21.春から夏の、挙動不審記録
市場へ出向けば、冬のあいだ厚い外套へ埋もれていた人たちの服が軽くなり、魚屋の軒先には春の魚が並ぶ。港へ吹く風も、真冬の頃ほど厳しくない。
養殖型が完成し、四月から、ハイモア焼きは一日に焼く数を四十匹から八十匹へ増やした。
もちろん、完売してる。
春版の『ハイモア港案内図』も刷り上がった。
私はその一枚を机へ広げる。
最初に作ってから何度も直してきた地図にも、春版ができたのである!
「よくできてますよ」
私の後ろから声がして、肩越しにラルフの手が伸びてきた。机へ広げた地図の端を押さえ、道のところを指で示す。
「前より見やすくなりましたね」
「でしょ?」
言いながら振り向いたら、ラルフの顔があった。
近っ!
……いや、近いこと自体は珍しくない。
地図を一緒に見るときなんて、前からこんなものだったし。
でも、今日は落ち着かない。
「お嬢様? 顔、赤くないですか?」
「あ、赤くないよ」
「風邪っすか?」
ラルフが額へ手を伸ばしてきたので、私は椅子ごと後ろへ逃げる。
「な、何っ!?」
「熱を見ようとしたんですけど?」
「ないから! 元気だから!」
前なら気にもしなかった距離なのに……。
こんなふうに、自分でも分からないまま、春はどんどん進んでいった。
◇
さて。
地図とハイモア焼き以外にも、新しく始めたことがある。
市場の近くに、米も牛乳も普段から料理に使っている飯屋がある。
そこの店主へ、前世で食べていた料理のレシピをいくつか渡してみることにしたのだ。
──ドリア、オムライス、コロッケ、カニクリームコロッケ、ナポリタン、クリームシチュー。
なんてったって、前世は食いしん坊なカフェ店員さんだからね!
六枚の紙へ材料と作り方を書き、分かりにくいところには絵を添えて店主へ渡した。
「メニュー名は、全部初めて聞くものですなあ」
店主が六枚を机へ並べる。
「どれも美味しいよ。材料は領で揃うものにしてるんだよ」
前世とまったく同じ味にはならないだろうけど、ハイモア港で作るなら、ハイモア港の味になるよね?
あとは店主さんに任せる!
◇
五月になると、港を歩く人の服から厚手の上着が消え、窓を開ける店が増えた。
そんなある日、王都の雑誌社がハイモア港へ取材に来た。
各領地の名物料理を紹介する小さなコーナーへ、ハイモア港を載せたいらしい。
冬灯祭の頃から王都へ持ち帰られた案内図が人づてに広がり、ハイモア焼きの話も届いたのだという。
話を聞いた私は、最初こそ「取材!?」と食いついた。
けれど、何時から売っているのか、誰が費用を負担しているのか、一日に何匹作れるのか、今後ほかの町へ売る予定はあるのかと聞かれ始めたところで、兄様へ助けを求めた。
「兄様ぁ、お願ぁい」
「何をだ」
「え~……ここから先の諸々?」
私は取材に来た人の前から、すいっと椅子をずらした。
「絵と味ならいっぱい話せるよ? でも、取引とか数とか、間違えたら困るでしょう?」
兄様が眉間へ指を当てる。
正しい判断をしたはずなのに、なぜ褒められる気配がないのでしょうか。
結局、領主家として答える部分は兄様、販売や取引についてはゴードンが引き受け、私は魚の形をどう考えたかとか、どんな甘い中身が合うと思ったかとか、そういう質問にだけ答えた。
兄様とブレンダ姉様の結婚式の準備も、年末へ向けて進んでいた。
◇
六月に入った頃、王都から大きな封筒が届いた。雑誌社からである。
私が封を開ける前に、ブレンダ姉様が隣へ座り、メイドたちも仕事の邪魔にならない位置に集まってきた。
取材記事が載った雑誌が届く日を、皆で待っていたのだ。
「開けるよ?」
「ええ」
紐を解き、中から新しい雑誌を取り出すと、紙の匂いがした。
雑誌をめくると、王都で流行している服や菓子、劇場、新しくできた店の記事が並び、その中ほどに各領地の名物料理を紹介するページがあった。
「あ」
私はページへ顔を寄せた。
魚の形をしたハイモア焼きの絵と、ハイモア港の名前が載っている。
大きな特集ではない。ページの一角に収まる小さな記事だ。
でも、王都で売られている雑誌の中に、ハイモア港の名前がある。
「姉様、見て! ここ! ハイモア焼き!」
「本当ね、すごいわ」
メイドの一人が私の肩越しから記事を読み、黄色い悲鳴を上げる。別の子が「王都の人も食べたがるでしょうね!」と嬉しそうに言う。
私は記事の横へ付いた短いコメントへ目を移した。
名前を見た途端、声が出た。
「わあ! ハンプステン伯爵夫人のコメントついてる! 『魚の形が愛らしく、温かいうちに食べてみたい』だって!」
流行といえば、ハンプステン伯爵夫人。
王都で人気になる色も、菓子も、髪飾りも、このご夫人が褒めたと聞けば翌月には似た品が増える。それくらい名前を知られた人である。
私は雑誌を抱えたまま立ち上がった。
「ラルフにも見せてくる!」
廊下へ飛び出しかけたところで、ブレンダ姉様に「走らないのよ」と声をかけられた。
はい。十八歳ですからね。
廊下は走りません。早歩きですよ!
