第4話
翌朝、カナミは少し寝不足になっていた。
理由は簡単だ。
例の文字が気になって仕方ない。
空中に浮かぶ変な表示。しかも自分にしか見えていないらしい。あまりにも都合がよくて、不気味な代物。
「お姉ちゃん、また怖い顔してる」
「お金のこと考えてる顔だよ」
「昨日も同じこと言ってる」
「じゃあ今日は、ちょっと変なこと考えてる」
「余計こわいよ」
朝の薄いスープをすすりながら、弟に真顔で言われた。
カナミはパンをちぎりつつ、小さくため息をつく。たしかに怖いかもしれない。得体の知れない能力で、今後の稼ぎ方について考えているのだから。
「でもお姉ちゃんは、今のところ人の道を外れてないよ」
「今のところって……これから外れる予定あるの?」
「どうだろうね」
「お姉ちゃんが言うと冗談に聞こえない……」
妹の怯えた声に、カナミは少しだけ笑った。
こうして会話を回せているなら、大丈夫だ。少なくとも、弟妹の前で取り乱してはいない。
ただ、確かめたいことはあった。
昨日のあれが本当に能力だとして、何ができるのか。どこまで使えるのか。
「今日はちょっと早めに出るね」
「ギルド?」
「うん。あと、少し確認」
「確認って?」
「神様の機嫌」
よくわからない答えに、弟妹は揃って首をかしげた。
それでいい。自分でもまだよくわかっていないのだ。
家を出ると、朝の空気は昨日より少し柔らかかった。市場の喧騒も、道の匂いも、相変わらず雑多だ。何か特別なことが起きた翌日だというのに、世界は拍子抜けするほど普段通りだった。
カナミはギルドへ向かった。
昨日の件で、リゼと一言くらいは話しておきたかったのもある。親戚の薬袋を取り返したのだから、報告などがあるかもしれない。なければないでいいが、継続接点とやらが本当に生まれているのなら、確認しておく価値はある。
ギルドに入ると、昨日と同じく喧騒が迎えてきた。
端の窓口にいるリゼを見つけて近づくと、向こうもこちらに気づいたらしい。書類から顔を上げた瞬間、その目がほんの少しだけ丸くなる。
「……待ってたわ」
「どうかしたのですか?」
そこで一拍置いて、リゼは周囲を見た。それから、少しだけ声を落とす。
「昨日はありがとうね」
「やっぱり親戚だったんですね」
「ええ。従妹と、その娘だったの」
リゼは、窓口の下から小さな包みを取り出した。
「これ、従妹から。謝礼だって」
「え、いいんですか?」
「受け取りなさい。断られると私も向こうも困るから」
「じゃあ遠慮なく」
包みの中には、銅貨5枚と、小さな焼き菓子が入っていた。
悪くない。
昨日の銅貨と合わせれば、十分黒字だ。しかも、リゼとの信用も出来た。結果だけ見れば上出来である。
「その後、ミナちゃんは大丈夫そうですか?」
「それがね……あの子、もともと身体が強い子じゃなくて。そこに昨日のことでしょ。薬を奪われかけて、通りであんな騒ぎに巻き込まれて……怯えてしまって、眠れてないみたい」
その口調は淡々としていたが、どこか助けを求めているようにも聞こえた。
すると、カナミの視界の端に淡い光が滲む。
【対象:ミナ】
【状態:病弱 / 不安定】
【要因:恐怖による睡眠障害】
【介入:推奨】
【目標:対象の安静 / 睡眠導入】
【報酬期待値:銅貨中程度】
【報酬見込み:継続接点、その他】
昨日の事件がもとになっているのなら、自分も無関係じゃない。ここに記されている通りなら、また報酬も見込める。それなら助ける方が寝覚めがいい。
「……そうですか」
カナミは短く言った。
「家はどこですか」
「え?」
「ミナちゃんの家です」
「行く気なの?」
リゼが目を丸くする。
カナミはできるだけ平然と肩をすくめた。
「昨日の件、半端なところで終わると後味悪いので。それに、年が近い方が話しやすいかもしれないですし」
「それはそうかもだけど……」
リゼは少し迷うように眉を寄せた。そして、住所を書いた紙切れを渡してきた。
「これ。昼前までなら従妹もいるはずだから」
「ありがとうございます」
紙切れを受け取ってギルドを出る。通りを歩きながら、もう一度だけ表示を確かめた。
【目標:対象の安静 / 睡眠導入】
「……寝かせればいいんだ」
病気そのものをどうこうするのは難しい。けれど、不安を取り除いて眠らせることなら、自分にもできるかもしれない。しかもスキルが推奨しているなら、成功率は高いだろう。
行く理由は十分だった。
ミナの家は、貧民街と中央の間にあった。貧しいが、荒み切ってはいない。扉の前に置かれた鉢植えが、そう教えてくれる。
カナミが扉を叩くと、すぐに昨日の付き添いの女性が出てきた。
「あ……!」
「こんにちは」
「え、どうして」
「リゼさんに聞きました。ミナちゃん、寝込んでるって」
「そ、それは……はい」
女性は戸惑いながらも、すぐに目を潤ませた。
「気にかけてくださったんですね……」
「まあ、昨日の続きみたいなものです」
「どうぞ、入ってください」
家の中は静かだった。寝台のある奥の部屋へ通されると、薄い毛布にくるまったミナがいた。
