた。




