第十二話 静けさを強いられる村(4)
共同炉の屋根から、黒い煙が上がっていた。
雷が落ちたわけではない。
風に煽られ、炉から舞い上がった火の粉が、乾いた屋根板の隙間に入ったのだ。
炉番の女が最初に気づき、「火だ」と叫んだ。
その一声は、入口の銀釘から西の杭へ走り、七本の結界杭を順に渡って、中央の平石に集まった。
本来なら、イリナが聞く。
アニカが必要な言葉に整える。
ヴェラが余った強制力を足輪に落とす。
今夜は違った。
「共同炉の屋根が燃えてる」
アニカが走りながら言う。
「共同炉の屋根が燃えてる」
その横で、イリナの口も、アニカと同じ形に動いた。
二人の足は、歩幅まで揃っていた。
結界を通った「火だ」の声に足を引かれ、ヴェラは二人より先に共同炉へ着いていた。肩に掛けていた鎖を足首から外し、炉端の布を水甕に浸して、自分で梯子を上った。
屋根では、火を押さえようと濡れた布を焦げ始めた板にかぶせている。
リュカもアニカたちより先に着き、旅杖を共同炉の壁に立て掛けて、消火を手伝おうと梯子をほとんど上りきっていた。
「ヴェラ、下りて!」
言い方を選ぶより先に、アニカは叫んでいた。すぐに口を押さえたが、声はもう結界へ入っていた。
ヴェラの足が屋根の縁へ向いた。
下りる場所ではない。
一歩出れば、石敷きへ落ちる。
リュカは梯子の上から手を伸ばし、ヴェラの腕を掴んだ。
踏み出しかけた身体を、屋根の内側へ引き戻す。
ヴェラはリュカに掴まれた腕で身体を支え、自分で屋根の中央へ一歩戻った。
同時に、イリナの膝が沈んだ。
アニカ自身の足も、屋根に掛かった梯子へ向かった。
リュカはヴェラの腕を放し、口を閉じたまま梯子を下り、壁の旅杖を取った。
言葉を足すほど、三人の身体を動かす命令が増える。
火はまだ、屋根板一枚の端にとどまっている。
炉のそばには水甕が二つ。下ではバルドが、村人たちを手で分けていた。
水甕の前で、炉番のロッタが左の甕へ手を伸ばす。
梯子の脇では、村人のロルフが片手を梯子の脚に掛けた。
「ロッタ、左の甕の水を焦げた板へかけて。ロルフは梯子を押さえて。ほかの人は炉から離れて」
アニカが、二人の名を呼び、ほかの者へも続けた。
イリナとヴェラの声が、半拍ずつ遅れてその命令を最初から繰り返した。
三度目の「炉から離れて」が消えるまで、アニカは次の言葉を足さなかった。
ロッタが左の水甕を抱える。
ロルフが梯子の脚に肩を入れる。
ほかの者は炉から下がり、それぞれの家の火と入口へ戻った。
ロッタが水を投げる。
濡れ布の下で火が白く鳴った。
ヴェラが濡れ布で、焦げた屋根板をもう一度押さえる。
ロルフが梯子を押さえ、ヴェラは自分の足で横木を踏んだ。
ロッタが右の水甕からも水を浴びせた。
火は消えた。
屋根を焼いたのは、手のひら二つ分だけだった。
共同炉も、隣の家も無事だった。
火で怪我をした者はいなかった。
けれど、ヴェラが梯子を下りたところで、別の被害が出た。
最後の横木に足を置いたところで、三人の膝が同時に折れた。
ヴェラは梯子から落ちかけた。
ロルフが背中を受け止める。
アニカは炉の脇に片膝をついた。
イリナも、同じ姿勢で石敷きに手をついた。
三人とも右手で喉を押さえ、左の耳を肩に寄せ、右足だけを前へ出していた。
マルセラが平石の上で長く声を受けたあと、いつもそうしていた。
ロルフの手がヴェラの背で止まり、ロッタは空の水甕を抱え直した。
「アニカ」
炉番のロッタが近づいた。
三人の顔が同時に上がった。
ロッタは立ち止まった。
「……助かったよ」
アニカの口元が歪んだ。
「それ、今言う?」
「ごめん」
「謝るなら言わないで」
「でも、本当に助かったんだ」
