第2話
貧民街を抜けると、道の匂いが少し変わる。
湿った木材と煤の匂いが薄れて、代わりに荷車の車輪が軋む音や、焼きたての肉を売る屋台の香りが混じりはじめる。石畳もいくらか綺麗になり、店先に並ぶ品の色まで、心なしか余裕のあるものに見えた。
歩いて十分もかからない距離なのに、世界が入れ替わったみたいだった。
「ほんと、性格の悪い街」
カナミは小さく呟く。
貧民街では、朝のパンひとつで一日の計算が狂う時がある。けれどこちらでは、立派な外套を羽織った人たちが、昼前から果物や香辛料を気軽に買っていく。怒るだけ無駄だと知っていても、少しくらい皮肉を言いたくはなる。
足早に通りを曲がって、ギルドの建物へ向かう。
石造りの二階建てで飾り気はない。そして無駄に頑丈そうな扉の上には、剣と秤を組み合わせた紋章が飾られている。
カナミは扉の前で一度だけ服の裾を整え、そっと息を吐いた。
汚い格好だと軽く見られる。でも、背伸びしすぎても浮く。だから、できる範囲できちんとして見せるのがいい。
そういう小さな積み重ねが、地味に響くのだ。
扉を押し開けると、ギルドの中は騒がしさで満ちていた。
依頼票の貼られた壁。長椅子に座る冒険者たち。受付前の列。誰かが報酬の安さに文句を言い、別の誰かがそれを笑う。酒場と役所を無理やり同居させたような空間が広がる。
カナミは人の少ない端の窓口へ向かう。
そこでは、受付嬢のリゼが書類の整理をしていた。
彼女は髪を後ろでまとめ、落ち着いた雰囲気をまとっている。年はカナミよりだいぶ上だろう。派手さはないが、身なりはきちんとしていて、机の上も整っている。目元は少しきつく見えるが、不思議と話しかけにくい感じはしない。
仕事のできる人間特有の、無駄のなさがあった。
「おはようございます」
「……おはよう」
リゼは手元の書類から顔を上げ、カナミを見るなり少しだけ眉を動かした。
「朝から元気ね、あんた」
「当たり案件は早い者勝ちなので」
「言い方が露骨」
「本音を隠しても割増料金はもらえないでしょう」
「そういうとこよねえ」
呆れたように息をつかれたが、追い払われはしない。
「今日は何を探してるの。雑務? 使い走り? 領地の見回り? それともまた、危なくなくて儲かる仕事だけくださいって言うの?」
「言います」
「でしょうね」
即答されて、カナミはにっこり笑った。
「ある?」
「ない」
「夢がない」
「夢なら神殿にでも行きなさい」
つれない。
でも、やりやすい。
曖昧に濁されるより、こうしてきっぱり返してくれる方が交渉はしやすい。カナミは窓口に軽く身を寄せた。
「じゃあ、現実的な範囲で一番マシなのを教えてください」
「注文の仕方だけは上手いのよね」
リゼは書類をめくりながら、事務的な口調で言った。
「先に確認があるわ。今月の仮登録の延長はあと一回までよ。それと、保証金がまだ足りてない、紹介状もなし。これで合ってる?」
「はい、貧民街に厳しい現実が今日も元気です」
「貧民街に厳しいんじゃなくて、金のない人間に厳しいの。ギルドは平等よ」
「嫌な平等だなあ」
「仕組みなのだからしょうがないでしょ」
そのまま、リゼは依頼票を何枚か引き抜いて机に置いた。
「仮登録だと受けられるのは低ランク中心。日雇い雑務、荷運び、清掃、使い走りが主ね。保証金が少ないぶん、報酬も低め。高額案件は持ち逃げや放棄の危険があるから、正式登録者か紹介付きに流れるわ」
「つまり、信用がないから薄利しか触れられない」
「そうね」
「でも薄利しか触れないと保証金が貯まらない」
「そうね」
「詰んでません?」
「最初からコネか金を持ってる人には優しくできてるわ」
「この街嫌いです」
カナミがげんなりした顔をすると、リゼの口元が少しだけ緩んだ。
「でも、例外がないわけじゃない」
「例外?」
「人が嫌がる仕事。長続きしない仕事。面倒だけど成功すれば次につながる仕事。そういうのは、低ランクにも回ってくる」
それは聞き捨てならない。
カナミは机の上へ少しだけ身を乗り出した。
「そういう話、もっと早くしてほしかったです」
「今してるでしょ」
「素晴らしいですね、仕事が早い」
「……は?」
するりと言葉が出た。
別に嘘ではない。本当に、話の進め方が早いのだ。無駄に脅さず、変に引っぱらず、必要なことだけきちんと話す。こういう窓口は珍しい。
リゼが一瞬だけ目を瞬かせる。
「なに急に」
「いや、こういうところって説明が長い人も多いじゃないですか。リゼさん、要点まとめるの上手いから助かります」
「……褒めても依頼の質は上がらないわよ」
「上がらなくても、話しやすくはなりますよね」
「ホント正直ねえ」
口では呆れているのに、さっきより声が少しやわらいだ気がした。
カナミはそこで、自分でも少し妙だと思った。
