第7話
翌朝、カナミはいつもより早く家を出た。
今日やるべきことは決まっている。
契約を正式に、アルト本人と結ぶ事だ。
文字だけ見れば簡単そうに見える。
「はあ……」
小さくため息を吐いて、カナミはギルドの扉を押した。
紙と革と埃と、人の熱気が混ざった匂いの中を、カナミは迷わず端の窓口へ向かった。書類の束を捌く手つきは相変わらず速い。
「おはようございます」
「おはよう。早いわね」
軽く挨拶をすると、リゼは机の端から一枚の書類を見せてくる。今回の依頼の正式な契約書だ。依頼を出した側、依頼を受ける側の署名を書く欄がある。そして、今回の再起依頼のような特殊な場合は、支援を受ける本人の署名も必要だ。
リゼは書類の説明を改めて行う。
「再起支援の最中は生活費が支払われるわ。その代わり、毎日進捗報告を入れること。さらに、対象の生活改善に必要な最低限の支援費は申請すれば可能よ。そして、成功報酬はアルトがどこまで立ち直ったかによって決まる。」
「はい」
「今日はその内容を本人にも明示して、契約書にサインを貰ってきてほしい。後、逃げられた時の扱いも一応書いてあるから、先に目を通しておいて」
紙を受け取り、カナミはざっと目を走らせる。
必要なことは一通り入っていた。無駄がない。こういうところはやっぱりリゼの仕事だなと思う。
「これなら大丈夫そうです」
「そう。じゃあ、あとは本人にサインをもらってきなさい」
「それがいちばんの難所なんですけど」
「知ってる」
苦笑いをしながら、契約書を胸元へしまう。
「そういえば、一つ疑問なのですが、なんでこんなにお金をかけてまで、あの人を再起させる必要があるのですか?」
この依頼だって費用がかかっている。費用は国か、ギルドが負担しているはずだ。昨日見た印象だと、そこまで必要なのかと疑問に思っていた。
「どうも魔族との小競り合いが多くなっていて、人手が必要らしいわ。一応、あの人は有望株だったらしいから」
「へえ、あの人が」
昨日のアルトを見た自分としては、にわかに信じられない。
それに、魔族が攻めてきて危険に晒されるのは真っ平ごめんだ。なんとしてでも、再起させなければと思う。
「じゃあ、行ってきます」
「ええ。書類を破られない程度に頑張って」
「破るんですか、あの人」
「やりかねない、くらいには思っておきなさい」
「うわあ……」
カナミは大きなため息をつきながらギルドを出て、例の酒場へと向かった。
しばらく歩き酒場へ到着すると、現実が昨日よりひどい姿でそこにいた。
「……なんで床で寝てるんですか」
カナミは思わず真顔で言った。
酒場の隅、昨日と同じ席の近くにアルトがいた。しかも、長椅子から半分ずり落ちた格好で床に寄りかかっていた。
「おはようございます」
「……帰れ」
カナミは額を押さえた。
「なんで昨日よりひどくなってるんですか?」
「気のせいだ」
「床で寝ながら言われても、説得力ないんですけど」
「お前、朝からうるさいな……」
「うるさくもなりますよ!」
つい声が大きくなる。
短く、いつもの音声が頭の内側に響く。
『声量を下げてください』
カナミはぴたりと黙った。
言いたい言葉を飲み込み、深呼吸する。
カナミは膝を折り、アルトと目線を合わせる高さまでしゃがみ込んだ。
「アルトさん」
「……」
「契約の話をしに来ました」
「しない」
「します」
「お前、昨日から話を聞かないな」
「生活がかかってるので」
「知らない」
「私は命がけなんです」
きっぱり返すと、アルトがようやく薄く目を開けた。青灰の瞳は眠たげで、不機嫌で、それでも昨日よりほんの少しだけこちらを見ている。
「成功報酬の他に、私には生活費が出るのです」
「……は?」
「なので、あなたが契約しないと困ります」
「最初に言うこと、それか?」
「大事なことです」
「最低だな」
