35.おかえりデート
一年ぶりにラルフが帰ってきた翌朝、私は早々に出かける準備を済ませていた。
昨日は屋敷へ戻ってからも家族への挨拶や荷ほどきがあり、二人で落ち着いて過ごす暇がなかった。
だから今日は朝からお出かけ予定なのだ。
「行こ、ラルフ!」
私はラルフへ手を差し出した。
「どこから回るんすか?」
「市場! そのあと港! それから新しく変わったところ全部!」
思いつくまま並べると、ラルフが呆れた顔をした。
「全部って、何か所ですか?」
「内緒~」
差し出した手は無視されなかった。
大きな手が私の手に重なって、変な声が出そうになる。
指も爪も大きくて、手のひらは私よりずっと分厚い。剣を握るせいで硬くなったところもあって……私の手と全然違う。
今日は手袋をしていないから、ラルフの手が直接触れている。
指が、私の指のあいだへ入ってきた。
「……う」
指と指が絡んで、手のひらまでぴったり重なる。
ラルフの手って、こんなに大きかったっけ?
私だって外を歩き回っているから、深窓の令嬢みたいに真っ白ではない。
でも、ラルフの手は私より日に焼けている。その大きな手に包まれると、自分の手が白くて小さく感じた。
指のあいだからも、重なった手のひらからも、ラルフの体温がそのまま伝わってくる。
好きだと気づく前は、袖を掴むのも腕へ抱きつくのも平気だった。
人混みではぐれないように、手を取られたことだってある。
でも、指を絡めて繋いだことなんてなかった。
……これ、恋人がする手の繋ぎ方だよね?
「ジャクリーン?」
しかも名前!
昨日から呼ばれるたびに、まだこそばゆい。
「は、早く行こっ」
私は繋いだ手を引っ張った。
「こら、走らない。転ぶ」
「走ってないよ」
まだ一歩も走っていないのに失礼な。そう思ったところへ、ラルフが繋いだ手を強く握った。
「今から走ろうとしてただろ」
「してなーい」
敬語だったり、ため口だったり。本人も直そうとしているらしいけど、長年の習慣はしぶとい。
私はどっちでもいいけどね。
それより今は、この一年を見せるほうが大事かな。
市場の入口には、この一年で新しい案内板が立った。
港から来た人が市場へ入りやすいよう、宿屋と食事処、土産物屋の方向を小さな絵で示してある。
文字が読めなくても、皿や貝殻の印を見ればだいたい分かるようにした。
「これ、前はなかったでしょう?」
「手紙に描いてた案内板か」
「そう! でもね、最初はもっと絵が大きかったの。そしたらレナに、案内板なのに絵ばっかり見せてどうするんですかって言われて、小さくしたんだよ」
私としては、もう少しくらい絵が大きくても可愛いと思うんだけど。
「レナが正しい」
「むむ」
久しぶりに会った婚約者なのだから、私の味方をしてくれてもいいのではなかろうか。
でも、ラルフは案内板の前で足を止め、絵と実際の通りを見比べていた。
「前より分かりやすい。初めて来た人間でも迷わなそうだ」
「でしょ?」
そこから市場を抜け、港へ続く道を歩く。
途中には、この一年で店先を直した食事処や、新しく絵入りの札を出すようになった店もある。
港を見渡せるところには腰掛けも増え、地図を持った人が二人並んで海を眺めていた。
私が一年かけて全部作ったわけではない。
地図を見た店の人が自分で案内を出したり、旅人が増えたから置く物を変えたり、商会が店同士をつないだりしている。
「変わったでしょ?」
「変わった。手紙で読んではいたけど、実際見ると結構違うんだな」
「まだあるよ!」
そうして市場へ戻ったところで、私は本日の秘密兵器へラルフを連れていった。
ハイモア焼きの露店である。
菓子職人は私たちに気づいてぺこっと頭を下げた。
焼き型の中では、今日も魚たちが笑っている。
「お帰りなさい、ラルフさん」
「どうも。ご無沙汰してます」
ラルフが挨拶をしているあいだに、私は菓子職人へ目で合図した。
分かっておりますな?
昨日のうちに頼んでおいたのだ。
菓子職人が包みを一つ差し出す。
「はいよ。焼きたてです」
「ラルフ、食べてみて?」
受け取った包みを、そのままラルフへ押しつける。
ラルフは怪訝そうな顔をしながら、魚の頭へかじりついた。
「ん? クリームじゃない……」
中に入っていたのは、黄色いカスタードクリームではない。
赤いトマトソースと、とろりと溶けたチーズである。
細かく刻んだきのことバジルも入っているんだよ!
「……何だこれ」
「ふっふっふ〜」
その顔、待ってました!
「実はね、『ピッツァ味』を作ったの!」
割れた魚から、チーズが細く伸びている。
「これ、手紙に書いてなかったっすよね?」
「うん、書いてない。ラルフに直接食べてもらおうと思って、秘密にしてたの」
一年間、手紙にはかなりのことを書いた。
琥珀糖なんて、失敗するたびに報告したし、昼食の魚の骨が取りにくかった話まで書いた。
でも、これだけは書かなかった。
「ラルフは甘いものより、しょっぱいもののほうが好きでしょう? だからね、ハイモア焼きにも甘くない味があったらいいかなって思ったの」
もちろん、ラルフ一人のために作ったわけではない。
甘くないものが欲しいという声もあって菓子職人と試したのだ。
まあ、最初に思い出したのは、ラルフなんだけど。
「どう?」
「美味い。カスタードクリーム味より好きです」
ラルフはそのまま二口目を食べた。
一匹食べ終えるのも早い。というか、二匹目をおかわりした。
これは大成功と言っていいよね?
