真夜中の来訪者
エリィが倒れたのは、わたしの誕生日から数日が経った日のことだった。
晴れた日、彼女はわたしを午前中に庭に連れ出して散歩してくれる。早々に歩けるようになったわたしは、芝生の上をはいはいするジェイクをからかったり、おさえきれない赤子の衝動で草や小石を口に突っ込んでは止められたりなどして過ごしているのが常だった。
そんないつも通りの日だったはずなのに――。
庭の花を目がけて走ったわたしの背後で、アンナの悲鳴が聞こえたのだ。驚いて振り返るとエリィが土の上に横たわっていた。
エリィは貴族の娘で、グラディア王国の王妃だ。当たり前に地面の上に体を横たえるというはしたない趣味は持っていない。
アンナは周囲に助けを求め、数人がかりでエリィを部屋へと運んだ。
わたし? わたしは様子の違う義母に驚いて、ばたつく周囲に圧倒されて、十八歳の心ではなく一歳の心が勝ってしまった。恥ずかしながら大声で泣き喚いていた。馬鹿みたいでしょ、そう思ってもいいわ。だって本当に間抜けだったから。
わたし、泣く人って嫌いだった。だって涙って弱さだから。泣いても良いけど、ここぞというときだけよ。涙こそ武器にしなくちゃいけないと思う。
なのに、この時のわたしはただ無様に泣いてただけ。泣くなんて馬鹿だと思うのに、自分が制御できなかった。
重ねて愚かだったのは、駆け付けたテオドシウスが慰めるように繋いでくれたその手に安堵して泣き止んでしまったこと。
これじゃ本物の赤ちゃんみたいじゃないの。
だけど誰も――わたし自身でさえも、わたしの醜態など気にしている場合ではなかった。
エリィの部屋には医者が長時間入っていた。こういう時は不安で不安で堪らない一歳児が表に出てきてしまう。彼女の部屋の前で中に入りたいと泣いても、決して中には入れてくれなかった。
別室で、アンナとジェイクと、それからテオドシウスと待っていた。ただひたすらに、エリィのことを待っていた。
「大丈夫さ。ルナが思っているようなことじゃない」
テオドシウスがわたしを励ますようにそう言う。
――どうして貴方にそんなことが分かるの? 未来を知らないくせに。彼女は死んじゃうの。未来で死ぬのよ。
そう思ったら、また涙が後から後からぽろぽろと零れ出ててしまった。弱い人は嫌い。嫌いなのに。
「大丈夫、大丈夫だから」
テオドシウスがそう言って、わたしの肩を抱いてくれた。その温かさに再び心が落ち着いていく。彼に殺された十八歳のわたしではなくて、一歳の自分が彼に心を許しているみたい。半年間ずっと側にいてくれた兄として、本能が彼を信頼してしまっていた。
結局その日、わたしがエリィに会うことはなかった。使用人が廊下をバタバタと何度も行き来する音を聞いた。彼女の容態は分からない。とてもひどいのかもしれなかった。
だからその晩、わたしは図書室からいくつか本を自室に持ち込んだ。子供の気まぐれだと思って、大人は誰も気にしない。まさかわたしが本当にその本を読むつもりでいるだなんて、誰も夢にも思っていなかった。
わたしを寝かしつけてくれようとアンナが一緒にいてくれたので、早々に寝たふりをして彼女が部屋を出て行き、一人になってから本を開く。
治療魔術について調べたかった。
魔法は万能じゃないってことは知ってる。大きな怪我を治したり、体の中にある腫瘍を取り除いたりするには、それだけ精密さや大きな魔力が必要だったし、すべての病気を治せるわけでは当然ない。だけど、テオドシウスなら、常人にはできない病気の治療もできるのではないかという期待があった。
治療魔術の術式を見る。いずれのページにも複雑な文字が並んでいた。
魔力を魔法として出力するには頭の中で魔術文字と呼ばれる文字を思い浮かべて多くの場合は魔法陣として出現させる。テオドシウスはほとんど魔法陣を使わないけど、それは魔術文字を思いうかべるまでもなく力を使える証拠だろう。
魔道具にだって魔術文字は彫り込まれている。わたしは魔法を使えないけど、魔術文字をどこかに彫り込んでおけば、そこに空気中の魔力が集まってわずかながら効力を発揮するということも知っていた。エリィの体が冷えているなら、熱を閉じ込める魔法文字をベッドに彫ろうとそう思った。
