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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十二話 静けさを強いられる村(7)

 三つの案を聞き終えると、水門の男は両膝に手を置き、ロッタは眠る子を抱き直した。


 共同炉に集まった者たちの視線は、炉の周りを行き来した。

 焦げた屋根。

 濡れた薪。

 ロッタの腕の中で眠る子ども。


 どれも、結界が守ったものだった。


「一人に戻せば、今までどおりになるのか」


 水門にいた男が聞いた。


「起点に耐えられる間だけは、今までどおりになる」


 バルドが答えた。


「何年だ」


「分からん」


 男はアニカを見た。

 すぐ目をそらす。


「三人のままなら、結界はどうなる」


「結界はもっと安定する」


 バルドは図の三つの印を指した。


「一人が倒れても、残る二人が受ける。今夜のような火でも、水でも、声は途切れん」


「それは、いいことなのか」


 ロッタが聞いた。


 ロッタの手が、眠る子の背で止まった。バルドは図から顔を上げなかった。


 子どもは助かった。


 同時に、アニカの喉には血が滲み、イリナは耳当てを外せず、ヴェラの足首は革の下で腫れていた。


「私でいいと言った」


 アニカが立ち上がった。


「今夜、一人に戻せるなら戻して。イリナは耳の銀釘を抜ける。ヴェラも足輪を切れる」


「座って」


 イリナが言った。


 ヴェラの膝が先に曲がりかけた。

 アニカの足も、炉の前へ戻ろうとする。


 イリナは顔を歪めた。


「……お願い。二人とも、今は座ってくれる?」


 ヴェラは自分で座った。

 アニカは立ったまま、妹を見下ろした。


「決めるのは村だよ」


 イリナは耳当ての上から両耳を押さえた。


「アニカが一人で引き受ければ、村の人たちは選ばずに済む」


「あんたは何が聞こえてる」


 イリナは村人たちを見た。


「アニカが自分を選んだ時、何人も息を吐いた。口には出さなくても、ほっとしたのが分かった」


 共同炉の中で、薪が崩れた。


 ロッタの腕が、眠る子の背をきつく包んだ。

 水門の男がアニカから目をそらし、長く息を吐いてから言った。


「責めてるわけじゃない」


「責めていい」


 ロッタが言った。


「うちの子は三人に助けられた。だから、結界を残してくれと言いたい」


 ロッタは眠る子の髪に頬を寄せた。


「でも、その言葉を三人の前で言えないなら、残していい仕組みじゃない」


「お前の子だけじゃない」


 別の男が言った。


「結界を止めれば、下の畑は流れるかもしれん。冬の豆がなくなれば、子どもも年寄りも腹を減らす」


「分かってる」


「分かってない。畑を失ってから、三人を恨まないと言えるか」


 ロッタは眠る子の毛布から落ちた手を包み直した。


 リュカは、炉の外で雨に打たれる豆畑を見た。

 雨粒が豆の葉を泥に伏せている。


「今夜、止めると言っても、畑が崩れた朝には誰かを責める。冬の空腹まで消えるわけじゃない」


「だから帳面を残す」


 バルドが言った。


 油紙の帳面を石床に置く。


「書くのは、誰がどの案を選んだかじゃない。結界を止めたあと、何が失われ、誰の家に何を回すかだ」


「もう止めると決めたのか」


 男が聞いた。


「私はまだ決めていない」


 バルドは答えた。


「結界守が最後に決めれば、また一人に預けることになる」


 老人は図を中央へ押し出した。


「入口の釘を持つ家が、一軒ずつ決める」


 雨の向こうで、巫女の家の扉が鳴った。


 ヴェラが立つ。

 今度は誰にも引かれていない。


「母さん」


 三人は共同炉を出た。


 マルセラは家の入口にいた。


 椅子から下り、床を這って入口まで来ている。

 片腕で古い起点輪を胸に押さえ、空いた手で身体を引いてきたのだ。


