第8話
朝の光が差し込む酒場の二階、女主人が貸してくれた小部屋の前で、カナミは両手を腰に当てていた。
机の上には紙束が置いてある。そこには、カナミが作った簡易の生活管理表がある。起床、洗顔、食事、軽い運動、外出など。わかりやすく並べてあるのに、文字が読めないのかと思うぐらい実行されていない。
その証拠に、今日の予定の外出の時間が近づいているにもかかわらず、目の前では、アルトが長椅子の上で毛布にくるまっている。銀灰色の髪は少し乱れ、長い脚が半分はみ出している。
「起きてください」
「嫌だ」
「お腹空いてません?」
「空いてない」
「嘘ですね」
「なんで分かる」
「さっきお腹鳴ってました」
「……」
カナミが呆れるように言うと、アルトはそこで黙った。
ここ数日続けてやっと分かった事がある。
この天邪鬼に普通の対応は効率が悪い。
なので、スキルからも提示された案に変更しようと考えている。
「……よし」
カナミは小さく頷いた。
必要なのは割り切りだ。そう、心を無にすること。
もうこれは大人の女ではない。元騎士でもない。
赤ちゃんだと思えばいい。
大きくて、文句の多い赤ちゃんだ。
「なにその顔」
「いま、役に入りました」
「どういうことだ?」
アルトが怪訝そうに眉を寄せる。
カナミは母性溢れる笑顔で、机の上に置いていた朝食を手に取った。女主人に頼んでおいた薄いスープと、柔らかいパンと煮た芋。胃に優しく、寝起きでも食べやすい内容だ。
そしてスプーンでひとさじすくい、アルトの前へ差し出す。
「はい、アルトさん、あーんしてください」
「……は?」
「朝ごはんですよ」
「見れば分かる」
「じゃあ、口を大きく開けてください」
「は?」
アルトが固まった。
青灰色の目が、信じられないものを見るようにこちらを見ている。
カナミは笑顔のままもう一度スプーンを差し出した。
「はい、あーん」
「待て」
「どうしました?」
「なんでそうなる」
「自分で食べないなら、こうするしかないでしょう」
「考えが雑すぎるだろ」
「効率重視です」
アルトの耳が、じわっと赤くなる。
その反応に、カナミは少しだけ内心で首を傾げた。
嫌がるのは分かる。でも、ただ嫌そうというより、妙に落ち着かない顔をしている。
「早くしてください。冷めますよ」
「食べる。自分で食べるから、その顔やめろ」
「どの顔ですか?」
「その赤子を見るような優しい顔だ!」
「だって赤ちゃんですし……」
「余計に質が悪い!」
アルトは勢いよく身を起こし、スプーンを奪うように取る。
カナミはその様子を見て、胸の中で小さく頷く。
ほら、起きた。やっぱりこの方向だ。
「……お前、こういうの慣れているのか?」
「まあ、慣れていますね(弟妹で)」
「……」
アルトは何か言いたげな顔をしながら、スープを口に運ぶ。
朝食を片付けたあと、カナミは次の課題へ移る。
「では次です」
「まだあるのか」
「もちろん。それでは、お風呂に入ってください」
「面倒だ」
「面倒なら私が入れてあげます」
「なんでそうなる!?」
アルトは顔を赤くして、驚きながら指をさす。
カナミは不思議そうに首を傾げる。
「だって、自分で出来ないなら、私がするしかないじゃないですか」
「本気か!?」
「はい」
カナミはじりじりと近づいていく。
アルトはたまらず立ち上がり、カナミから一歩距離を取る。顔だけでなく首筋まで赤い。そこまで慌てる意味が分からない。
「そこまで嫌ですか?」
「嫌とかそういう問題じゃない!」
「清潔は大事ですよ?」
「……はあ、分かった。入るから一人にしてくれ」
アルトは肩を落としながら風呂場へと向かった。
けれどその落とし方は、最初の頃の投げやりな諦めとは少し違う。単純に観念したような、妙に人間らしい仕草だった。
【対象:アルト】
【好感度:上昇傾向】
『対象が態度を改めています』
カナミはアルトの変化と文字を見て、少しだけ目を細める。
これでいいのだ。
大人扱いして投げるより、この人には少し強引なくらいの方が合っているのかもしれない。
しばらくの後、湯上がりのアルトが、濡れた髪を拭きながら部屋に戻ってきた。
その姿は、朝よりずっとましだった。髪は少ししっとりして、肌の色も寝起きより明るい。少し見惚れるくらいには綺麗だった。
「これで外へ行けそうですね」
「外へ行くのか」
「行きますよ。せっかくここまで整えたので」
「整えたって……」
最後まで文句を言い切る前に、アルトはふと窓の外へ目を向けた。
昼の光が差し込んでいる。
王都の通りは明るく、人の声が下から小さく届く。
以前ならそれだけで顔をしかめたはずだ。
でも今日は、そこまで露骨な拒否がない。
カナミは、その一瞬を逃さず言った。
「少しだけでいいんです」
「……」
「買い出しの手伝いで、近くを歩くだけでも」
アルトはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった」
「ほんとですか? じゃあ行きましょう」
「……ああ」
アルトはぶっきらぼうに返しながらも、ちゃんと扉の方へ歩き出した。
カナミは、昨日まであんなに苦労していたのが嘘のように事が運び、上機嫌で付いていく。
外に出ると、思っていたより太陽が上の方に上がっていた。
石畳に陽が反射してとても眩しい。酒場の薄暗さから急に出たせいか、アルトは少しだけ目を細めた。
「日差し、眩しいですね」
「別に……」
女主人に頼まれた買い出しは、パンと乾燥肉と、酒場で使う粗塩。それだけならカナミ一人でも十分だったが、アルトを連れ出す口実としてはちょうどよかった。
最初のうちは案の定、歩幅が合わないだの、通りがうるさいだの、いちいち文句が多かった。だが、通りを二つ三つ曲がる頃には、少しずつ黙る時間が増えてくる。
カナミはその変化を横目で見ながら、露店の品を見比べていた。価格、量、鮮度。条件のいい店から順に回る。いつものことだ。
「……慣れているんだな」
「どこの店が安いか、ある程度把握してるので」
「そんなに覚えるものなのか?」
「覚えますよ。生きるのに必要ですから」
「……」
アルトが、ほんの少しだけ視線を落とした。
またあの顔だとカナミは思った。
何かに触れかけて、でも自分でもその正体が分からないみたいな、心の揺れ。
カナミはその表情を消すように切り出す。
「はい、これ持ってください」
「急だな」
「荷物係ですから」
「いつ決まった」
「さっきです」
「勝手すぎる」
面倒くさそうに言いながらも、アルトは紙袋を受け取った。
その時、通りの向こうから声がした。
「アルト?」
振り向いた先にいたのは、背の高い女だった。栗色の髪を後ろでひとつに結び、簡素な外套の下に動きやすそうな服を着ている。腰には剣を携え、立ち方だけで、訓練を積んだ人間だと分かる。
その女はまっすぐアルトを見ていた。
次に、その隣のカナミを見る。
その瞬間。
女の目が、わずかに見開かれた。
空気が、変わったような気がした。
「……あなた」
その一言は、カナミへ向けられていた。
敵意というほどではない。
けれど、警戒と戸惑いと、なにか言葉にしづらい感情が混じっている。
アルトが露骨に顔をしかめた。
「……レオナ」
「久しぶり、でいいのかしらね」
女――レオナはそう言ってから、視線をもう一度カナミへ戻した。
じっと見ている。まるで、何かを確かめるみたいに。
カナミは訳が分からず、ひとまず営業用の笑みを浮かべた。
「ええと、知り合いですか?」
「元同僚よ」
答えたのはレオナだった。
「騎士団にいた頃の」
「……そうですか」
アルトは何も言わない。ただ、さっきまでよりはっきりと不機嫌になっていた。
カナミはその二人を交互に見た。
元同僚。つまり、アルトがこうなる前を知っている人間だ。
やがて、レオナは小さく息を呑んで言った。
「……似てる」
「レオナ」
アルトの声が、さっきより低く落ちた。
ぴしゃりと止めるような響きだった。
レオナはそこで口を閉ざす。けれど目だけは、まだカナミから逸らさない。
「誰に、ですか?」
カナミが恐る恐る聞くと、レオナは一瞬だけ迷うように眉を寄せた。
アルトは目を閉じ、嫌そうな態度をとる。
その空気に、さすがのカナミでもすぐ分かった。
たぶん、あまり軽い話ではない。
「……今はやめておくわ」
レオナが言った声は、さっきまでより少しだけやわらかかった。
「あなた、名前は?」
「カナミです」
「……そう」
カナミは少しだけ背筋に違和感を覚える。
自分の知らないところで、なにかを見られているような感じ。
アルトが苛立ったように踵を返した。
「行くぞ」
「え? いいんですか?」
レオナは去っていこうとする背中を見て、小さく息を吐いた。
そして、カナミに近づき、小さくつぶやく。
「あなたは、少しは知っておいた方がいいかもしれない」
カナミは目を瞬いた。
「何をですか」
「あの人のことを」
「レオナ」
今度のアルトの声には、はっきりとした拒絶があった。
レオナはそれ以上言わなかった。
ただ、困ったような、痛ましそうな、複雑な顔でアルトを見ている。
「……昔は、あんなじゃなかったのよ」
それだけ言って、彼女は視線を落とした。
カナミは何も返せない。
彼女の言葉が、胸の中に小さく引っかかった。
「……早く行くぞ」
「はい」
歩き出す背中を追いながら、カナミは思う。
ここまで露骨に何かある顔をされると、さすがに気になる。
『追及は避けてください』
今は追わない方がいい。それは、カナミも直感でそう感じていた。
隣を歩く銀灰色の髪が、陽の下で淡く光る。
その横顔は、さっきまでの面倒くささとは別の静けさを纏っていた。




