第十二話 静けさを強いられる村(5)
火が消えたあと、村人たちは巫女の家へ必要な物を届けに来た。
ロッタはアニカの喉に塗る油を、ロルフはイリナの新しい耳当てを持ってきた。
水門にいた男は、ヴェラの足輪に差し込む柔らかい革を一枚持ってきた。
「置いていくね」
ロッタは油の瓶をアニカに渡し、燃えた共同炉へ戻った。
「無理しないで」
ロルフは耳当てをイリナに渡し、家の外へ出た。
水門の男は革をヴェラの膝の上に置いた。
「何かあったら呼んで」
男は革から手を離す前に、ヴェラの足輪を見た。
アニカは礼を言い始めた。
イリナは耳当てを受け取った。
ヴェラは革の厚さを指で確かめた。
アニカが礼を言い終える前に、水門の男も雨の石段を下りた。
炉の火を小さくすると、雨音が家の中へ入ってきた。
イリナは湯を張った小鍋を耳の近くに置いた。煮える直前の細かな音が、入口の向こうから来る声を少し隠す。
アニカはロッタの油を喉に塗った。
匂いが強い。苦い草と獣脂を混ぜたものだ。
「臭い」
ヴェラが言う。
「鼻まで良くなった?」
「近いから」
「それ、イリナの言い方」
「借りた」
「やめてよ。そのうち私の口からも出そう」
アニカが言うと、イリナが小鍋越しに口を挟んだ。
「今のは、ちゃんとアニカの声」
「確認しなくていい」
「確認しないと、本人が一番分からなくなる」
アニカは油の蓋を閉じた。
「私の声は分かる」
「母さんも最初はそう言ってた」
部屋が静かになった。
マルセラは椅子の上で目を閉じていた。
眠ってはいない。娘たちの声の方へ、顔だけを向けている。
ヴェラが足輪に革を差しながら言った。
「昔、母さんが自分の声を分からなくなった時、どうしたの」
イリナは小鍋の湯を見た。
「私たちに聞いた」
「何て」
「今のは誰の声だった、って」
アニカは喉の銀板を外しかけた。
だが、入口の釘が鳴るたび、指が止まる。
「外すなら、今じゃない」
リュカが言った。
アニカが睨んだ。
「簡単に言うね」
「入口の釘が鳴るたび、指が止まってる」
「外した瞬間に声が来たら、イリナに全部入る」
「私なら平気」
イリナが言う。
「そういう嘘、耳が良くなくても分かる」
アニカは銀板を戻した。
ヴェラが二人の間に、自分の足を差し出した。
「新しい革、どっちが縫う?」
「自分で縫いな」
「手が届きにくい」
「頼んで」
ヴェラは足輪へ伸ばした手を引き、アニカを見た。
「アニカ。縫ってくれる?」
「いいよ」
アニカはすぐ答えた。
口では面倒がるのに、針を持つ手は早い。
古い革を外し、足首との間に指一本ぶんの隙間を残して、新しい革を当てる。針を通すたび、ヴェラは足を動かさないよう自分で膝を押さえていた。
「痛い?」
「痛い。でも、今のは私の痛み」
「変な答え」
「大事な答え」
アニカの針が一度止まった。
「そうだね」
今度は少しゆっくり縫った。
リュカはその手元を見ていた。
入口の銀釘が鳴るたび、三人の目がそちらへ向いた。
イリナの耳当ても、アニカの銀板も、ヴェラの足輪も、まだ身体にある。
マルセラの首には、起点輪の痕だけが残っていた。
「平石を見たい」
リュカが言った。
「今から?」
「今だからだ」
アニカは足輪の最後の縫い目を結んだ。
「私も行く」
「喉は大丈夫か」
「叫ばなければ平気。自分の足で歩くだけならね」
ヴェラが顔を上げる。
「それ、私への嫌味?」
「違う。たぶん」
「たぶんなら半分嫌味」
イリナも耳当てを結び直した。
「私も行く。石の下の音が、家まで来てる」
マルセラが椅子の肘を三度叩いた。
「三人で行け、だって」
イリナが言う。
マルセラは首を横へ振った。
「違う。三人とも行くな、かな」
アニカが言う。
マルセラはさらに強く肘を叩いた。
ヴェラが母の前にしゃがむ。
「心配?」
マルセラの指が、娘の頬に触れた。
「心配されても、行く」
ヴェラは立ち上がった。
今度は誰の言葉にも引かれていない。
*
平石は井戸のすぐ脇にあった。
昼にはただの作業台に見えた。
雨の中では、石の縁に刻まれた古い溝が黒く浮いている。
七本の結界杭から来た銀線は、地中を通り、この石の下に集まっていた。
石の中央には、円い窪みが一つ。
マルセラが起点輪をつけて立っていた場所だ。
今は窪みの周りに、三つの小さな金具が打たれている。
耳。
声。
足。
三人はそれぞれの金具から距離を取った。
「最初に分けた夜は、ここに三人で立った」
アニカが言う。
「怖かったか」
「イリナが吐いた」
「そこまで言わなくていい」
イリナが言った。
「ヴェラが足輪を二本切った」
「革が古かった」
「私は最初の声で喉を潰した」
「それは覚えてる」
ヴェラが言った。
「私だけ格好悪い」
イリナは耳の布を指で押し上げた。
「吐いた場所まで覚えてるから安心して」
アニカが言った。
「何を安心するの」
三人は雨の中で、しばらく言い合った。
その時は、誰の声も結界に入らなかった。
命令も危急も含まれていない、ただの言い合いだったからだ。
リュカは石の縁に膝をついた。
古い溝の底に、黒いものが詰まっている。
泥ではない。
炭でもない。
指を近づけると、耳の奥でいくつもの声が擦れた。
走れ。
伏せろ。
来い。
止まれ。
黙れ。
何代分もの命令が、言葉の形を失って地中へ沈んでいる。
「触らないで」
イリナが言った。
「聞こえるのか」
「今、全部こっちを向いた」
リュカは指を引いた。
「結界を止めれば、これが出る」
アニカが平石を見た。
「母さんから聞いた。畑が枯れるって」
「枯れるだけじゃない。土地そのものが、沈んだ言葉どおりに動く」
リュカは水路を見た。
ヴェラの足が、わずかに後ろへ下がった。
「止まれと言われた水は止まる。伏せろと言われた豆は伏せる。来いと言われた石は、この平石へ寄る」
アニカは喉の銀板を握った。
「だから、止められない」
「そうだ」
「直せる?」
リュカは平石の七本の溝を、もう一度数えた。
針で結界の綻びだけを塞げば、石の下に沈んだ声まで古い仕組みに閉じ込め直す。
その仕組みは、三人をまた起点に縫い留める。
結界を外せば、土地が開く。
「結界は直せる」
「三人も直せる?」
「直らない」
雨粒が、三人の間に並ぶ金具を叩いた。
アニカが一度だけ笑った。
笑いはすぐに咳に変わった。
「そこ、迷わず言うんだ」
「嘘を言っても喉は戻らない」
「嫌な旅人」
「よく言われる」
イリナが平石の向こうを見た。
「誰か来る」
雨の石段を、村人が一人上がってきた。
共同炉を守ったロッタだった。
息を切らしていたが、唇は固く結んでいる。
片手には、濡れた子どもの上着があった。
ロッタは三人を見ると、濡れた上着を掲げ、空いた手で上の水路を指した。
アニカの喉が、ロッタより先に動いた。
「子どもが一人、戻ってない」
イリナとヴェラの声が、アニカの声に重なった。