わたしはルキウスの魔導書を開き、治療魔術の術式の魔術文字を読み始める。
熱を取る魔術、体を暖める魔術――載っているのは単純なもので複雑な病を治せるとは思えない。
パラパラとページをめくる。そもそも未来で彼女を病気から救うことは誰もできなかった。だとしたら、クローディンの死を防ぐ以上にエリィを救うことは難しいのかもしれない。
――――と、その時だった。
ふわり、とカーテンが揺れたことに気がついた。
寝る前にアンナがきっちりと閉めたはずの窓は空いていて、カーテンの隙間から月明かりが漏れ、部屋の中を照らす。
異変はそれだけではなかっった。
「私の本を読んでいるようだな」
知らない男性の声がした。
目の端に青白い光が見えたような気がした。そちらを見ると、声の主らしき人がいる。見たことのない若い男だった。
光を受けて煌めく青い瞳はグラディア家のものによく似ている。黒い髪も一族には多い。
何より、クローディンに雰囲気がよく似ていた。けれど、目の前の彼はとても悲しそうな瞳をしているように思えた。
「その本は役に立っているかい」
彼がわたしの手元を指さした。それは図書室で見つけたルキウスの魔導書だ。
わたしは再び彼を見る。
――だとしたら、貴方はルキウス?
だけど彼はわたしの疑問など少しも気にせずこう言った。
「エリィ・グラディアなら心配ない。病気ではない」
彼が亡霊なのかわたしの妄想なのか夢なのか分からない。
わたしに都合のよい言葉をかけてくる辺り、やはり妄想なのかもしれない。
彼がわたしに触れようとするように片手を伸ばす。
「ルナ――」
瞬間、寒気が体を駆け巡る。反射的にわたしは彼から遠ざかるようにして身を引いた。と同時に、彼の表情が強張り、手が裂け、そこから赤い血が流れ出た。
彼は驚いたように自らの手をもう片手で庇うと皮肉めいた笑みを見せる。
「自分のものだという印を付けたのか。英雄王も小賢しい真似をする」
彼の目線はベッドの脇の小机に向けられる。その上には、テオドシウスがくれた髪飾りが飾ってあった。
それから彼はわたしを見た。その目が優しく細まる。
「……まだ力が足りないようだ。いつかお前を迎えに来よう。その時までの短い別れだ。さあ、今は眠りなさい」
謎めいた言葉を残して、彼がわたしに手を翳す。途端、抗いきれない眠気が襲い、わたしは目を閉じた。
起きた瞬間、一切は夢だったのだと思った。
窓は閉まっていて、カーテンの間から差し込む朝の光以外は、何も変化は無かった。
頭がぼうっとして、よく働かない。
読みかけていた魔導書がベッドの上に置いてある。
ルキウス。口の中でその名を呼んでみる。昨日現れたのは彼だったのだろうか。彼はこの城の住人で、今もどこかにいるのだろうか。だけど見たことの無い人だった。
そんなことを考えていると、部屋の扉が開かれてそちらに意識を奪われる。現れたのはテオドシウスだった。
彼もエリィを心配して、碌に眠れない夜を過ごしたのだろうか。疲れた顔をしているように見える。口元には無理矢理作ったような笑みを浮かべていた。
「おはよう、起きてたか?」
と、彼が言った瞬間、わたしの顔を見て、険しい表情に変わる。
「昨日、誰か来たのか?」
何かに気付いたのだろうか。
うんともううんとも言い難い。
テオドシウスは部屋を見渡し、数歩歩き何かを床から拾い上げ、わたしに見せる間もなく服の中に隠してしまった。一瞬だったけどそれは黒く光る鳥の羽のように見えた。鴉の羽に、よく似ている。
それから彼は小机の上の髪飾りに触れ、しばらくの間、黙り込んでしまった。その横顔はひどく真剣で、凍てつくように冷酷だった。
「――よくないものが来たらしい」
そう呟くと、彼はわたしに向けて微笑んだ。
「何かあったら俺を呼んでくれ。どこにいたって駆け付けるから」
優しい言葉にどう返したら良いのか分からない。
無言を貫いていると、テオドシウスはわたしの体を抱えた。
「行こう、母様が呼んでる。ルナに会いたいって」




