第6話
頭のすぐ内側で、無機質な声が響いた。
カナミは驚いたように周りを確認する。しかし、自分の近くには誰もいない。
「い、今の声は一体……」
しばらく、その近くで様子を見てみるが、変な声どころか、光る文字すら現れない。
カナミは、不安を振り払うように頭を振り、依頼書を見つめなおした。
「気のせい? それにしても、元騎士か……」
カナミは小さくつぶやいた。
騎士という響きはいい。格があるし、国からの評価もされるかもしれない。そして、うまく立て直せば、報奨金や後援金など、目に見える利益が発生しやすそうだ。
ただし、問題は元がついていることだった。
元有能、元名家、元優等生。そういう肩書きを持つ人間は、大抵こじらせている。しかも今回はリゼがわざわざ《《面倒》》と断言していた。あの人がそう言うのだから、本当に面倒なのだろう。
そんな事を考えて歩いているうちに、目的の酒場が見えてきた。
王都の端にある、古びた二階建ての店だった。昼間から営業しているらしく、半開きの扉の向こうから酒と焼いた肉と、ほんの少しだけ古い木の匂いが流れ出してくる。
カナミは扉の前で一度だけ姿勢を整える。
安物の上着の裾を直し、ベルトの位置を確認して、にこりと笑う練習をする。ほどほどに親しみやすく、そして抜け目がないように……
「よし」
小さく言って、扉を押した。
酒場の中は思ったより明るかった。窓から斜めに差し込む昼の光が、古びたテーブルの上をぼんやり照らしている。昼食をとっている客がいて、カウンターでは店主らしい女が皿を洗っていた。視線を巡らせてすぐ、カナミは目的の人物がどこにいるのかわかった。
「……あれか」
店のいちばん端の席に、肩あたりまで伸びた銀灰色の髪を、無造作に垂らした女がいた。長身で、座っていても体の線がきれいなのがわかる。くたびれた服を着ていても、元の仕立ての良さと本人の骨格の良さが隠しきれない。伏せた睫毛は長く、横顔だけ見れば、どこか近寄りがたいくらい整っていた。
美人だ。
それが第一印象だった。
次の瞬間、その印象は盛大に上書きされた。
「だから待てって言ってるだろ。今は持ってない」
「昨日も同じこと言ってたじゃないの」
「じゃあ明日」
「その次はなんて言う気?」
「知らん」
「知らんで済むなら私はいらないのよ!」
机を挟んで、いかにも気の強そうな女が腕を組んで立っていた。借金取りだろう。険しい顔で詰め寄られている当の本人――おそらくアルトは、片肘をついたまま面倒そうに顔をしかめている。反省の色は薄い。
しかもその手元には、昼間から空けたらしいグラスがある。
「うわ、だめだこの人」
カナミは小さくつぶやいた。
『対象の価値は高水準です』
いきなり無機質な声が喋りかけてくる。カナミは驚く声を抑えながら小声でつぶやく。
「いきなり喋らないで……それにどこを見てそう判断したの?」
『顔面資産、経歴資産、再起報酬の三点です』
頭の中の声に気を取られていると、借金取りの女がさらに声を荒げる。
「今日払えないなら、せめて仕事でも受けなさいよ。騎士崩れでも荷運びくらいはできるでしょ!」
「……崩れって言うな」
「なら崩れてないところ見せなさいよ」
アルトの眉がぴくりと動く。けれど、それだけだった。怒鳴り返すでもなく、立ち上がるでもなく、ただグラスに残った酒をあおろうとする。
その瞬間、カナミは少しだけ顔をしかめた。
初手から労力が重い。これは相当面倒な部類かもしれない。
でも、ここで引き返したら時間の無駄になる。カナミは覚悟を決めて、にこやかな顔を作って二人に近づいた。
「お取込みの中、失礼します。少しいいですか?」
借金取りの女が振り向く。アルトも、怪訝そうな目でこちらを見た。
青灰色の目だった。くたびれているのに、その色だけは妙に澄んで見えて、一瞬だけカナミは息を止める。
その一瞬を、向こうも見たらしい。
アルトの視線がほんの少しだけ止まった。
だがすぐ、面倒そうに目を細める。
「誰だ」
「今日からあなたに関わる予定の、善良で勤勉な一般市民です」
「胡散臭い自己紹介だな」
「褒め言葉ありがとうございます」
「褒めてない」
反射で返されたその言い方に、カナミは内心でむっとする。
感じが悪い。というか、この短いやりとりの時点ですでに少し腹が立つ。
『苛立ちの表出を控えてください』
「いま私の気持ち、全部見えてる?」
『怒声は非効率です』
「ほんとにめんどくさい……!」
声に出していないつもりが、少しだけ外へ漏れたらしい。借金取りの女が眉をひそめる。
「なに、独り言?」
「最近ちょっと、多いんです」
「大丈夫?」
「ダメかもしれないですね」
