第十二話 静けさを強いられる村(6)
ロッタの子は、上の山羊囲いへ行ったまま戻っていなかった。
雨が強くなる前、山羊囲いの入口を閉じる綱を締めに行ったという。
囲いは水路より高い。崖際の細い道を通る。
「何歳だ」
リュカが聞く。
ロッタは指を八本立てた。
イリナが耳当てを外した。
「やめな」
アニカが腕を掴む。
「聞かなきゃ探せない」
「私たちまで同じものを聞く」
「ほかに探す方法がある?」
アニカの指が緩んだ。
イリナは雨の中で目を閉じた。
村じゅうの音が耳に入る。
屋根を打つ雨。
水路の石。
共同炉で灰を寄せる音。
家々の扉が閉まる音。
山羊の鳴き声。
その下に、小さく石を叩く音があった。
三度。
間を置いて、二度。
「囲いじゃない」
イリナが言う。
同時に、アニカとヴェラも顔を上げた。
「古い逃がし溝の石蓋が落ちた」
三つの声が重なっていた。
ヴェラが走った。
今度は足輪の鎖を井戸につないでいない。
止めるものはない。
「待って!」
アニカが叫ぶ。
ヴェラの足が一瞬止まり、次の瞬間にはさらに強く前へ出た。
アニカの「待って」と、子どもの方へ急がせる結界の力が、同じ身体を逆向きに引いている。
リュカはアニカの肩を押さえた。
「追うな。言葉が増える」
「ヴェラを一人で行かせられない」
「俺が行く」
「あんたは場所を知らない」
「イリナ」
呼ばれたイリナは耳を押さえたまま、山側の石段を指した。
「白い石を二つ越えて、折れた桑の右。溝の蓋が落ちてる」
「分かった」
リュカは走った。
旅杖を突き、濡れた石段を二段ずつ上がる。
ヴェラの背はすぐ先にある。足は速い。速いが、走り方が自分のものではない。曲がるたび肩が遅れ、足だけが先へ引かれていた。
リュカは口を閉じたまま、さらに歩幅を広げた。
白い石を二つ越える。
折れた桑。
その右で、土が半分崩れていた。
古い逃がし溝の石蓋が一枚落ち、黒い穴が開いている。
ヴェラはその穴へ下りようとしていた。
中から、石を叩く音がする。
三度。
二度。
「そこにいる?」
ヴェラが穴へ向けて聞いた。
「いる」
子どもの声が返った。
弱い。
それでも、自分の声だった。
「足が石の下。動かない」
ヴェラは穴に片足を入れた。
リュカは追いつき、旅杖をヴェラの前へ横に差し出した。
「穴の縁が崩れてる。今入れば二人とも埋まる」
リュカは杖先で穴の縁を示した。
雨水が、崩れた土の下へ吸い込まれている。
蓋石の一枚が斜めに落ちかけ、穴を半分塞いでいた。左端の下には、崩れずに残った石枠がある。ヴェラが蓋石に乗れば、そのまま穴へ落ちる。
ヴェラは自分の足元を見た。
一度、穴から足を抜く。
「何をすればいい」
リュカは穴の左右を見た。
「左端の下に杖を差して、石枠を支点にして持ち上げる。おまえは、どこからなら手を掛けられる」
ヴェラはしゃがみ、土に手をついた。
蓋石の右端を揺する。
「こっち。下に根がある」
「分かった」
ヴェラは頷いた。
リュカは旅杖の先を蓋石の左端へ差し込み、杖の中ほどを石枠に当てた。
ヴェラは根のある右端に両手を掛ける。
リュカが杖の手元を押し下げた。左端が浮くのに合わせ、ヴェラが右端を持ち上げる。
土が崩れた。
蓋石は穴へ落ちず、斜めに持ち上がった。
穴の中で、子どもの顔が見えた。
足首の上に小石が重なっている。大きな蓋石ではない。
「手、届く?」
ヴェラが聞く。
「届く」
「石を一つずつ、こっちへ渡せる?」