ロッタは燃え残った屋根を見た。
「うちの子が、すぐ隣で寝てた」
アニカは口を開き、血のついた指を見て閉じた。
燃え残った屋根の向こうには、ロッタの子が眠る家がある。
アニカはその家から、膝をつくイリナと、ロルフに背を支えられたヴェラに目を戻した。
イリナが耳を押さえたまま言った。
「ロッタ。今は家へ戻って」
ロッタの右足が、子どものいる家の方へ半歩出た。
結界を通ったイリナの声に引かれたのか、自分で踏み出したのか、ロッタ自身にも分からなかった。
「分かった」
ロッタは小さく答え、炉を離れた。
ヴェラはロルフの支えから身を起こした。
自分の足で立てるか確かめ、右足を二度踏む。
「動く」
「誰が動かした」
リュカが聞く。
「分からない」
ヴェラはまっすぐ答えた。
「火を見て、上へ行かなきゃと思った。アニカの声が出る前に走ってた」
「私は、ロッタが叫ぶ前に火を聞いた」
イリナが続ける。
「屋根板がはぜる音がした。火が上がる前だった」
アニカは喉から手を離した。
指に血がついている。
「私は、ロッタが言う前から、隣に子どもがいるって知ってた」
アニカは血のついた指を握った。イリナは耳を押さえ直し、ヴェラは右足を見下ろした。
リュカは三人の姿を見比べた。
「役目が混ざったんじゃない」
バルドが顔を上げる。
「三つに分けた一人分を、元に戻そうとしてるんでもない。結界は三人とも、一人で村を支える人柱に作り直そうとしてる」
バルドが濡れた帽子を脱いだ。
「まず、家へ戻ろう」
「歩ける」
ヴェラが言う。
「分かってる。腕なら貸す」
アニカが言った。
「それなら、借りる」
ヴェラは自分からアニカの腕を取った。
イリナは反対側に立つ。
一歩目はアニカとイリナがヴェラを支えた。次の一歩ではイリナがよろけ、ヴェラがその肘を支えた。三人とも、自分の足で家へ戻った。
*
扉を開けると、マルセラは椅子から半分ずり落ちていた。
炉の横に置かれた古い箱へ手を伸ばしている。
蓋は開き、中には幅の広い銀輪が入っていた。
結界の声を一人へ集める起点輪だった。
マルセラが十九年、首につけていた。
アニカが駆け寄る。
「何してるの」
マルセラは銀輪を掴もうとした。
指がうまく閉じない。
「戻す気?」
マルセラは銀輪を指したまま動かなかった。
ヴェラが箱の前に膝をついた。
「母さん。頼まれても渡さない」
マルセラの目が細くなる。
「怒っても渡さない」
ヴェラは銀輪を箱の奥へ押しやった。
そのまま蓋へ手を伸ばし、縁に触れる前に手を引いた。箱は開いたまま残った。
隠せば、なかったことになる。
出しておけば、また母の手が伸びる。
ヴェラは開いた箱の前から退かなかった。
アニカはマルセラの前に座った。
「三人に分けたの、間違いだったと思ってる?」
マルセラの指が動いた。
椅子の肘を一度叩きかけ、止まる。
イリナが母の顔を見た。
「答えなくていい」
「私は聞きたい」
アニカが言う。
「聞いて、どうするの」
「聞いたあと、どうするかは分からない」
「分からないなら、今は聞かないで」
「あんたは聞こえるから言える」
イリナの顔が強張った。
マルセラが椅子の肘を強く叩いた。
一度。
もう一度。
二人とも口を閉じる。
マルセラは震える指で、娘たちを順に指した。
イリナ。
アニカ。
ヴェラ。
最後に、自分の胸に指を置く。
それから、指を三本立てた。
三本とも、ゆっくり折った。
「三人とも、母さんと同じになる」
イリナの声が掠れた。
マルセラは目を閉じた。
マルセラの手は、そのまま膝に落ちた。
雨が屋根を打ち始めた。
村じゅうの入口で銀釘が鳴る。
結界は、火を消したあとのように落ち着いていた。
働き終えた道具の音だった。




