わたしが幸せにしてあげる
その夜のことだ。
疲れ切ったエリィを休ませるために、クローディンがわたしの世話を買って出た。
だから部屋には、彼とわたしのふたりだけ。使用人さえも下がらせたのを見るに、一人で考え事をしたいみたいだ。わたしもいるけど、何度も言っているように、赤ん坊はほとんどの場合、人間として数えられていないから。
クローディンの寝かしつけは正直言って慣れなくて、赤ちゃんの自分が不安に泣き出しそうになる。だけど今日は主にわたしのせいで色々あったんだもの、精一杯耐えてみせるわ。わたしは涙を堪え続けていた。
彼はわたしを片手で抱っこしながら、もう片方の手で日課の日記を書いていた。わたしもじっとそれを見る。彼の文字を目で追うけど特段おかしなことは書かれていない。もしかして帝都の反乱のことや、その他重要なことが知れるかもしれないと思っていたけれど、淡々と、今日の天気と泥棒騒ぎのことを記しているだけだ。
だけど彼のペンがテオドシウスの名を記した瞬間、わたしは声を出した。
「あ」
はは、と義父は応じる。
「そうだよ、お前の義兄さまだ」
優しい声色で彼は言う。
「テオドシウスが好きか?」
ううん、嫌い。
むっとした表情を浮かべてみせると、クローディンは微かに声を出して笑った。
「そうか。だがテオはルナを気に入っているぞ」
そうかしら? 確かにそうかも。でも赤ちゃんが珍しいだけでしょう? だって彼は冷徹公と恐れられ、わたしを憎み、殺したんだもの。未来ではどうせ嫌うのよ。
「なぜそこまで気を許せたのだろうな。もしかするとルナの中にある魂を気に入ったのかもしれないな」
――――魂?
妙なことを言い出す人だと思って顔を見つめるけど、彼はこちらを見てはいなかった。瞳の先には虚空があるだけで、どこを見ているということはない。
「そう、あいつには魂が見えるそうだ。俺には想像も付かないことだが……」
魂が見えるってどういう意味なの?
自嘲気味にクローディンは笑った。
「神も非道なことをするとは思わないか? 凡庸な俺の元に、英雄王の生まれ変わりの息子を授けるとは」
ええそうよね。神の非道はわたしもよく知っているわ。上手くいかないことばかりよね、とわたしは彼に同情を寄せた。
彼は独り言めいた言葉を続ける。
「あいつは英雄王の生まれ変わりだ。人とは異なる別の物の見方をしているのかもしれん」
義父はわたしに語りかけるというよりは、己に言い聞かせているようにそう言う。
彼の言葉を聞きながら、ある考えが浮かんだ。
魂が見えるなんて半信半疑だけど、もしかしてそれってわたしが赤ちゃんじゃないって気付いているってこと? ひょっとしてわたしの中には十八歳の魂があって、テオドシウスはそれを見ているの? だとしたら、彼のわたしに対する不可思議な言動にも説明が付く。他の人とは違い、赤ん坊に対する態度ではないように思えた。
魂がどう見えているのかなんて知らないけど、赤ん坊でないことに気付かれているのかもしれない。心に留めておいてもよいことだ。
クローディンはいよいよ日記を書く手を止める。思考はテオドシウスへ向き、離れられないようだった。
「俺にも踏み込めない領域が、息子の中にあるようだ。だがお前が来てからは、時折本当の笑顔を見せてくれているように思うよ。
あいつも色々あったから、今を穏やかに過ごせていることが奇跡のようだ。親の前では無理に明るく振る舞っているようだったから、ルナが来て本音の一端でも吐き出せているのなら良かった」
あらあら、二面性に気付かれていますよ英雄王様。父は息子のことを、想像以上によく見ているみたい。
それからようやく、クローディンはわたしに目を向けた。そこには何の悪意もなく、穏やかな表情が浮かんでいるだけだった。
「なあ、ルナ。テオドシウスを愛してやってくれないか」
ごめんねクローディン、彼を愛することはできないわ。だけど愛するふりならできるかも。
しばし目を合わせていると、クローディンは不思議そうな表情を浮かべた。じっとわたしの顔を見つめる。