ラルフは玄関広間で、届いた荷物を使用人と確認していた。
「ラルフー! 見て、見てー!」
私は雑誌を開いたまま早足で近づき、ラルフの腕へくっつくようにしてページを見せた。
「ハンプステン伯爵夫人がね──」
そこまで言って、自分がラルフの腕へ体を寄せていることに気づいて、私はぱっと離れた。
「どうしました?」
「べ、別に、そ、それより見て! ハンプステン伯爵夫人!」
私は雑誌をラルフの顔の前へ突き出した。
「近いっす。読めません」
「あ、ごめん」
ラルフは雑誌を受け取り、記事へ目を通した。
「よかったですね、お嬢様」
「うん!」
「最初の地図から考えたら、ずいぶん遠くに来ましたね」
言われて、私は笑った。
ハイモア港の地図を描こうと思ったのが始まりだった。
それが今では、魚の形のお菓子まで王都の雑誌に載っている。
◇
六月の終わりには日が長くなり、夕食の時間になっても窓の外が明るい日が増えた。
飯屋へ渡した六品のレシピも、店主が厨房で試していると報告を受けている。
ハイモア焼きは一日八十匹を焼くのがすっかり普通になり、雑誌を見たという旅人が売っている場所を尋ねることも珍しくない。
町の変化は嬉しい。
でも、最近の私には別の問題がある。
──それは、ラルフのこと。
ある日は市場で人を避けるため、いつものように手首を掴まれた。
前ならそのまま引かれて歩いたのに、今日は掴まれたところばかり気になって、魚屋のおじさんに「お嬢様、鯵はいかがです」と声をかけられるまで、何を見に来たのか忘れた。
「お嬢様、さっきからぼうっとしてません? 暑いなら馬車へ戻りますか」
「してない。暑くない」
別の日には、庭で紙を広げていたら髪が頬へかかり、ラルフがいつものように指で払った。
「邪魔でしょう?」
そのまま耳へ髪を掛けられ、私は持っていた鉛筆を紙へ落とした。
「んひぃ」
「……お嬢様?」
「なんでもない!!」
ラルフは本気で不思議そうだ。
こっちは毎回、自分でも説明できないくらい困っているのに、向こうは「風邪か」「暑いか」「疲れたか」の三択くらいで考えてるのがムカつく。
むきー!
◇
七月に入ると、海の色は春と違って見えた。
朝から日差しが強く、港には夏向けの薄い布を積んだ船が入り、市場では冷たい果実水を売る店が出始める。
そんなとある午後、兄様から執務室へ呼ばれた。
机には数通の手紙が置かれ、兄様の向かいにはゴードンが座っている。
「なあに?」
「ハイモア港について、新しい話が来ている」
兄様が一通の手紙を私の前へ置いた。
「ストーン公爵家が所有している商会からだ。お前にも先に知らせておこうと思ってな」
聞いた途端、頭の中へ王都の通りが蘇った。
ストーン公爵家の門。その近くの街路樹。ポール様が出てくる時間を待っていた角。馬車を追いかけた道。手紙を送り、贈り物を送り、予定を調べ、二年間せっせと積み上げた不審者活動の数々──うわああああ!!!
忘れてはいない。忘れられるわけがない。思い出すたびに、自分で自分の肩を掴んで王都から引きずって帰りたくなる。
「……私、あの家の周りを二年間うろうろしてた女だよ? その家と関係のある商会と、商売の話なんてしていいの?」
ゴードンが机の手紙を指した。
「商会が聞いてきてるのは、港の利用についてです。新しい寄港地として使えるか、荷を置く倉庫を借りられるか、それから、この領地の商品を定期的に扱えるか。まずはこっちへ来て、条件を聞きたいって話ですね」
う~ん、そちらさんがいいならいい……のかな?
でも、私はポール様関係の人に会うのは遠慮したいかも。
「私は立ち会わなくてもいい?」
兄様が眉を顰める。
「なぜだ? 謝罪は書面で済んでいる。先方も受け取っている。今回話を持ってきたのは商会のほうだ」
「分かってるけどぉ……気まずいもん。兄様とゴードンに任せたい……だめ?」
くらえ、必殺⭐︎うるうる上目遣い!
「まったく、仕方ないな」
「わあい」
私は椅子の背へ体を預けた。
ストーン公爵家と関係のある商会から来た仕事に、私は関係ない。
これでよし!
このときは、そう思っていた。
◇
数日後。
朝食を終えて部屋へ戻ろうとしていた私を、廊下で兄様が呼び止めた。
「ジャクリーン」
「なあに?」
「先日の商会から、訪問日の返事が来たぞ」
「ふうん、決まったんだね」
「……先方から来る者の名も、書かれているんだが……」
歯切れの悪い言葉を不思議に思いながら、私は兄様が持っていた紙へ目を落とした。
──ポール・ストーン。
「……どうしてポール様が来るの?」