「知ってます」
アルトは眉間に皺を寄せたまま、じっとカナミを見る。
「普通、もう少し取り繕うだろ」
「取り繕ってもあなたには意味が無さそうなので」
「可愛げがない」
「可愛げで弟妹は養えません」
「……」
その言い方が、また少しだけ何かを引っかけたらしい。
アルトの睫毛が、ほんのわずかに揺れる。
カナミは契約書を広げた。
「まず、私はあなたの生活再建の支援を担当します」
「嫌だ」
「却下は後で受け付けます」
「聞く気ないだろ」
「ありますよ」
女主人が奥で笑いを噛み殺している気配がする。
たぶん面白がっている。こっちはそれどころではないと言うのに。
「毎日の進捗報告あり。生活改善に必要な最低限の経費は申請可能」
「……」
「活動目標は、酒量制限、食事制限、衛生管理、仕事の再開、借金の整理――」
「多い」
「多いですね」
「なんでそんな他人に管理されなきゃいけない」
「あなたが情けないからです」
「……」
アルトが露骨に嫌そうな顔をした。
その顔が、ちょっとだけ綺麗なのが腹立たしい。これで見た目まで残念なら、もっと容赦なく切り捨てられるのに。
「サインしてください」
「しない」
「してください」
「嫌だ」
「子どもですか」
「お前にだけは言われたくない」
カナミは笑顔のまま拳を握りしめた。
さすがに苛立ちが顔に出たのか、アルトが少しだけ目を細める。
「……怒ってるのか?」
「怒ってません」
「怒ってる顔だ」
「怒りそうなだけです」
「ほぼ怒ってるだろ」
そこで初めて、アルトの口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑った、というほどではない。
けれど、昨日より人間らしい表情だった。
「なんで、そこまでして関わる」
「お金のためです」
「即答するな」
「嘘ついても仕方ないでしょう」
「……そういうとこ、本当に可愛くないな」
なのに、不思議とその声は少しだけやわらかかった。
カナミは瞬きをひとつしてから、契約書の端を指で叩く。
「可愛くなくてもいいです。代わりに役に立つので」
「自分で言うか、それ」
「言います」
数秒、視線が絡む。
それから、アルトは面倒そうに息を吐いた。
「……貸せ」
「え?」
「紙」
「サインするんですか?」
「気が変わる前に寄越せ」
カナミはすぐにペンを渡した。そして、名前欄を指し示すために身を寄せる。
その瞬間、肩が触れそうなくらい距離が近づいた。
アルトの手が、ほんの少しだけ止まる。
「……近い」
「文字が汚いと後で困るので」
「色気のない言い方だな」
「契約書に色気は不要です」
そう言うと、アルトはなぜか少しだけ黙り込んだあと、名前を書いた。
アルト・フォン・ブラウニヒ。
癖はあるが、思ったよりきれいな字だった。騎士らしい、芯の通った筆跡だ。
「綺麗に書けるじゃないですか」
「馬鹿にしてる?」
「少しだけ」
「お前、ほんと……」
最後まで言わず、アルトはペンを返してくる。
カナミは契約書を丁寧に畳み、胸元へしまった。
これで一歩目は前進だ。
少なくとも日当は発生する。そこは大きい。
【好感度:上昇】
【契約締結:確認】
【日当支給条件:達成】
文字が淡く浮かんで、すぐ消える。
「では、今日の予定ですが」
「もう始めるのか?」
「あります。まず顔を洗ってください」
「は?」
「あと、水を飲んでください」
「命令するな」
「管理です」
アルトは露骨に嫌そうな顔をする。
カナミはその顔を見て、ふっと笑った。
「とりあえず今日は、死なない程度に人間らしくしてもらいます」
「雑な目標だな」
「初日なので」
アルトは長い睫毛を伏せ、諦めたみたいに息を吐き、素直に水を飲む。
――面倒だけど、やれるかもしれない。
しかし、カナミのその希望は、一刻もしないうちに崩れるのであった。




