03.ハイモア港
途中で四度宿に泊まり、馬車で進んだ五日目の昼過ぎ、車輪の音が土を踏む鈍い響きから、煉瓦を打つ硬い音へ変わった。
五日も馬車に乗り続けて、腰もお尻も限界だったのに、港町へ入ったと分かった途端、私は窓へ飛びついた。
帰ってきました、ハイモア港!
次に家族が領地へ戻るのは秋だと聞いたけど、待てるわけがない。
だからラルフと先に帰ってきた。
思い立ったら即出発! これぞ私。
王都の大通りほど広くはないけど、寂れた町には見えない。
赤茶の屋根が港へ向かって段々に並び、その先には荷が積まれた倉庫と、灰色がかった海を背にした船の帆柱が見える。
市場のほうから届くのは、魚を売る声、荷を運ぶ男たちの声、他領から来た商人らしい聞き慣れない調子の声で、窓越しなのに、あっちもこっちも気になって目が足りない。
二年ぶりの故郷は、王都で私が元気にストーキングしているあいだも、魚を水揚げし、荷を運び、商人を迎えていた。
お母様は手紙で、今年は港にいい魚が多いとか、市場に珍しい香辛料が入ったとか教えてくれたし、兄様も王都と領地を行き来しながら、港や倉庫の仕事を確認していた。
それなのに私は、家族からの手紙を読んでも、ポール様と関係のない話は頭からするする抜け落としていた。
二年間も故郷を放ったらかして、何をしていたのかって? 不審者活動です!
ううっ、改めて考えると情けない。
馬車の窓から身を乗り出しかけたところで、ラルフの声がした。
「お嬢様、落ちますよ」
振り返ると、ラルフは向かいの席で片肘をついていた。
馬車は屋敷へ向かう道へ入ろうとしている。
「落ちないもーん」
「そう言って落ちたことがあるんですけどね」
「えー……あ、じゃあさ、市場に寄ってこうよ」
「何が、『じゃあさ』なんすか? つうか、屋敷へ到着する前にですか。五日も移動したんですから、先に顔を出して休んでください」
「市場を見てからでもいいでしょ?」
市場には魚籠を抱えた人が行き来していて、屋台からは煙が立っていて、活気があって、わくわくする! 素通りなんてもったいない!
「屋敷の者が、お嬢様を迎える準備をして待っています」
「荷物は先に運んでもらえばよくない? ねっ、お願ぁい。二年ぶりなんだもん。市場をひと回りするだけだから!」
体に染みついた我儘女ムーブが止まらない。
「……ひと回りだけですよ。屋敷へは荷物を先に運ばせますから、市場では裾と足元に気をつけてくださいね」
「やったあ!」
ラルフは御者へ行き先の変更を伝え、付き添いの使用人には荷物だけ先に屋敷へ運ぶよう指示した。
市場の入口で馬車を降りると、足元の石畳に水の筋が伸びていた。
魚を運んだあとの水かな?
王都の綺麗な舗装路とは違い、魚箱を担いだ人や荷車が通るたび、道そのものが働いているように見える。
裾を上げて歩かなければならない場所もあるけど、それを嫌だとは思わない。
市場は、馬車の窓越しに眺めたときよりずっと賑やかだ。
木箱に積まれた魚は銀色に光り、赤い殻の海老は籠の中でビッチビチ跳ねている。
近づいた途端に跳び出してきたらどうしようと身構えたけど、海老は魚屋のおじさんのほうが怖いのか、籠から出る気配はない。
貝を売る女の人は客の注文に合わせて包みを作り、その隣では職人が大きな魚を迷いなく捌いている。
船乗りらしい男たちは魚介の煮込みが入った大鍋の前へ並び、焼き魚串の屋台から漂う脂の匂いも混ざっていた。
目は魚へ行くし、鼻は焼き串へ引っ張られるし、大鍋の中身も気になる。
「ラルフ、焼き魚串、食べようよ」
「分かりました」
「ありがと、ママ」
「誰がママですか。ったく」
ラルフは屋台で串を二本頼んだ。私の分には紙を巻き、持ちやすいようにしてくれた。
焼き魚串は熱く、紙越しでも手に熱が伝わった。
皮はパリッとして、身には塩と脂がしっかり乗っている。
王都の皿に盛られる魚料理とは違う。
けれど、市場で立って食べるなら、この荒っぽさも込みで楽しい。
「……美味しいけど、王都の令嬢がこのまま食べるには難しいよね。骨もあるし、脂も落ちるし、服を気にする子は困るかも」
「まあ、令嬢が遊びに来る感じの場所ではないですね」
「だよねえ」
焼き魚串が美味しいのはもちろん、貝串も海老串も美味しい。
だけど、綺麗な服のまま座って休める場所が見当たらない。
ブレンダ姉様と一緒なら、甘いお菓子も欲しくなるだろうし、恋人同士で来た人だって、もうちょっと可愛い店へ入りたいんじゃないかな?
