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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十二話 静けさを強いられる村(9)

 黒い声には、口がなかった。


 それでも、叫んでいた。


『止まれ』


 水路の水が、空中へ立ち上がった。

 人の背丈を越す透明な壁になり、流れ落ちるはずの雫まで宙で止まる。


『来い』


 西の斜面から石が跳ねた。

 拳ほどの石も、抱えるほどの岩も、中央の平石へ向かって雨の中を転がりだす。


『伏せろ』


 豆畑が地面に叩きつけられた。

 支柱が折れ、濡れた葉が泥へ沈む。土まで大きくうねり、村人は隣の者の腕を掴んで踏みとどまった。


 人に向けられた古い命令が、もう人を見つけられない。

 水を、石を、根を、手当たり次第に従わせている。


 割れた平石の下から、黒い筋が七方へ走った。

 抜いた杭の穴へ向かい、村の地面を内側から裂いていく。


「家へ戻れ!」


 水門の男が叫んだ。


「誰に言った!」


 アニカが叫び返す。


 声を出した男が息を呑んだ。


「子どものいる家だ!」


「なら、名前で呼んで!」


 アニカの声には、もう結界の響きがなかった。

 雨にかすれた、一人分の声だった。


「ロッタ、子どもを連れて炉の裏へ! ロルフ、北の家に人が残ってないか見て!」


 呼ばれた二人だけが走る。

 ほかの者は持ち場に残った。


 地面が揺れた。


 ヴェラの足元に亀裂が走る。

 彼女は飛び退きかけ、踏みとどまった。足首を見る。銀輪はない。


「今のは私?」


「自分で決めて!」


 アニカが言う。


「そうする!」


 ヴェラは自分で右へ跳んだ。

 直後、立っていた場所を黒い筋が割った。


 リュカは平石の前にしゃがんでいた。


 黒い声が外套の裾を何度も跳ね上げる。

 何十人もの「急げ」が耳元を通り抜ける。指はまだ針に触れない。


「旅人!」


 バルドが呼んだ。


「まだか!」


「まだだ」


「何を待っている!」


「どこが裂けたか見てる」


「見ている間に村がなくなる!」


「見ずに縫えば、また誰かを土地へ縫いつける」


 バルドは口を閉じた。


 平石の割れ目から、銀色の輪郭が浮かび上がる。

 古い結界の形だった。


 七本の杭。

 中央の起点。

 その中央から、人の形をした細い線が三本伸びている。


 抜かれた銀釘と銀板と銀輪が、雨の中で震え始めた。

 黒い筋が三姉妹へ向きを変える。


「下がれ!」


 バルドが三人に叫ぶ。


 イリナは下がらなかった。


 両手を耳から離し、目を閉じる。


「杭穴へ走る音は七つ。もう一つ、うちの方へ向かってる」


 リュカが顔を上げた。


「マルセラか」


 イリナは頷き、振り返る。


 姉妹の家。

 開いた入口に、マルセラがいた。


 椅子から身を乗り出し、胸を押さえている。

 古い起点輪は平石に置かれている。それでも十九年かけて身体に刻まれた結び目が、まだ母親を中央へ引いていた。


 地面の黒い筋が一本、家へ伸びていく。


「母さん!」


 アニカが駆けだした。

 イリナとヴェラも続く。


 黒い筋がその足元を追った。

 三人は先に家へ飛び込み、アニカとヴェラが椅子の左右を取り、イリナが母の肩を支えた。


 別の一本が下の水路へ走り、水門の脇へ届いた時、下の段から轟音がした。


 止まっていた水の壁が崩れた。


 溜まった水が、一度に下の畑へ落ちる。

 畑の端はすでに沈んでいる。水はそこに集まり、家の並ぶ中段へ向きを変えた。


「下の水門にいる者、板を外せ!」


 水門の男が叫ぶ。


「外れない! 板が噛んでる!」


 バルドが地面の傾きを見た。


「下の畑を切れば、水は谷底へ抜ける」


 畑の持ち主の手が鍬へ伸びかけ、泥の上で止まった。


 そこには三戸分の豆がある。

 冬を越すための畑だった。


「切らなければ中段へ来る」


 リュカが言う。


「中段の家三軒と共同炉が流される」


「魔術で何とかできんのか」


 畑の持ち主が聞いた。


「できる。だが、やらない」


 リュカは針には触れずに答えた。


「俺が縫うのは、あんたたちが選んだあとに残る傷だけだ」


 水が石段を越えた。


 畑の持ち主は、泥に伏した豆を見た。

 妻が隣に立つ。


「切ろう」


 妻が先に言った。


 男は唇を噛んだ。


「切ってくれ」


「誰が行ける!」


 アニカが家の中から村へ呼びかけた。


 鍬を持った者が三人、手を上げた。


「俺が行く!」


「私も!」


「畑の東を切る。水が来たら上へ逃げて!」


 三人が走った。

 持ち主も鍬を取る。


 畑の縁に刃が入った。


 一度。

 二度。

 三度。


 土手が崩れる。

 濁流が豆を巻き込み、谷底へ落ちた。


 中段へ向かっていた水がそれる。


