第3話
「待って! それ、大事な薬なの!」
「お願い、返して……!」
最悪だ。ものすごく面倒そうだ。しかもよりによって、さっきリゼが話していた相手にぴたりと重なる。
面倒事には関わらない方が賢い。盗人を追いかけて怪我でもしたら出費が増えるし、捕まえられなければ時間だけ食う。正義感で腹は膨れない。
それなのに……
女の走る進路の先に、木箱が積まれている。そこへちょうど曲がり角へ入ってくる荷車。通行人の密度。追いかける少女の足取り。
そんなものが、目で追うより先に頭へ流れ込んできた。
そして次の瞬間、視界の右端に、淡い光が滲んだ。
「……え?」
空中に、何かが浮かんでいる。
文字だけがそこに組み上がっているような感じだった。光の粒でできた線が、整然と並んでいる。
【報酬期待値:銅貨七枚相当】
【追加報酬見込み:信頼・継続接点 小】
【最適解ルート:視線誘導→転倒誘発→薬袋確保→対象保護】
意味がわからない……
意味がわからないのに、理解できる。
「なに、これ……」
息を呑んだその一拍のあいだにも、盗人の女はどんどん離れていく。
止めるなら今しかない。
そう理解した瞬間、カナミの身体は自然と動いていた。
「そこの人、右寄って!」
自分でも驚くくらい通る声が出る。
近くにいた男がぎょっとして身を引く。その隙間を縫うように、カナミは通りを斜めに駆けた。盗人が曲がり角を抜けると同時に、荷車に気を取られる。その間に、道端に積まれていた空箱を軽く蹴る。
箱は乾いた音を立て、女の足元へ転がっていく。
「うわっ!?」
女が体勢を崩し大きくよろめくと、腕から布袋が宙へ放られる。
カナミは事前に知っていたかのように、落ちる位置に手を伸ばし、薬袋を受け止める。そして、そのまま一歩だけ踏み込み、女の肩を避けるように体を捻る。
盗人は盛大に石畳へ体を打ちつけた。
「っ、この……!」
「人の物を盗るなら、もう少し周りを見た方がよかったね」
口から、勝手にそんな言葉が出てくる。
いつもの自分なら、もっと息が上がっていて、もっと乱暴な言い方になっていたかもしれない。なのに今は、妙に落ち着いている。冷静すぎるくらいだった。
周りの人たちがようやく何が起きたのか理解し、ざわめきが広がる。
「捕まえろ!」
「盗人だ!」
「薬を奪ったって!?」
女が起き上がろうとするより早く、近くにいた大柄な荷運びの女が腕を掴んだ。さらに別の男が回り込んで、逃げ道を塞ぐ。
その時、カナミは追いついてきた少女の方を振り返った。
顔色が悪い。肌は白く、呼吸も浅い。無理して走ったせいで、今にも膝から崩れ落ちそうだった。付き添いの女性も肩で息をしている。
「これ、あなた達の?」
「は、はい……っ」
カナミは薬袋を差し出したが、少女は受け取ろうとしてふらついた。反射的に、その腕を支える。
「大丈夫?」
「ご、ごめん、なさい……」
「謝らなくていいから。それより座って?」
近くの店先に置かれていた木箱を引き寄せ、その上へ少女を座らせる。付き添いの女性が慌てて少女へ近づく。
「ミナ、大丈夫!?」
「う、うん……」
「落ち着いて。薬は無事だから」
少女を落ち着かせている視界の端には、光る文字が別の言葉を示していた。
【状況更新】
【優先:ミナの安静化】
【推奨行動:呼吸誘導→水分確認→付き添いへ確認】
また……
不思議と、正しい判断だと思ってしまう。
カナミは少女――ミナの前にしゃがみ込んだ。
「息を吸って、ゆっくり」
「……っ、は、い」
「そう。落ち着いて……」
背中に手を添えて呼吸を合わせると、ミナの肩の上下が少しだけ落ち着いていく。付き添いの女性が、呆然としたままこちらを見ていた。
「あ、あなた……」
「水、持ってますか?」
「え、あ、はい……!」
言われるままに水差しを差し出してくる。カナミはそれを受け取り、ミナに無理のない角度で口をつけさせた。
「少しずつでいいよ」
「……うん」
小さく喉が鳴り、一息つく。
その様子を見て、カナミは少しだけ力を抜いた。どうやら気を失うほどではないようだ。
周りではまだ、盗人を取り押さえた人たちが騒いでいる。そして、誰かが憲兵を呼びに走り出す。
そのざわめきの中で、付き添いの女性がようやく我に返ったように息を呑んだ。
「これ、リゼさんに頼まれてた薬なんです……! この子、熱があって……それなのに、私が目を離したせいで……」
「リゼさん?」
「ギルドの受付をしている人です。私、あの人の従妹で……そして、この子は娘で……」