甘いパンやお菓子を売る店はある。でも、窓が小さくて中に何があるのか外からは分かりにくい。
知らない店の扉を開けるのって勇気がいるんだよね。
次に入った土産物屋には、乾物や塩漬け、干した海藻、船乗りが使う紐や釣り針、魚の形をした木彫りが並んでいた。
港で暮らす人には必要な品だし、料理人や商人なら喜ぶものも多いのだろう。
だけど、旅の記念としてブレンダ姉様へ渡したくなる品を探すとなると、私の手は止まってしまう。棚の端には貝殻の飾りもあったけど、貝殻そのものは綺麗なのに、なぜか欲しいとは思えないのだ。
私は、見た途端に可愛いと叫んで、誰かへ見せたくなるお土産が欲しい。
どの道を歩けば海が綺麗に見えるのか、焼き魚串を食べたあとにどこで休めばいいのか、お土産を選ぶならどの店へ行けばいいのか。
二年前まで暮らしていた私でさえ、目についた場所へ行き当たりばったりに飛び込んでいるのだから、初めて来た人はもっと困るんじゃないかな?
こんなに見せたいものがあるのに、見つけ方が分からないなんて、ものすごくもったいない。
誰か、ひと目で分かるように描いてくれればいいのになあ。
前世のカフェでは、同じ季節メニューでも、黒板へ絵を描いたあとに注文が増えることがあった。
苺の赤い断面や、こんがり焼けたパン、クリームを高く盛った飲み物を描くと、お客さんが足を止めてくれたのだ。
美大時代には、街角の建物や道を描く課題もあった。道がどちらへ曲がっているのか、建物がどう並んでいるのか、看板をどこへ置けば目に入るのかを考えながら描いた記憶が、頭の中からぽこぽこ出てくる。
──それなら、私が地図を描けばいいんじゃない?
美味しい串焼き屋さんも、立ち寄りたい土産物屋も、地元民が知る穴場も、絶景スポットも、一枚の紙へ全部描いてしまえばいい。
そんな地図があったら、私は欲しい。
ないのなら、作ればいい。
「私、地図を描きたい!」
「地図ですか? ……唐突ですね」
「だって欲しくなったんだもん。まずは描いて兄様に見せるの。兄様が使えるって言ったら、王都の人にも見てもらえるかもしれないでしょ?」
ラルフは魚を買う人、鍋の前に並ぶ船乗り、赤茶の屋根へ続く坂道へ順に目を向けてから、さっき出てきた土産物屋を振り返る。
「じゃあ、紙と鉛筆と、下に敷く板が必要ですね。今日見ただけで完成させた気にはならないでくださいよ」
「分かってる! 今日は下書き! 明日からまた歩いて描き足すの」
市場の近くの雑貨屋で、紙と鉛筆、それから薄い板を買った。
色を塗る道具は屋敷にもあるけど、そこまで待つなんてできるわけがない。
「お嬢様。市場をひと回りするだけという話でしたよね」
「紙を買うところまでがひと回りで、線を引くところまでが見学だよ?」
「言葉の意味を勝手に増やさないでください。十分だけです」
「……はあい」
市場の端にある石段へ座り、板の上に紙を広げると、ラルフが横に立った。人の流れと荷車の通り道を確かめ、私の座る場所が邪魔にならないかを確認し、荷車が近づくたびに石段の上へ寄るよう声をかけてくれる。
王都で私がポール様を追っていた頃も、ラルフはこうして周囲を気にしていたのかな?
あの頃の私は、行くなと言われるたびに邪魔をされたと腹を立てていた。
だけど、もしかしたらラルフは、私が通行人へぶつかったり、店の前を塞いだりしないように気を配っていたのかもしれない。
「ありがとね、ラルフ」
「どういたしまして」
紙の中央より下へ港を置き、二年前まで暮らしていた頃に覚えた道の形を、鉛筆で大まかに引いていく。
そこへ今日歩いた市場、赤茶の屋根が並ぶ通り、煉瓦の倉庫、焼き魚串の屋台、魚介煮込みの大鍋を書き足した。
宿や土産物屋の場所は覚えているけど、二年のあいだに変わっているかもしれない。
海が一番綺麗に見える場所も書きたいな。
自分の足で歩いて確かめて、ここへ来た人が「この場所へ行ってみたい!」って思えるものを探したい。
さっきまで市場をひと回りできれば満足だったのに、今は町じゅう歩き回りたくてうずうずしちゃう。
線を引くほど、離れていた町が紙の上でつながっていく。
市場を回ったあとにどこへ行きたいか、どの坂道なら港が見えるか、どこへ焼き魚串の絵を描けば食べたくなるか。
考えることが次々に増えて、鉛筆が止まらない。
何これ、ものすごく楽しい!
私は紙の上に、最初の文字と日付を書いた。
『ハイモア港案内図』
今日歩いた場所しか描いていない下書きなのに、名前だけは立派な案内図だ。
でもいいの!
名前を先につけたほうが完成させたくなるんだから。
自分ではなかなか可愛く描けたと思う。
横からのぞき込んだラルフも目を丸くしている。
ねえ、上手いでしょう? もっと驚いて、褒めてくれてもよろしくてよん。
「私、この地図を完成させて、王都から来た令嬢にも、ハイモア港を歩いてみたいって思わせてみせる!」
「高位貴族令息を追っかけ回すより健全な趣味っすね。賛成します」