「できる」
「じゃあ、やってみて」
子どもは自分で頷き、手の届く小石から動かした。
ヴェラはそれを受け取り、穴の外に置く。
リュカは杖の手元を押さえ込み、蓋石を持ち上げたまま支えた。
雨が腕を伝う。
旅杖が軋む。
下から三つ目の石を退けた時、子どもの足が抜けた。
ヴェラが両腕を伸ばす。
「掴まれる?」
「うん」
子どもは自分からその腕に掴まった。
ヴェラは引き上げた。
子どもの身体が穴を出た瞬間、村の結界が低く鳴った。
アニカの声が、雨の道を上がってきた。
「ヴェラ、子どもを連れて戻って」
ヴェラの腕が、子どもを強く抱いた。
「痛い」
子どもが言う。
ヴェラはすぐ腕を緩めた。
「ごめん」
「今のは、アニカ?」
「声はね」
リュカは押し下げていた杖の手元をゆっくり上げ、蓋石を元の位置へ下ろしてから、杖先を隙間から抜いた。
ヴェラは自分の指を見た。
戻れと言われた力が、まだ指の関節に残っている。
「歩ける?」
子どもは片足を地面についた。
顔をしかめる。
「少し」
「なら、肩を貸す。掴まるかどうかは自分で決めて」
子どもはヴェラの肩に腕を回した。
帰り道、ヴェラは急がなかった。
結界は何度も足を村へ引いたが、そのたび子どもの歩幅を見て、自分で速度を落とした。
*
井戸端へ戻ると、ロッタが子どもを抱きしめた。
「ありがとう」
まずヴェラに。
次にイリナに。
最後にアニカに。
ロッタはリュカにも頭を下げた。
「三人がいなかったら、見つからなかった」
ロッタは、イリナの耳当てに滲んだ血を見た。
次に、アニカの喉の銀板に目を移す。
ヴェラの肩には、子どもの泥のついた手形が残っていた。
ロッタは三人に、もう一度頭を下げた。
子どもは母の腕の中で、痛めた足を自分で曲げ伸ばしした。
三人はまた、平石の前で同じ姿勢になっていた。
左耳を肩に寄せ、右手で喉を押さえ、右足を半歩前へ出している。
アニカの声で、三人が同時に言った。
「間に合った」
ロッタは子どもを抱いたまま泣いた。
口を子どもの濡れた髪に押しつける。
泣き声は出ず、息だけが漏れた。
イリナの肩が一度震えた。
*
夜半前、村人は共同炉に集まった。
火を消したばかりの屋根の下だ。
焦げた薪の匂いが残っている。
アニカ、イリナ、ヴェラは炉から少し離れて座った。
マルセラは家に残った。扉を開け、共同炉の火が見える位置に椅子を寄せてある。
バルドが七本の杭の図を炉脇の石床に置いた。
「選べるのは三つだ」
老人は言った。
「三つの起点をこのまま使う。そうすれば結界は持つ。だが三人とも、マルセラと同じ役を受ける」
アニカは喉の銀板を握った。イリナは耳当てに手をやり、ヴェラは足輪の革と足首の間に指を差し込んだ。
「二つ目。三つを切り、一人の起点に戻す」
アニカが顔を上げた。
「私でいい」
「よくない」
イリナが即座に言った。
「まだ最後まで聞いてない」
「聞かなくても同じ」
「私は喉を使ってる。母さんの輪にも一番近い」
「近いから何」
「戻しやすい」
ヴェラが二人の間に手を置いた。
「今、決めないで」
アニカの口が閉じる。
バルドは三つ目を言った。
「結界を止める」
共同炉の火が鳴った。
「止めれば、地に沈めた声が戻る。水路も畑も、どうなるか分からん」
「どれくらい荒れる」
水門の男が聞いた。
バルドはリュカを見た。
リュカは答えた。
「村が残るとは言えない」
雨音だけが、炉の屋根を叩いていた。