「ひょっとすると、本当にお前が盗みに気付いたのかもな。賢そうな顔をしている。時々、お前は全てを分かっているんじゃ無いかと思うときがあるよ」
とてつもなく誇らしい気分だった。言葉が話せたら、どれだけ苦労したか全部伝えたいわ。
そうよ、わたしが気付いたの。
ねえルナってすごいでしょ? えらいでしょ? 褒めて良いのよ。どうぞどうぞ。
ふふん、と笑んでみせると、クローディンはわたしを優しく揺さぶった。
「すごいよお前は。お前は天からの贈り物だ。奇跡だ。神が俺達に授けてくださった大切な娘だ。安心しろ、どんなことがあっても必ず守り通す。帝都で何が起ころうが、ルナは俺とエリィの娘だ。グラディア家の愛娘だ。どんな時でも家族がお前を守る。だからお前も家族を守るんだ。それをよく覚えておくんだぞ」
わたしはびっくりしてしまう。褒めて良いとは思ったけど、そこまで大きな愛の言葉をかけられるとは思ってもみなかったから。
この城の人達、すごく変わっているわ。そうでしょう? 子供を政治の道具では無く本物の愛情をかける貴族がいるなんて信じられない。
しかもわたしはただの赤ちゃん。なんの役にも立ってないのに……。
生きることは食らい奪い偽ることだとわたしは思う。何もしなくても存在していることが許されて、あまつさえ愛情を向けられるなんて――ありのままで愛され許されるなんて、あっていいことじゃないのに。この城の人達は、そうしている。
不思議な人。
不思議な人達。
温かな人達。
優しい人達。
燭台の灯りがクローディンの顔を照らす。半顔に光を、もう半顔に濃い闇を作り出した。
城は寝静まり、ジェイクの夜泣きも今日はない。ひっそりと暗くなった城だけど、恐ろしさはなく、穏やかな夜のひとときが、わたしたちを有象無象の異形から守ってくれているようだった。
でもねクローディン、とわたしは彼に語りかけた。
貴方は五年後に死ぬのよ。
最愛の妻もその数年後に死ぬ。栄光もそれでお仕舞い。
そんなことを少しも知らないんでしょ? かわいそうにね。
それなのに、この家族はぐちゃぐちゃに蹂躙されて崩れ去ることになるのに、そんな穏やかな顔して笑っているなんて、馬鹿ね――。
そう思った瞬間、わたしの心の中で何かが疼いた。それは熱に似ていて、衝動のようでもあった。自分では止められない、あふれ出す感情だった。
気付けばわたしは心の中でクローディンに語りかけていた。
ねえ、お義父様。
ずっとこの家族でいたい?
エリィが好き?
テオドシウスが好き?
……わたしが好き?
彼はまだ、わたしを見つめて笑ってる。
そう、それが答えなのね。
だったら、分かったわ。
少し前までは、貴方達の運命を変えるつもりなんてなかったし、死を止めるなんて無理だって思ってたけど。
わたしが生き残るためには、この人達が必要だ。彼等の愛という庇護を失うのはあまりにも痛い損失だ。もしテオドシウスがわたしを殺すその時に、クローディンかエリィがいてくれたのなら、死なずに済んだかもしれない。
時が戻る前は運が悪かったし、わたしには絶望的に後ろ盾が無かった。いいえ、あることにはあったけど、簡単に砕ける盾だった。
今は思う。運は自分で掴み取るものだって。その運とは、まさしく彼等に違いなかった。
だからわたし、貴方の死を防いであげる。
エリィの死も、防いでみせる。
国が混沌に陥って大勢が死ぬ前に、テオドシウスを皇帝にさせるわ。
それでわたしも、ずっと幸せに生きるの。テオドシウスはわたしを殺さない。
無理って思う? そんなことはないわ。だってわたしにだって、善いことができたのよ。
小さなことかもしれないけど、泥棒を捕まえて、エリィとアンナの名誉を守ったんだもの。ねえ、すごいでしょ?
だからきっとできるわ。覆せないことなんて何もないのよ。
この家を守ってあげる。
グラディア領を守ってあげる。
この家族を皆、守ってあげるわ。
皆のこと、幸せにしてあげる。
わたしは、義父に向けて笑いかけた。
――だってわたしも、貴方達を好きになりかけているから。
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