第十二話 静けさを強いられる村(8)
夜明け前、雨が少し弱くなった。
雲はまだ谷を覆っている。
東の空も暗い。
村人は七組に分かれた。
それぞれの結界杭へ、近い家の者が向かう。
木槌、梃子、縄、油布。結界を守るために使ってきた道具を、今夜は抜くために持った。
バルドは中央の平石に残った。
七本の杭が外れる順を、図で確かめる。
「低い方からだ」
老人は言った。
「上を先に抜くと、沈んだ声が水路に集まる。高さの順は、南西、東、南、南東、北、北西。西が最後だ」
七つの持ち場では、縄や梃子を握る手だけが動いた。
南西の段で、縄を握る男が一度だけ大きく息を吸った。
「聞こえたか」
バルドが少し大きく言う。
南西の段から、男が答えた。
「聞こえた!」
男の声は谷を上がってきたが、入口の銀釘は一本も震えなかった。
「よし。家々の紐は全部外れた。これで新しい声は結界へ入らない」
バルドが言った。
「七本が立っている間に銀具を外して平石へ置けば、残った力は人ではなく銀具を通って地へ抜ける」
三人は互いを見た。
アニカが先に笑った。
「最後まで、よく働くね」
喉の銀板を外す。
細い鎖が首を離れた瞬間、アニカの口から何人分もの息が漏れた。
言葉にはならない。咳と、ため息と、飲み込まれた泣き声が混じっていた。
アニカは銀板を平石に置いた。
イリナも耳当てを外す。
耳の後ろに入った銀釘に、指を掛けた。
「自分で抜ける?」
ヴェラが聞く。
「やってみる」
イリナは右の銀釘を抜いた。
血が一滴落ちる。
村じゅうの音が右耳に押し寄せ、体が傾いた。
ヴェラが肩を出す。
「肩、貸そうか?」
イリナは抜いた銀釘を平石に置いた。
左の銀釘へ伸ばしかけた手を止め、それから自分でヴェラの肩に置いた。
反対の手で、左の銀釘も抜く。
今度は声が遠くなった。
「静か?」
アニカが聞く。
「違う。近い音と遠い音が、ちゃんと離れた」
イリナは初めて、目の前を落ちる雨粒一つを目で追った。
ヴェラは足首の革帯を解いた。
中から、細い銀の輪が出る。
革は、足を支えるためのものではなかった。
銀輪が皮膚に直接食い込まないよう、間に挟まれていた。
「切る?」
アニカが聞く。
「切ってくれる?」
「いいよ」
アニカは小刀の刃先を銀輪の継ぎ目に差し込んだ。
一度では開かない。
ヴェラが反対側を持つ。
「一緒にやる?」
「やる」
二人で力を掛けた。
銀輪が弾け、平石の上に落ちた。
ヴェラは右足を上げ、下ろした。
次に左足。
「私が動かした」
「見れば分かる」
アニカが言う。
「それ、旅人の言い方」
「嫌だった?」
「少し」
三人の印が平石に並んだ。
耳の銀釘。
喉の銀板。
足の銀輪。
バルドが共同炉から運んだマルセラの古い起点輪は、その向こうに置かれている。
どれも、もう人の身体にはついていなかった。
「南西、抜くぞ!」
声が上がった。
バルドが頷く。
南西の結界杭に縄が掛けられた。
男三人と女二人が引く。
杭はすぐには動かない。
何十年も地脈に力を逃がし、根のように土に食い込んでいる。
「もう一度!」
今度は皆が声を合わせた。
杭が抜けた。
地面の下で、何かが息を吸った。
下の水路が止まった。
流れが細くなったのではない。
傾斜の途中で、水だけが透明な板になったように動かなくなる。
その水面から、古い男の声がした。
『止まれ』
何代前の声か分からない。
村人が水路へ駆け寄りかける。
「持ち場を離れるな!」
バルドが叫んだ。
人へ向けられたはずの古い命令は、もう誰の身体にも届かず、水だけを従わせていた。
アニカは口を閉じたまま、イリナは水面の声に耳を向け、ヴェラは自分で選んだ場所に立っていた。
代わりに、平石の下から低い唸りが上がった。
「次、東!」
東の杭が抜ける。
豆畑が一斉に地面に伏した。
茎は折れていない。見えない手に押さえられたように、葉だけが土に貼りつく。
『伏せろ』
今度は女の声だった。
畑の者が豆へ手を伸ばす。
「起こすのはあとだ!」
水門の男が言った。
「今は杭を抜く!」
水門の男は畑の者を持ち場へ戻した。ほかの場所でも、縄を握る者たちが次に抜く杭を確かめた。
南の杭。
南東。
北。
抜くたび、土地から古い言葉が一つずつ戻った。
『来い』
小石が平石へ向かって転がる。
『沈め』
畑の端が指一本ぶん下がる。
『黙れ』
雨音が一瞬だけ消えた。
それでも村人は杭を抜いた。
五本目が倒れた時、共同炉の屋根が軋んだ。
「北西、抜くぞ!」
六本目の杭が抜ける。
『上がれ』
井戸の水が縁まで盛り上がった。
残るのは西の杭だけだった。
最も古く、最も深い。
マルセラが初めて起点に立った夜、バルドが自分で銀線を巻いた杭だ。
バルドは西の畑へ向かった。
「私が抜く」
アニカが後ろから呼ぶ。
「一人で抜ける?」
バルドは足を止めた。
「抜けん」
「なら、一緒にやる」
アニカが縄を持った。
イリナも続く。
ヴェラは梃子を杭の根元に差した。
ロッタ、水門の男、入口の紐を最後に外した女も縄を握った。
リュカは平石に残り、鞄を開けた。
細い針が一本。
白とも銀ともつかない糸。
まだ何も打たない。
結界が残っている間は、土地の裂け目が見えない。
ここで魔法を使えば、古い仕組みを強く縫い直すだけになる。
「抜くぞ!」
バルドの声が雨を越えた。
西の杭に、皆が力を掛ける。
ヴェラが梃子を押した。
自分で選んだ足場に両足を置く。
杭が傾く。
アニカの手から縄が滑る。
イリナがすぐ下を持ち直す。
「もう一度!」
今度はアニカが呼んだ。
全員が引いた。
西の杭が、土から抜けた。
七本目が倒れる。
村を囲っていた銀線の音が消えた。
一拍だけ、何も起きなかった。
結界はなくなった。
人柱も、もういない。
次の瞬間、平石が中央から割れた。
黒い声が、地面から噴き上がった。




