31.従者じゃなくなる日
ラルフの養子先がナイト男爵家に決まり、我が家では王都へ向かう準備が始まった。
兄様とお父様は先方と何度も手紙をやり取りし、ラルフも呼ばれるたびに執務室へ籠った。
そのあいだにも、ラルフの荷物は日に日に増えていき──
とうとう出発日が決まった。
◇
──明日、ラルフは王都へ発つ。
今日までは、出発日が決まってもラルフがいつも通りそばにいた。朝になれば部屋の前で待っていたし、私が出かければついてくる。
それが明日からなくなるなんて、信じられない。
明日から一年、ラルフはここにいない。
「お嬢様、聞いてます?」
仕事部屋の机には秋用の地図が広げてある。
新しく開店する店のマークをどうするか考えていたはずなのに、まったく集中できていなかった。
ラルフの袖口には青い革紐と銀色の魚がのぞいている。
私の手首には、白い革紐の同じ魚──海を渡っても、また会えるお守り。
「えっと……」
聞いてなかった。
「午後、トリスタン様が部屋へ来るように、とのことです」
「うん、分かった」
私は地図へ視線を戻した。
◇
午後、兄様の執務室へ行くと、お父様とお母様、ブレンダ姉様も来ていた。
机の上にはナイト男爵家から届いた書類と、キャロル家で用意した書類が並んでいる。
兄様から説明された内容は、難しいところを抜けば単純だった。
ナイト男爵家がラルフを養子として迎えることを正式に承諾し、キャロル家もそれを認めた。
養子縁組に必要な手続きも完了し、ラルフは正式にナイト男爵家の養子となる。
そして、私とラルフの婚約も正式なものとして認められることになった。
婚約者(仮)ではなく、婚約者というわけだ。
ラルフと結婚したいと言って、家族に話して、養子先を探してもらって、王都まで面談へ行ってもらった。
その全部を越えて、とうとうここまで来た。
なのに、その日にラルフは従者を辞める。
明日の朝には王都へ行く。
欲しかったものが手に入る日と、十三年間続いた生活が終わる日が同じになるなんて知らなかった。
「ジャクリーン」
兄様に呼ばれ、はっとする。
「今日から、お前とラルフの婚約は正式なものとして扱う」
「……うん」
返事をしたら、隣にいたラルフと目が合った。
嬉しくて笑うと、ラルフも笑う。
そのあと、お父様からラルフへ、キャロル家の従者としての勤めは今日で終わりだと告げられた。
五歳の頃に家へ連れて帰って、それからずっと一緒にいた。
いつの間にか私の従者になっていた。
その年月が、何か大げさな儀式で終わるわけではない。
お父様が労いの言葉をかけ、ラルフが頭を下げる。それで、ラルフは私の従者ではなくなった。
部屋を出ても、見た目は何も変わらない。
黒い髪も、琥珀色の目も、今日まで着ていた従者服も同じだ。
変わったのは、関係だけ。
私は廊下で立ち止まった。
ラルフも止まる。
「もう従者じゃないなら、『お嬢様』呼びじゃなくて、名前で呼んでほしいなあ。あと、敬語もやめてほしい」
言ってみると、ラルフは困ったように眉を寄せた。
「急に変えろって言われても無理っすよ。まあ、一年後までには呼べるようにします」
むう。
一年後って、そんなに待たなきゃだめなの?
私は今、名前で呼んでほしいのに。
明日から一年も離れるんだから、一回くらい呼んでくれてもいいじゃん。
……もしかして、寂しいのって私だけなのかな。
◇
夕食を終え、部屋へ戻ったあとも、なかなか寝る気にはならなかった。
というか眠れない。
明日の朝になれば、ラルフは馬車へ乗る。
王都までは五日。そこから一年、ナイト男爵家の息子として暮らす。
会えない期間が本当に一年きっちりなのかは分からない。
王都とハイモアは遠いけど、三か月に一回くらいなら会えるかもしれない。家の用事でこちらへ来ることだってあるかもしれないし、私が王都へ行く機会だってある……はずだ、きっと。
そう考えているうちに、誕生日にもらった白いうさぎが目に入った。
『ねえ、来年も再来年も、その次もプレゼント交換しようね』
『……はい、しましょう』
明日から一年離れるけど、あの約束が嘘になったとは思わない。
──会いたい。
私は部屋を出て、ラルフを探した。
荷造りは終わっていて、明日の出発を待つだけだというラルフは部屋にもいなかった。
会うのを諦め、ベランダへ行ってみたら、そこにラルフがいた。
お互いにびっくりして、数秒見つめ合ってしまった。
「お嬢様、どうしたんです?」
「ここに一緒に来たくて誘おうと思って探してたの。いるからびっくりしちゃった」
私は柵のそばまで行ったあと、ラルフへ向き直った。
「ねえ、もう婚約者だし、抱きついてもいい?」
兄様に禁止されてから我慢していたのである。
返事を待つ前に腕へ抱きつく。
「トリスタン様に見つかったら怒られますよ」
「正式な婚約者になったんだからいいでしょ?」
従者以上は禁止という決まりは終わったはずだ。
婚約者にまで何もするなと言うなら、兄様へ抗議したい。
自分だって、婚約中からブレンダ姉様をそばに置いてるんだから文句を言える立場じゃないでしょ? ってね。
ラルフは何か言いたそうだったけど、その前に、考えるより先に言葉がこぼれ出た。
「キスしたい……」
口に出してから、急に恥ずかしくなった。
でも、言ってしまったものは仕方がない。
だって、私は、『今』したいんだもん。
「兄様に内緒ならいいんじゃない? 私、誰にも言わないよ」
ラルフは返事の代わりに、ため息を吐いた。
「あんまり誘惑しないでください」
そう言って、頬にかかっていた髪を耳へかける。
指が髪から離れたあと、ラルフは困ったように笑った。
そういう顔をされると、お願いがしにくい。
「……我儘言ってごめんね」
諦めようと思って、腕の力を抜いたところで、ラルフの顔が近づく。
「え」
さっきまで普通に見上げていた顔が、まつ毛まで数えられそうな距離にあった。
髪へ触れた手も、まだ私の頬の近くにある。
けれど、あとちょっとで唇が触れるところで、ラルフは止まった。
「……今はやめときます。……これ以上、離れたくなくなると困るんですよ」
ラルフは顔を離したものの、私を見つめたまま、唇をぎゅっと結んでいる。
「たった一年ですから。帰ってきたときの楽しみにさせてください」
そっかあ。
ラルフも、離れたくないんだ。
そんな約束を残されたら、私だって頑張るしかないじゃないの。
「うんっ、来年、いっぱいしようね!」
キスは一年後まで我慢するけど、ぎゅー! は今してやるっ。
私はラルフの胸へ頬を押しつけ、背中へ腕を回した。
従者服越しでも体温が分かる。離れたくなくて、抱きつく腕へますます力が入った。
頭の上で、ラルフが息を吐く。
「だから、誘惑しないでくださいって……」
頭を撫でられたら、嗚咽が漏れた。
「うぅ……ざみ゛じいよぉ……」
「俺も寂しいです」
ラルフの服を涙で濡らしてしまったけど、それ以上何も言わずに撫で続けてくれた。
──三か月に一回くらいは会えるかな? と思っていたけれど、次にラルフと会えるのが一年後になるなんて、このときの私は知る由もなかったのである。