今の言葉、考えて出したというより、相手が何を言われたら悪い気がしないか、その答えだけが妙にすんなり口へ出てきた感じがある。
けれど、深く考えるほどのことでもない。営業用の愛想だって、繰り返せば身につく。
たぶん、その程度だ。
「これと、これ。あと、これは条件だけは悪くない」
リゼが三枚の依頼票を選り分けて前へ出す。
荷運び、帳簿整理の手伝い、治療院の消耗品補充。どれも地味だが、堅実ではある。とくに最後の一枚は、報酬欄が少しだけ高い。
「これは?」
「本来なら経験者向け。でも危険性は低いし、真面目な人間なら回せる。あんた、手癖は悪くなさそうだから」
「信用されてる?」
「まだしてない」
「じゃあなんで紹介を?」
「期待値の先払いみたいなもの」
その言い方が少し面白くて、カナミは小さく笑った。
「いいですね、それ。期待値の先払い」
「笑ってる暇があったら中身見なさい」
素直に依頼票へ目を落とす。
たしかに悪くない。少なくとも、さっきまで壁に貼られていた雑務票よりはましだ。報酬が跳ねるほどではないが、今日を赤字で終えずに済むくらいにはなる。
ほんの少しだけ、彼女からの当たりが良くなった気がする。
それが自分の会話のおかげなのか、リゼがもともと見せるつもりだったのかはわからない。
「……ありがとうございます」
「ちゃんとお礼は言えるのね」
「損しない範囲ですし」
「本当に徹底してるわ」
リゼは書類を整えながら、ふっと肩の力を抜いた。
その時、カナミは彼女の目の下に、ほんの薄く疲れがあることに気づいた。
「忙しいんですか?」
「ギルドはいつも忙しいわ」
「そうじゃなくて、いつもよりって感じがします」
「よく見てるのね」
言われて、カナミは首を傾げた。
「見てるというか……なんとなく」
「なんとなくで当てられると、ちょっとやりにくいわ」
そう言いながらも、リゼは少しだけ苦笑していた。
「朝から親戚のことでばたばたしてたの。身体の弱い子がいて、薬を依頼してるんだけど、付き添いの子まで慌てちゃって」
「大変ですね」
「まあ、慣れてるけど」
その口調は淡い。けれど、本当にどうでもいいならわざわざ口には出さないだろう。
カナミはほんの一瞬だけ考えて、言った。
「でも、気にかけてもらえてるってわかるだけでも、その子はだいぶ感謝してると思いますよ」
「……え?」
「薬そのものも大事だけど、ちゃんと見てる人がいると、けっこう安心するので」
自分で言ってから、少し変なことを言った気がした。
もっと軽く流すつもりだったのに、妙に真面目な言葉になってしまったのだ。
けれどリゼは、しばらく何も言わなかった。
それから書類を揃える手を止めて、小さく息をつく。
「……あんた、そういうの、さらっと言うのね」
「え、変でした?」
「別に。変じゃないけど……」
その声は、少しやわらかかった。
カナミは自分でもよくわからないまま、なんとなく喉の奥がむず痒くなるのを感じた。
「じゃあ、今日はこのへんで失礼します」
「ええ。くれぐれも無茶はしないこと」
「またそれ」
「貧民街の子って、できること以上をやろうとするから」
「それは偏見では?」
「経験則」
リゼは依頼票を差し出しながら、最後にもう一度カナミを見た。
「……でも、まあ。あんたはちゃんと帰ってきなさい」
「仕事の心配ですか?」
「半分はね」
残り半分は何だろう、と少しだけ思ったけれど、そこを掘るのは野暮な気がした。
カナミは依頼票を受け取って、軽く手を振る。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ギルドを出ると、外の光は入ってきた時より少し明るくなっていた。人通りも増えている。依頼票を見下ろしながら歩き出して、カナミはふと首を傾げた。
さっきの会話がやたらスムーズだった。リゼさんが話しやすかったのもある。でも、それだけではない気がする。褒める言葉も、親戚の話への返しも、自分で考えるより少し先に、ちょうどいい形で口をついて出た。
偶然、と言えば偶然だ。
ただ、ひとつだけ確かなのは。
「……ちょっとだけ、話しやすくなった気はする」
それは確かに、得だった。
大きな報酬ではない。けれど、情報を引き出しやすくなるとか、少しだけ当たりの良い依頼票を見せてもらえるとか、そういう小さな差は、あとでちゃんと効いてくる。
カナミは依頼票を折りたたみ、腰のポーチへしまう。
その時、通りの向こうから慌ただしい声が上がった。
「待って! それ、返して!」
「誰か、その人を止めて……!」
切羽詰まった女性の声。続けて、人混みがざわつく音。
カナミは反射的に顔を上げた。
遠くで、ひとりの女が何かの袋を抱えて走っている。追いかけるのは、顔色の悪い少女と、付き添いらしき女性。
その光景を見た瞬間、さっきのリゼの言葉が脳裏をよぎった。
「……まさか」