きっと、甘いものよりしょっぱい派のお客さんも増えるでしょう。
昼は、去年の春に六品のレシピを渡した飯屋へ入った。
壁の品書きには、あの六品の名前が並んでいる。
私たちが席へ着いているあいだにも、近くの卓からオムライスやコロッケを頼む声が聞こえてきた。
「結構出てるんだな」
「そうなの。もうこの店の名物料理だよ。ねっ、何食べる?」
「ドリアとコロッケ。ジャクリーンは?」
「私はオムライス~」
食事を終えてさらに町を回ったあと、最後にミドルトン商会へ寄った。
目的はもちろん琥珀糖である。
応接間の机へ箱を置き、薄紙をめくった。
「じゃじゃーん!」
赤、青、黄、紫、緑。
五色の琥珀糖が、窓から入る光を透かしている。
「これが、琥珀糖か?」
「そう! 昨日は見せる暇なかったからね。食べて食べて!」
私は青を一つ摘まんで渡した。
ラルフが口へ入れる。
「どう?」
「……すんげえ甘い……あ、いや、美味いっす……」
「もう一個いる?」
早速二個目を差し出そうとしたら、ラルフは首を振った。
「……今はいいです」
「赤もあるよ?」
「色が違うだけで味は同じなんすよね?」
「そうだけど! 見た目が違うじゃん!」
むううう。
ピッツァ味は二匹丸ごと食べたのに、琥珀糖は一個。
一年の努力と食べる個数は比例しないらしい。
うーん、世知辛い。
私が不満を込めて青い琥珀糖を一つ食べると、ラルフがぽつりと言った。
「頑張ったな、ジャクリーン」
これですよ! 私は、これが欲しかったの!
「もう一回言って」
「嫌だ」
「なんで!?」
一年間頑張ったのだ。一回ぽっちで褒め終わろうなんて、そうはいきませんよ!
「一回で聞こえただろ」
「一年頑張ったんだから、三回くらい褒めてもよくない?」
文句を言いつつも、私は琥珀糖をむしゃむしゃ食べた。
◇
夜。
十八歳の誕生日にも、ラルフが王都へ発つ前夜にも来たベランダへ出た。
初秋の夜はまだ寒くない。町の灯りの向こうには港があり、船の灯りがいくつか海の上で揺れている。
隣にはラルフがいる。
「ねえ」
私は柵へ両手を置いたまま、横を見る。
「ん?」
「ね、ラルフ。『ご褒美』の話、覚えてる?」
「……覚えてますよ」
あれ? さっきまで、ため口もかなり出ていたよね?
私はラルフの顔を見上げた。
「じゃあ……する?」
自分から聞いたくせに、声が小さくなった。
昼間なら普通に見返せた琥珀色の目なのに、今は急に見ていられなくなって、私は柵の向こうへ視線を逃がす。
「……すみません、ちょっと難しいです」
「なんで?」
「いや……何というか」
ラルフは片手で口元を覆った。目も逸らしている。
普段顔が怖い男が本気で照れている様子に、きゅんとなる。
でも私も同じくらい恥ずかしいので、じっと観察できない。
なんともったいない。
「ずっと従者の立場だったんで、罪悪感というか……背徳感が……半端ないです……」
敬語、完全に復活してない?
「私たち、婚約者だよ?」
「分かってます。でも、まだキャロル家に住まわせてもらうんですよ。旦那様も奥様もトリスタン様もいる屋敷で、だから、その……お嬢様にこういうことするの、何かすげえ悪いことしてる気がして」
ついに『お嬢様』まで復活した。
何それ。兄様の顔が浮かぶの?
今ここには二人しかいないのに?
「じゃあ、結婚するまで何もしないの?」
「……それは……嫌です」
「嫌なんだ?」
思わず聞き返すと、ラルフが眉を寄せた。
「一年待ったんですよ?」
急におかしくなって、私はけらけら笑った。
ラルフもちょっぴり笑う。
それから、私の頬へ手が触れた。
昼間は手を繋げたのに、髪を耳へかけられ、その手が頬から離れないだけで体が固まる。
昔から何度もされてきたのに、意味が全然違う。
顔が近づく。
一年前も、ここまでは同じだった。
あのときはあとちょっとのところで止まったけど、今日はそのままラルフの唇が私の唇へ触れた。
触れた、と気づいたときにはもう離れているのに、頭の中は真っ白になっていた。
「……」
柔らかかったような? ってくらいしか分からない。
でも、心臓だけはものすごく分かっているらしい。うるさいし、耳の中からどくどくって音がするし、顔も燃えてるみたいに熱い。
「……もう一回、します?」
私は反射的に首を振る。
「きょ、今日はいい」
ラルフがちょっと笑う。
「んもうっ、なんで笑ってるの?」
「いや……可愛いなって思って」
私は顔を両手で隠した。
な、慣れなさすぎるぅ……!
手の隙間の向こうでは、ラルフも照れている。
たぶん、私たちは二人とも慣れていない。
……だったら、ゆっくりでいいよね?
明日も、その次の日も会えるんだから。