頭のおかしい返答に、借金取りの女が少しだけ毒気を抜かれた顔になる。その隙に、カナミは依頼票を取り出した。
「ギルドから来ました。再起支援の案件です」
「はあ?」
嫌そうな声を出したのはアルトだった。
「頼んでない」
「ギルドはそう言ってませんでした」
「誰かが勝手にやった事だ」
「それはお気の毒ですね」
「お前、本当に思ってるか?」
借金取りの女が、納得したような顔をする。
「もしかして、あんたが噂の担当?」
「噂ってどういう意味ですか?」
「誰もやりたがらない面倒案件を引き受けた、物好きの若い娘がいるって噂」
「やっぱり面倒なんですね」
「さっきの通りよ」
借金取りの女は呆れたように言うと、アルトは椅子に深く座ったまま、露骨にカナミから目を逸らす。店の奥から見ている女主人も、かわいそうにといった顔をしていた。
カナミは依頼票を畳み、アルトの正面に立つ。
「とりあえず、少し話をしましょう」
「嫌だ」
「どうしてですか」
「お前みたいなのに世話される筋合いがない」
「借金があるんですよね」
「……」
黙った。
カナミはここぞとばかりに続ける。
「仕事をしてなくて、だけど、お酒は飲む。とてもこの話を蹴るほどの余裕があるように見えません」
「お前……」
「はい」
「性格悪いな」
「あなたには言われたくないです」
一瞬、店の空気が止まった。
借金取りの女が吹き出しそうな顔をして、慌てて咳払いする。
カナミははっとした顔をする。つい本音が出てしまった。
『挑発応答は推奨されません』
「遅い……」
アルトがじろりと睨んでくる。その目つきは鋭いのに、なぜか一瞬だけ、その奥に別の感情が混じった気がした。
怒りではない。戸惑いに近いような、別の何か。
けれど、こちらが考えるより早く、アルトは視線を逸らしてしまう。
「……帰れ」
「それは無理です」
「なんで」
「高額案件だからです」
「正直だな」
「生きるためなので」
カナミは肩をすくめた。
すると、アルトの指先がわずかに止まる。
その一言に、何が引っかかったのかはわからない。ただ、向こうの空気がほんの少しだけ変わった。見間違いかと思うくらいの、小さな揺れだった。
カナミはその隙を逃さず続ける。
「それに、昼間からそんなふうに飲んでると、みっともないですよ」
「……っ」
今度こそ、はっきりとアルトが黙った。
借金取りの女が目を丸くし、女主人も皿を拭く手を止める。
カナミも、自分で少し驚いた。
たしかに、そう言うのが最適だという感覚はあった。けれど、思っていた以上に深く刺さったらしい。アルトの横顔が、さっきまでの不機嫌とは違う種類の硬さを帯びている。
青灰の目が、ほんの一瞬だけこちらを見る。
その眼差しは、怒りより先に、どこかひどく遠いものを見た時のようなものを含んでいた。
カナミはそこを見逃さない。
「じゃあ、今日は名前だけでも確認しましょうか。私はカナミです」
「聞いてない」
「でも覚えておいた方が、今後便利です」
「今後がある前提で話すな」
「ありますよ。私が諦めないので」
その様子を見ていた借金取りの女が茶化すように言う。
「この子。あんたより強いんじゃない?」
「笑い事じゃない」
アルトが心底嫌そうに言う。けれど、その声にはさっきまでの投げやりさとは別の色が混じっていた。完全に無関心なら、もっと適当にあしらうはずだ。苛立っているということは、こちらの言葉が届いている。
つまり、まだ見込みがある。
【対象:アルト】
【接触継続:有効】
【継続接点:確保可能】
『深い拒絶では無さそうです』
カナミは胸の中で頷いた。
借金取りの女は最後にアルトを睨んでから、また来るからなと言い残して去っていった。酒場の空気が少しだけ緩む。
そのあとに残ったのは、机を挟んだカナミとアルト、それに様子を窺う女主人だけだった。
女主人がカウンター越しに声を飛ばす。
「嬢ちゃん、その人に期待するなら覚悟しときな」
「依頼を受ける時点で少しは」
「それじゃ、まだ甘いよ」
それは嫌な忠告だった。
アルトはそれを聞いて、苦々しそうに眉を寄せる。
「勝手に話を進めるな。帰れ」
「じゃあ今日は帰ります」
「……は?」
予想外だったのか、アルトがようやく正面からカナミを見た。
カナミはにっこり笑う。
「初日はこれで十分です。無理に詰めても効率が悪いので」
「効率……」
「では、また来ます」
「来なくていい」
今日はここまでで十分だ。最初から押しすぎると、だいたい失敗する。小さく刺して、継続的に接点を作る。それが効率的だ。
「明日もちゃんとここにいてくださいよ」
「話を聞け」
背中に飛んでくる声を受けながら、カナミは酒場を後にした。




