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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十二話 静けさを強いられる村(10)

 夜が明けた。


 村は、昨日までとは違う姿で残っていた。


 下の豆畑は泥の斜面になっている。

 古い石組みを外れた水が、その斜面の真ん中を流れていた。

 西の石段は途中で切れ、共同炉の壁には手が入るほどの亀裂がある。


 七本の結界杭は、どれも地面に倒れていた。


 もう銀線は鳴らない。

 入口の銀釘には、細い紐が一本も掛かっていなかった。

 中央の平石の割れ目は閉じ、朝の光の下では、ただの石の傷に見えた。


 下の畑の持ち主は、流された土の前に立っている。

 隣の家の者が、豆の袋を一つ持ってきた。


「半分、持っていけ」


「そっちも冬を越せなくなる」


「半分なら越せる。うちだけならな」


 男は豆袋から半歩下がり、両手を脇で握った。


 バルドが帳面を持って来る。


 昨夜まで、巫女の家に渡した豆や薪を記していた帳面だった。


 新しい頁を開く。


「失った畑。三戸分」


 老人は書いた。


「冬までに要る豆。薪。水路を掘る人数。ほかにあるか」


「共同炉の壁」


「西の石段」


「井戸の濁りを毎朝見る者」


 声が次々に上がる。


 バルドは一つずつ書いた。

 古い頁には、マルセラの名と渡した品が十九年分続いている。

 新しい頁には、家と畑と水路の名が一行ずつ増えた。


「バルド」


 畑の持ち主が呼ぶ。


「昨夜、切ると決めたのは俺だ。それも書け」


「なぜだ」


「あとで誰かを恨みたくなったら、その前に読み返せる」


 バルドは男を見た。


「分かった」


 畑の損失の下に、その一行を加えた。


 三姉妹の家では、マルセラが入口にいた。


 アニカが椅子の後ろへ回る。

 椅子に両手を掛けかけて、止めた。


「母さん。外へ出たい?」


 マルセラは朝の光を見る。


 指で椅子の肘を一度叩いた。


「ヴェラ、そっちを持ってくれる?」


 ヴェラの足はすぐには動かなかった。


 アニカの頼みを聞いてから、自分で椅子の右へ回る。


「持つ」


「イリナ、入口の段差を見てもらえる?」


 イリナは入口の段差を確かめた。


「右を少し上げて。左はそのまま」


 ヴェラが椅子の右を少し上げ、アニカは左を動かさず支えた。


 イリナが先に出て、足を置く場所を一つずつ示した。


 三人で、母親を朝の光の下へ運ぶ。


 マルセラの顔に光が当たった。


 朝日に目を細める。

 やがて口が動いた。


 声にはならなかった。


 アニカが顔を寄せる。


「何?」


 もう一度、唇が動く。


 イリナが答えた。


「まぶしい、だって」


「聞こえたの?」


「見れば分かる」


「それ、私の言い方」


「旅人のだよ」


 ヴェラが言った。


 三人が笑った。


 マルセラも、息だけで笑った。


 その身体から傷が消えたわけではない。

 指は曲がったままだった。

 声も戻らず、自分の足で立つこともできない。


 結界を壊したからといって、十九年が返るわけではなかった。


 それでも、娘たちが椅子を下ろす場所を、マルセラは自分で指した。


 倒れた西の杭が見えるところだった。


 リュカは平石のそばにしゃがみ、昨夜閉じた亀裂を見ていた。


 アニカが来た。


 喉には銀板がない。

 赤い痕だけが首の中央に残っている。


「一晩の客にしては、働きすぎじゃない?」


「飯と宿がついてた」


「炉の脇を宿に数える?」


「屋根はあった」


 アニカは平石のそばにしゃがむ。

 閉じた亀裂に触れかけ、手を止めた。


「これは、また結界になる?」


「ならない」


「人柱も?」


「要らない」


「ここがまた裂けた時は?」


「土が裂けたと思って直せ」


「人を入れずに?」


「入れるな」


 アニカは頷いた。


「そのくらいなら、覚えられる」


「忘れた時のために、帳面にも書け」


「バルドの?」


「村のだ」


 アニカは平石から手を引き、バルドの帳面へ目を向けた。


 下の水路で、男たちが新しい流れを測っている。


「前と同じ場所に戻すか」


 一人が聞いた。


「無理に戻せば、また下の畑へ寄る」


「じゃあ、ここを新しい水路にするか」


「上の畑へ届かない」


 バルドは帳面に二つの案を並べ、測り紐の数字をそれぞれの脇に書き足している。

 水門の男が紐を持って傾きを測り、畑の女が土を握って水の染み方を見る。


 一人が「上の畑へ届く水路を探そう」と言った。

 別の男は、水門の男に傾きをもう一度聞いた。


 その間にも水は流れる。


 水門の男が測り紐を石に置いた。


「先に、見回り役だけ決めよう」


 上の水量を見る者。

 下の濁りを見る者。

 雨が強くなれば家々を回る者。


 役目は朝と夕で替えることになった。


「昔も、そうだった」


 バルドが帳面を見ながら言う。


「杭を打ったばかりの頃は、七軒の家が順に見ていた」


「どうしてやめたの」


 イリナが聞く。


「遅かったからだ」


「今も遅いよ」


「ああ」


 バルドは、マルセラを見る。


「遅い方がよかった」


 マルセラは老人をしばらく見返した。


 それから、曲がった指を膝の上で重ねた。


 バルドは目をそらさず、帳面を持ったまま立っていた。


 ロッタの子どもが、平石の傷へ指を伸ばした。


 ロッタは子どもの顔を見た。


「そこはまだ崩れる! 触るな!」


 声が広場に響いた。


 近くの村人たちは一度顔を上げ、それぞれ測り紐と泥へ戻った。


 子どもは母を見返し、自分で手を引いた。


 リュカは鞄を閉じた。


 雨は上がっている。

 雲の切れ間から差す光が、濡れた斜面を上から順に照らしていた。


「もう行くの」


 アニカが聞く。


「一晩泊まった」


「二晩目なら、もう少しましなものを出せるかも」


「その言い方なら期待できない」


「塩は昨日より増やすよ」


「そこからか」


 イリナがリュカを見る。


「旅人、昨日は静かすぎるって顔をしてた」


「顔を読むな」


 アニカが笑う。


「今は?」


 リュカは村を見た。


 鍬の音。

 水を測る声。

 泣く子をあやす声。

 失った豆を数える声。

 どの声も揃っていない。


「前よりうるさい」


「嫌?」


「ましだ」


 リュカは坂を下りた。


 背後で、アニカの声がした。


「ヴェラ、母さんの椅子をもう少し陽の当たる方へ動かしてくれる?」


「いいよ」


 動いたのは、ヴェラ一人だった。


 イリナが何かを言い、アニカが言い返す。

 ロッタの子どもが笑った。


 声は谷を渡った。


 それだけだった。


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