 男は流される畑を見送った。

 妻がその背中に手を置く。


 水の行き先を見届けて、リュカは左手の糸を針に通した。

 平石の割れ目へ打つ。


 金属の音はしなかった。


 針は石に沈み、白い糸だけを残した。


 雨の中で、糸が光る。


 細いはずの一本が、村の端まで見えた。

 白い光が水路を渡る。

 水門の右で、針が土から浮かび上がった。


 空中に残っていた水が、一斉に落ちた。


 リュカは糸を指に掛けた。


 引く。


 手元には一尋ほどしかない糸が、井戸まで伸びた。

 針が水門脇から抜け、糸の上を北の井戸まで走る。

 井戸の縁へ潜った。


 井戸の水と、下の水路が白い糸で結ばれた。


「水は水へ」


 リュカが言う。


 黒い声が糸に噛みつく。


『止まれ』


「お前が決めるな」


 糸を引く。


 止まっていた水が流れだす。


 針は白い糸を引いて共同炉の裏へ走った。

 露出した根と、倒れかけた豆の根が結ばれる。


「根は根へ」


 次に、下の畑へ。

 沈んだ土と、崩れていない土。


「土は土へ」


 針が西の石段へ届いた瞬間、平石から人の腕ほど太い黒い筋が立ち上がった。

 三姉妹の家へ伸び、マルセラの胸に潜ろうとする。


「そこ!」


 イリナの声が裂けた。


 リュカは糸を手繰った。

 西の石段から針が抜け、手元へ戻る。

 戻った針を、そのまま黒い筋へ投げた。


 針は声を貫いた。


 幾百もの命令が一度に響く。


『黙れ』

『立て』

『産め』

『守れ』

『代われ』


 家の奥へ運ばれる途中で、マルセラが椅子の上で身体を折る。


 アニカとヴェラは椅子を引く手を止めず、イリナは母の肩を抱え直した。

 椅子を引きながら、アニカが叫んだ。


「母さん、戻らなくていい!」


 言ってから、首を振る。


「違う。戻らないで。私たちのために、そこにいて」


 マルセラの指が、椅子の肘を一度叩いた。


 はい。


 黒い筋が揺らぐ。


 リュカは白い糸を、その隙間に通した。


「人を土地に縫うな」


 声は返事をしない。

 ただ、十九年使い続けた道を求めて、マルセラへ伸びる。


「人を起点にするな」


 リュカが糸を引く。


「裂けた土には、土を当てろ」


 白い糸が黒い筋を二つに裂いた。

 片方は家へ届く前に土へ沈み、片方は平石へ引き戻される。


 黒い筋を貫いた針は、白い糸を引いて西の杭穴へ走り、土へ潜った。


 村の周りに、巨大な縫い目が浮かび上がる。


 杭の穴と穴を結ぶ輪ではない。

 水と水。

 根と根。

 崩れた土と、崩れずに残った土。

 切り離されていたもの同士が、白い糸で縫い合わされていく。


 黒い命令が、行き先を失った。


『伏せろ』


 豆はもう立たない。

 だが、地面もそれ以上沈まない。


『来い』


 転がっていた岩が止まる。


『黙れ』


 雨は土を打ち続けた。


 リュカは村を渡る白い縫い目を見た。

 水、根、土を縫った糸は、どれも平石の縁で止まっている。

 黒い声だけが、その内側から噴き上がっていた。


「最後はここだ」


 リュカが糸を手繰る。

 西の杭穴から針が飛び出し、白い縫い目を逆に走って掌へ戻った。


 リュカが針を割れ目へ下ろす。


『上がれ』


 針の下で、平石の片側がせり上がった。

 針先が石に弾かれる。


 リュカは左手へ糸を一巻きし、右手の針を押し戻した。

 そのまま平石の割れ目へ突き立てる。


 白い糸がすべての縫い目を走った。


 一瞬、谷の底から空まで、巨大な布を裏返したように白くなる。


 リュカの外套だけが風を受けなかった。

 雨粒が彼の周りを避け、空中の見えない輪郭をあらわにする。


 遠い空で、何かがこちらを向いた。


 リュカは顔を上げない。


「だから嫌いなんだ、こういう力は」


 村じゅうを渡った一本の糸を引いた。


 大地の裂け目が閉じる。


 せり上がった石が、空いた窪みに落ち着く。

 水が低い方へ流れる。

 根が泥の中で絡み直す。


 最後まで残った声が、平石の下で叫んだ。


『守れ』


 リュカは糸を結んだ。


「誰か一人に押しつけるな」


 結び目が土へ沈む。


 黒い声は行き先をなくし、雨の中でほどけた。

 白い糸も端から光にほどけ、跡を残さず消えた。


 リュカは平石から針を抜き、土を拭って鞄へ戻した。


 音が戻った。


 水音。

 泥を踏む音。

 折れた支柱が倒れる音。

 バルドの荒い息。


 下の畑はなくなっていた。

 共同炉の壁には亀裂が入り、西の石段は半分崩れている。


 それでも、家々は立っていた。


 三姉妹も立っていた。


 イリナは自分の耳を押さえている。

 アニカは自分の声で妹たちの名を呼ぶ。

 ヴェラは呼ばれてから、自分で二人の方へ歩いた。


 東の雲の下が、わずかに白んだ。


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