顔色は悪い。熱の赤みが少し残っている。けれどそれ以上に、目の下の影が濃かった。まともに眠れていない顔だ。
ミナはカナミの姿を見ると、驚いたように身を起こしかける。
「そのまま、起きなくていいよ」
カナミはすぐ言った。
言いながら寝台のそばに歩み寄ると、視界の端に文字が流れた。
【推奨:頭・手/接触】
【推奨:肯定 ・安全の提示/呼吸誘導】
【対象要求:安心】
カナミは椅子を引いて、寝台の横へ腰かけた。
たぶん今必要なのは、励ましの言葉を重ねることではない。
大丈夫だと身体に覚えさせることだ。
「……こんにちは」
ミナがかすれた声で言う。
「こんにちは」
「どうして、ここに……」
「昨日の続き。ちゃんと寝てないって聞いたから」
ミナの指先が、毛布の端をきゅっと掴む。
「ごめんなさい……」
「なんで謝るの」
「心配、かけて……」
「それはまあ、少しかけてる」
はっきり言うと、ミナがびくっとする。
その反応を見て、カナミは少しだけ声をやわらげた。
「でも、またお話しできた」
「……」
昨日のように、言葉が妙にちょうどいい場所へ落ちていく。
カナミはそれをもう止めなかった。
止める理由がない。今は成功率の方が大事だ。
「昨日のこと、思い出す?」
問いかけると、ミナは少しだけ迷ってから頷いた。
「目を閉じると……」
「袋を取られたところ?」
「……こわい声と、走る音と……あと、転ぶ音」
やっぱり……
また、起こるかもしれない恐怖が眠りを邪魔している。
カナミは少しだけ寝台へ身を寄せた。
寝台のそばで、病弱な少女へ静かに目線を合わせる。その仕草だけ見れば、心配して駆けつけた優しいお姉さんにしか見えない。
けれど本人の頭の中は、意外と冷静だった。
近すぎる方が安心する。
声は低め。
否定しすぎず、今は安全だと切り分ける。
そんな手順が、ほとんど計画書みたいに頭へ流れてくる。
「ミナちゃん」
「……はい」
「昨日のこと、もう終わってるよ」
「……」
「盗った人は捕まった。薬は戻った。リゼさんも、お母さんも、それに私もいる」
カナミは一つずつ区切るように言った。
「今ここで、急に何かが起こることはないよ」
視界の端に表示が滲む。
【行動:有効】
【不安:低下】
【呼吸:安定】
【対象好感度:上昇】
ミナの肩の力が、少しずつ抜けていく。
「……でも、目を閉じると」
「じゃあ私を見てて」
カナミはすぐに返した。
「無理に寝ようとしなくていいから、私の声に耳を傾けて……」
「……」
ミナが、じっとこちらを見る。
不安そうで、でも少しだけ縋るような目だった。
カナミはそこで、そっと毛布の上からミナの手に触れた。冷えた指先だった。握り込むのではなく、逃げたくなったら逃げられるくらいの軽さで包み込む。
「昨日の続きは、ここでは起きない」
静かに言う。
「起きたら私が先に気づくし、起きる前に追い返す」
「……ほんと?」
「ほんと」
「……また、蹴るの?」
「必要なら」
その返しが少しおかしかったのか、ミナの口元がかすかに緩んだ。
「だから、今は頑張って眠らなくていい。ただ、目を閉じて、怖くなったら私を見ればいい。それだけ」
ミナはしばらく迷っていたが、やがてゆっくり目を閉じた。
まぶたが震える。呼吸はまだ浅い。
カナミはその手を軽く握ったまま、一定の速さで言葉を落とす。
「大丈夫」
「ここは家」
「もう追いかけなくていい」
「今は何もしなくていい」
そのたびに、表示が小さく更新される。
【対象:安定】
【不安:低下】
【睡眠:進行】
数分も経たないうちに、ミナの呼吸が少しずつ深くなる。指先の強張りも薄れていく。そして、毛布を握っていた力が抜ける。
カナミは手を離し、そっと椅子から立ち上がった。
視界の端には、先ほどとは別の文字が表示されている。
【目標達成】
【対象への強化完了】
【報酬:後日回収見込み】
【追加報酬:後日回収見込み】
「すごい……」
付き添いの女性が、ほとんど呆然とした声で言う。
「こんなに優しくしてもらって、ミナもきっと……」
その先を聞く前に、カナミは人差し指を立てた。
「しー」
「……あ」
「起きたらもったいないでしょ」
「す、すみません……!」
慌てて声を潜める女性に、カナミは少しだけ肩をすくめる。
もったいない、というのは半分本音だった。せっかく成功したのだ。ここで起こしてやり直しは勘弁してほしい。
部屋を出る直前、カナミは一度だけ寝台を振り返る。
ミナの寝顔は、さっきまでよりずっと穏やかだった。
病弱なのはすぐには変わらない。怖かった記憶だって消えないだろう。
でも少なくとも、今は眠れている。それだけで十分だろう。
家の外に出て、扉が閉まる。
そこでようやく、カナミは小さく息を吐いた。
「……よし」
計画通り。
表示どおりに動けば、ちゃんと結果が出る。
ろくでもないくらい使いやすい。
カナミはポーチの口を軽く押さえ、口元を少しだけ上げた。
「かなり、いい感じかも」
その独り言は、昼前の風にさらわれて消えた。




