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『報酬:金貨』を狙ったはずが『報酬:一生の愛』ばかり来るんですけど!?   作者: 夜凪灯
第1章 貧民街の効率主義者

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第1話

 朝の空気は冷たいが、貧民街の路地にはもう、人の熱が満ちていた。


 夜のあいだに湿った石畳はまだ鈍く光っていて、洗いきれない汚れや煤が、この場所の古傷みたいにこびりつく。細い路地の両脇には、板を打ちつけて補強しただけの家が並び、軒先には昨日の残り物を煮直す鍋の匂いが漂っている。誰も彼もが余裕なんて持っていない顔で、それでも今日一日をどうにか始めようとしていた。


 そんな通りを、カナミは足早に歩いていた。


 肩のあたりまで伸びた暗い茶髪は、寝癖を直しただけのような素朴さで、飾り気はない。けれど前髪が軽く流れているせいか、表情は意外とよく見えた。眠たげに細められた茶金の目は、ぼんやりしているようで、露店の値札も、店主の機嫌も、籠の中の売れ残り具合も、きっちり見逃していない。


 着ているのは、何度も繕った跡のある地味な上着とスカートだった。華やかさはないが、汚れてはいない。袖口はきちんと洗われ、裾のほつれも丁寧に縫い直されている。腰には細いベルトと、小さなポーチ。どれも安物だが、使うための道具としては過不足がない。


「おばちゃん、おはよう。パン、まだある?」


 声をかけた先は、路地の角にある小さなパン屋台だった。丸パンを積んだ籠の向こうで、恰幅のいい女性が顔を上げる。


「あるけど、安くはないよ」

「そこをなんとかならない?」

「朝一番から図々しいねえ」


 カナミは籠の中を覗き込み、焼き色を見比べた。形のいいものから売れて、少し歪んだものが端に寄せられている。味はそう変わらない。見栄えの差で値段を動かせるなら、交渉の余地はある。


「これと、これと……あと、その端の二つ。まとめて買うから、ちょっとまけてほしいな」

「そんなに買うのかい?」

「うん。今日売れ残りそうなのを混ぜてくれるなら、そっちも助かるでしょ」

「在庫整理みたいな顔で言うんじゃないよ」


 呆れたように言われて、カナミはにこりと笑った。


「だって、その方がいいでしょ?」

「可愛く笑っても駄目なものは駄目」

「え、今ちょっといけそうだったよね?」

「微妙に腹立つとこがあんたの才能だね」


 そう言いながらも、おばちゃんはちゃんと端のパンを拾って袋に入れてくれる。

 カナミは胸の前で両手を合わせてお願いをしていた。こういう仕草をすると、年上の大人たちはわりと甘い。本人は単なる交渉材料のつもりだが、時々それが必要以上に愛想よく見えることがある。


「それで、今日は何枚?」

「銅貨七枚」

「高い」

「小麦の値が上がってるんだよ」

「それじゃあ、形の悪いの二つ入ってるから六枚だね」

「なんであんたが先に言うんだい」

「長い付き合いだから?」


 おばちゃんは大きく溜め息をつき、最後に小ぶりのパンをひとつ余分に放り込んだ。


「……おまけだよ。ちび達の分」

「やった」

「ただし次はきっちり払いなよ」

「善処します」

「あんたは貴族かい」


 銅貨を払って袋を受け取り、カナミは胸の中でざっくり計算する。今日の手持ちは残りわずか。食べる分で、もうほとんど余裕はない。今日一日が赤字で終われば、明日からの食費に響く。


 つまり、日々の案件選びは重要だった。

 重要どころではない、最重要だ。


 カナミはもともと、感情で動くより先に損得を考える。冷たいわけではない。ただ、そうしないと足りないのだ。この街で、弟や妹を抱えて生きていく為には。


 市場を抜け、狭い路地に入る。隣家との距離は近く、窓を開ければすぐ誰かの生活に手が届きそうだった。泣いている赤ん坊の声。洗濯桶を引きずる音。昨夜の酒が抜けきらない大人の怒鳴り声。貧民街の朝は賑やかというより、せわしない。