 アニカが膝をつく。


「何で持ってきたの」


 マルセラは銀輪を娘に差し出した。


「いらない」


 アニカは受け取らない。


 マルセラの手が、さらに前へ出る。


「私に戻せって?」


 マルセラは首を横へ振った。


「じゃあ、私がつけろって?」


 また首を振る。


 イリナが母の指を見た。


 銀輪を握っているのではない。

 差し出したまま、手放そうとしている。


「捨てて、って」


 マルセラの目がイリナへ向いた。


 一度、閉じる。


 アニカは銀輪を受け取った。

 首にはつけない。


 ヴェラとイリナがマルセラを椅子に戻した。

 近くにいた村人二人が椅子を持ち、共同炉まで運ぶ。


 アニカも共同炉の前へ戻り、銀輪を石床に置いた。


 十九年、村を守った輪だった。

 マルセラの声と耳と足を奪った輪でもある。


 村人たちは、それを囲んだ。


「結界は、今も働いている」


 水門の男が言った。


「結界がなければ、今夜の火を消すのも、子どもを助けるのも間に合わなかった」


「そうだ」


 リュカが答えた。


 男はリュカを見た。


「それでも止めろと言うのか」


「言わない」


「では、どうしろと」


「俺に聞くな」


 男の眉が上がった。


「旅人は明日にはいなくなる。畑が崩れても、冬に豆が足りなくても、俺はここで食わない」


 リュカは三人を見た。


「残すなら、三人に頼め。村を守るために、母親と同じになってくれと、目を見て言え」


 水門の男はアニカを見返せず、ロッタは子どもの髪に顔を埋めた。


 共同炉では、濡れた薪の弾ける音だけがした。イリナは、その合間に落ちる息を全部聞いていた。


 バルドが古い銀輪を拾った。


「マルセラ一人で済む」


 老人は低く言った。


「十九年前、私がそう言った」


 マルセラは椅子に座ったまま、バルドを見た。


「今度は三人で済むと言っている」


 バルドは銀輪の内側に残った傷を親指でなぞった。


「この次は、何人なら済んだことにする」


 老人は銀輪を図の中央に置いた。


「私は止める側に立つ」


 最初に動いたのはロッタだった。


 家へ戻り、入口の銀釘から細い紐を外してきた。

 共同炉の床に置く。


「うちは止める」


 次に、水門の男が立った。


「畑が流れたら、恨むかもしれん」


 男は床の紐を見ながら言った。


「それでも、三人を残して平気な顔をするよりはましだ」


 自分の家の紐を取りに行く。


 一軒ずつ、入口の紐が床に増えた。


 まだ、座ったままの者もいた。


 アニカは、立った者が置いた紐だけを見た。

 イリナは、座った者たちの浅い息を聞いても顔を上げなかった。

 ヴェラは両手を自分の膝に置いたまま待った。


 やがて、最後の家の女が立った。


「止める」


 女は泣いていた。


「怖いけど、止める」


 バルドが図を畳んだ。


「夜明け前、まず三人の銀具を身体から外して平石に置く。それから七本抜く。最後に平石を切る」


 皆の目がリュカへ向いた。

 水門の男が口を開いた。


「地に戻る声を鎮められるか」


「分からない」


「魔術師なのか」


「旅人だ」


「何ができる」


 リュカは平石の方を見た。


「結界を外したあとで、裂けたところを閉じる。どこまで残るかは分からない」


「失敗したら、何が起きる」


「土地が荒れる」


 床の紐は一本も減らなかった。


 村人二人が、マルセラの椅子を巫女の家へ戻した。

 古い起点輪だけは、図とともに共同炉に残した。


 アニカが、床に積まれた入口の紐を一本ずつ束ね始めた。


 命令されず、ヴェラが反対側を持った。

 イリナは結び目の擦れる音を聞き、弱い紐だけを脇に分けた。


 束ねられた紐が、三人の手のあいだで結界の図から離れていった。


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