……やっぱり
カナミは胸の内で短く息を吐いた。
偶然にしては出来すぎている。ついさっき親戚の薬の話を聞いて、その直後にこの事件。しかも、怪我もなく犯人を捕まえた。
付き添いの女性はミナの肩を抱きながら、何度も頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございます……! あなたがいなかったら……っ」
「そこまで大した事じゃ」
「いえ! 命の恩人です!」
思った以上の勢いで返されて、カナミは少したじろいだ。
そのまま女性は、ぐっと身を乗り出してくる。
「すごかったです、さっきの行動……まるで全部見えてたみたいで……」
「いや、まあ、その」
「しかもこの子にまで気をつかってくださって……」
距離が近い。かなり近い。
カナミは笑顔を維持しながら、内心では冷静に思った。
こういうのは、長引いて時間単価が悪い。
助けたのは悪くない。むしろ、小銭も信頼も発生しそうだ。けれどこのまま情に浸られて話が伸びると、次の行動に移れない。
「えっと、とりあえず、薬が無事でよかったですね」
「はい……っ」
「それと、ミナちゃんは安静にしてください」
「は、はい!」
言いながら、カナミは自分で首を傾げた。
『ミナちゃん』
呼び方が、なぜか妙に自然だった。
その瞬間、視界の端の文字がふっと揺れた。
【対象反応:良】
【信頼上昇】
【次回接触時補正:微】
「……は?」
思わず声が漏れる。
「え?」
「あ、いや、なんでもないです」
女性が不思議そうな顔をしたので、カナミは慌てて首を振った。
また見えた……
報酬期待値だの、信頼上昇だの、そんな見えるはずのない表示が、当たり前みたいに自分の視界へ居座っている。
しかも、状況に合わせて変わっている。
これは見間違いじゃない。
ここまで来ると、もう認めるしかなかった。
自分の身に、何かが起きている。
「おい、嬢ちゃん!」
通りの向こうから、さっき盗人を押さえていた荷運びの女が声を飛ばしてきた。
「憲兵が来ると証言がいるかもしれねえぞ!」
「え、私?」
「最初に止めたのお前だろ」
面倒そうだ。けれど、逃げたら逃げたで印象が悪い。カナミは頭の中で損得を弾きかけたその時、また文字が浮かんだ。
【推奨:簡潔証言→早期離脱】
【所要時間予測:短】
そこまで出るのか。
カナミは少し笑いたくなった。
「……わかりました、行きます」
短く答えて立ち上がると、ミナが不安そうに袖を掴んだ。
「あの……」
細い指先だった。熱の名残があるのか、少しだけ温かい。
「……ありがとう、ございました」
下から見上げてくる目が、やたらとまっすぐだった。
そのまっすぐさに一瞬だけ言葉を失ったが、カナミはすぐにいつもの顔へ戻る。
「うん。早く良くなるといいね」
「……はい」
「いい返事」
軽く頭に触れてから、カナミは手を離した。
誰に教わったわけでもないのに、相手が少し安心する触れ方を、自分の手が知っているみたいだった。
正直怖い。
でも、使える。
その二つが、胸の中で同時に膨らんでいく。
しばらくした後、到着した憲兵に簡単な証言を済ませ、盗人を連れていくのを見送ってから、カナミは通りの端へ出た。ざわめきが少し遠のく。
そこでようやく、一人で息をつく。
カナミは自分の右手を見る。
薬袋を掴んだ感触は消えているのに、さっきの動きだけが鮮明に残っていた。考えるより先に身体が動いた。進むべき位置も、声をかける順番も、手を伸ばす角度まで、全部が《《最適》》だった。
「勘、とかじゃないよね……」
誰も答えない。
代わりに、視界の端で半透明の文字がゆっくり薄れていく。
普通なら、もっと怯えるべきなのだろう。
得体の知れないものが見えている。しかも、かなり便利そうだ。便利そうだからこそ、余計に怖い。
それなのに自分は今、恐怖より先に思っている。
――これ、うまく使えば稼げるのでは。
「……ほんと、嫌になる」
でも、得体の知れない祝福だろうが呪いだろうが、腹を満たしてくれる可能性があるなら、利用する。そうやってここまで生きてきた。
通りの向こうでは、付き添いの女性とミナが何度もこちらを振り返っていた。
カナミは小さく手を振ってごまかす。
その瞬間、うっすらと、文字が戻った。
【報酬予測:後日回収見込みあり】
「……後日回収って」
言い方がいやらしい。
けれど、期待してしまう自分がもっといやだった。