 カナミは自分の家の前で立ち止まり、少しだけ息を整えた。


「ただいまー。ごはん買ってきたよ」


 扉を開けると、奥からぱたぱたと足音がした。


「お姉ちゃん!」

「パン?」

「ほんとに?」


 飛び出してきた弟妹に、カナミは袋をひらひら振ってみせる。


「ほんとだよ。しかも、ちょっと多い」

「すごい!」

「今日いい日?」

「まだ朝だからわかんない」


 狭い部屋の中に笑い声が広がる。屋根も壁も頼りなくて、雨の日には端の方へ水が滲むような家だが、この瞬間だけは少しだけましに思えた。

 カナミは机代わりの古い箱の上にパンを並べ、鍋の残りを温める。薄い野菜スープの湯気が立ちのぼると、妹が嬉しそうに顔を寄せた。


「熱いからまだ」

「うん……」

「やけどすると余計な治療費がかかるでしょ」

「お姉ちゃん、ほんとすぐお金の話する」

「するよ。お金は大事だから」


 そう言って、自分の分のパンを小さめにちぎる。

 すると、弟がじっとその手元を見た。


「……お姉ちゃんの、少なくない?」

「気のせい」

「気のせいじゃない」

「私は大人だから、効率よく動ければ平気なの」

「食べないと効率わるいんじゃないの?」


 それを言われると弱い。

 カナミは一瞬だけ黙ってから、ふっと笑った。


「じゃあ少しもらおうかな」

「最初からそうして」


 弟が自分の分をちぎって差し出してくる。妹も真似をする。その小さな手が愛おしいと同時に、情けなくもあった。こんなふうに弟妹に気を遣わせる姉でいたいわけじゃない。


 だから、ちゃんと稼がないといけない。


「ごめんね、お姉ちゃん」


 妹がぽつりとこぼした。


「私たちがいるから、お姉ちゃん、たいへんだよね」


 カナミは手を止めた。それから、妹の頬を指先で軽くつつく。


「そういうこと言わないの」

「でも……」

「たいへんなのは事実。でも、あんたたちがいるから頑張る理由がはっきりしてるのも事実。だから、謝るくらいなら大きくなっていっぱい稼いで」

「現実的……」

「うちの姉だからね」


 弟が妙にわかったような顔でうなずくので、カナミは少し笑ってしまった。こうしていると、普通の朝だ。ぎりぎりでも、苦しくても、まだ笑える。


 けれど、その空気を破るように、外から怒鳴り声が響いた。


「税の未納だ!それと居留費も払えないなら出ていけ!」

「待ってくれ、あと三日で――」

「三日が三十日になったのを何度見たと思ってる!」


 乱暴な靴音。何かが倒れる音。子どもの泣き声。


 外から聞こえてくる騒音に、弟妹の肩がびくりと揺れた。

 カナミは舌打ちを飲み込んで、扉の方へ目を向ける。治安兵――正確には、徴収役に近い連中だ。こういう場所にはやたら強気で来るくせに、もっと大きな不正や横流しには知らん顔をする。権力のあるところには弱く、逆らえない場所には容赦がない。実に分かりやすい。


「お姉ちゃん……」

「大丈夫。うちは今日は来ない」

「ほんと?」

「たぶん」

「たぶん!?」


 妹が泣きそうな顔をしたので、カナミは慌てて言い直した。


「来ても追い返すから。そういうのは姉の仕事」

「できるの?」

「できるように見せるのが大事なの」


 それは半分、本気だった。

 奴らには腹が立つ。こういう騒ぎを聞くたび、胸の奥がざらつく。けれど怒鳴り返しても金にはならないし、殴りかかればもっと悪くなる。なら、今は耐える。耐えて、そのうえで抜け出す算段を立てる。


 感情だけで突っ走れるほど、生活は軽くない。


 外の騒ぎが少し遠ざかるのを待ってから、カナミは立ち上がった。腰のポーチに残りの銅貨を入れ、ベルトを締め直す。その仕草には妙な手慣れがあった。安物の服でも、道具として使うなら整えておく。そういう小さな積み重ねが、案外馬鹿にできないことを彼女は知っている。


「じゃ、行ってくるね」

「もう?」

「うん。今日こそ当たり案件を引かないと」


 弟が首をかしげる。


「当たり案件って?」

「短時間、低リスク、高報酬。できれば次にも繋がるやつ」

「そんな都合のいいのあるの?」

「ないかもしれない。でも探さないと出てこない」


 妹が不安そうに、そっとカナミの袖をつまんだ。


「……早く帰ってきてね」

「帰ってくるよ」


 その小さな手に、自分の手を重ねる。


 カナミの手は細いけれど、指先は案外しっかりしていた。家事も雑用も交渉も、全部こなしてきた手だ。そうして撫でられると、妹は少しだけ安心したように目を細める。


「いい子で待ってて」

「うん」

「お姉ちゃんも無茶しないで」

「それは案件次第かな……」

「しないって言って」

「……なるべく」


 弟にじとっと見られ、カナミは肩をすくめた。


 扉を開けると、朝の光が細く差し込んでくる。薄暗い部屋から出たせいか、路地は思ったより明るく見えた。隣の家の前には割れた瓶が転がり、誰かが慌てて拾っている。少し先では、老婆が壁にもたれて座り込み、若い娘が背中をさすっていた。


 見慣れた景色だ。

 見慣れてしまった景色でもある。


 カナミはその場に数秒だけ立ち尽くし、それから静かに息を吐いた。


 今の自分に、全部は救えない。


 なら、まずは自分の手札を増やすしかない。稼げるだけ稼いで、足場を作る。感傷より前に、数字。優しさがいるなら、その優しさを維持できるだけの余裕を先に買う。


「よし」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


「今日こそ当たり案件、引いてやるんだから」

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