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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十二話 静けさを強いられる村(3)

 西の結界杭は、豆畑の外れに立っていた。


 人の背より少し低い。

 黒く焼いた樫の柱に、細い銀線が七周巻かれている。根元には白い石が三つ。雨除けの小さな屋根まで掛けてあった。


 祈るためのものではない。

 使い続けるための作りだった。


 アニカは杭へ着くと、屋根の下に手を入れた。


「冷たい」


「いつもは、もっと温かい?」


「雨の前でも、もう少し温かい」


 イリナは杭に触れなかった。

 半歩離れ、耳を澄ませる。


「下で鳴ってる」


「地面か」


「杭の中。母さんの声に似てる」


 アニカの手が止まった。


「何て」


「言葉にはなってない」


「なら、似てるだけ」


「似てるから嫌なんでしょ」


「耳がいい妹は面倒だね」


「口の悪い姉よりまし」


 アニカは杭へ向いたまま、イリナも半歩の距離を詰めなかった。


 リュカは杭の根元にしゃがんだ。


 三つの白石には、それぞれ違う印が刻まれている。

 耳。

 細長い板。

 足跡。


 その三つの間を、灰色の細い筋がつないでいた。


 リュカは灰色の筋を指した。


「この線は三年前からか」


 アニカもしゃがむ。


「傷?」


「継ぎ目だ」


「こんなの、先月はなかった」


 イリナの声が低くなった。


 灰色の筋は石に彫られていない。

 泥でも苔でもない。目を離すと消え、斜めから見ると、三つの印を一本の輪に縫い合わせるように浮かぶ。


 リュカは触れなかった。


「誰か、杭を直したか」


「村で触るのはバルドだけ」


「呼んだか」


「まだ」


 イリナが村側を見た。


「もう来る。膝をかばう足音」


 雨の中を、老人が上ってきた。


 片手に油布を巻いた道具箱を持ち、もう片方の手で短い杖をついている。濡れた肩を払うより先に、杭の銀線を見た。


「鳴ったか」


 老人が聞く。


「冷えてる」


 アニカが答えた。


「音は下」


 イリナが続ける。


 老人はそこで初めてリュカを見た。


「誰だ」


「旅人」


「それは見れば分かる」


「リュカだ」


「バルド。結界守だ」


 バルドは道具箱を杭の屋根に載せた。

 木槌、細い挟み、油を含ませた布を、その順に箱から取り出す。


「雷の前は冷えることがある」


「三つの印の間に、線が出てる」


 リュカが言うと、バルドの手が止まった。


「見えるのか」


「おまえにもな。手が止まった」


「見えていても、言わんことはある」


「これは黙って消える線じゃない」


 バルドは答えず、銀線を布で拭いた。


 線は切れていない。

 釘も緩んでいない。

 杭は古いが、手入れはされている。


 壊れているようには見えない。


「この杭は、声の力を地面に逃がす」


 バルドは布を動かしながら言った。


「谷は狭い。昔は一人が『走れ』と言えば、聞いた者の足が皆そちらへ向いた。獣より、人の声で死んだ者の方が多かった年もある」


「それで結界を張った」


「七本の杭で谷を囲い、入口の釘で声を拾い、中央の平石に集める。巫女が危急と命令を分け、必要な声だけ通す。結界を通った声を向けられた者は、その言葉どおりに身体を動かされる。余った力は地に逃がす」


「巫女は交代したのか」


 バルドの布が、銀線の同じ場所を二度通った。


「昔はな。巫女が平石に座るのは、嵐の夜だけだった」


 雨音が少し強くなった。


「やがて、水の多い季節も、冬に獣が下りる間も、巫女を平石に座らせるようになった。役目を替えるたびに結界が揺れた。替わりが遅れた日に、下の家が二軒流れた」


「それで、交代をやめた」


「その方が安全だった」


 バルドはようやくリュカを見た。


「マルセラ一人を巫女に据えてから、大きな事故は減った。あの子の耳が聞こえなくなるまで、十九年だ」


 アニカが杭から手を離した。


「今、その話をする?」


「旅人が聞いた」


「答えなくてもいい」


「答えないで済ませたから、おまえたちの代まで来た」


 バルドの声は強くなかった。

 アニカの指が、濡れた掌に食い込んだ。


 老人は道具箱の底から、小さな帳面を出した。

 油紙で何重にも包まれている。


「巫女に渡す豆。薪。喉の薬。耳当ての布。足輪の革。村が出したものは全部書いてある」


 帳面を開く。

 細かい字が、何年分も並んでいた。


「払ったから、借りが消えると思ったか」


 リュカが聞く。


 バルドは帳面を閉じた。


「消えん。だが払わなければ、もっと悪い」


「そうだな」


「結界は要る」


「三人を縛ったままでもか」


「村を守るにはな」


 バルドは村を振り返った。


 段々畑のあいだで、雨に濡れた人々が仕事を続けている。

 入口の銀釘が声の力を拾うから、子どもが泣いても、その泣き声で全員が家へ走ることはない。水の急ぎをアニカが通せば、呼ばれた者だけが動く。


 結界は、確かに村を守っていた。


「三人に分けてから、マルセラは平石を離れられた」


 バルドは言った。


「アニカは畑へ行ける。イリナは眠れる夜がある。ヴェラは井戸の鎖を外して家へ戻れる。前よりいい」


「前よりよかったのは、最初の二年だけ」


 イリナが静かに付け足した。


 バルドの口が閉じた。


 リュカは三つの白石を見た。


 耳の印から板の印へ。

 板の印から足跡へ。

 灰色の筋は、三つを分ける線ではない。


 三つとも同じ輪の中に入れる線だった。


「次に強い声が入れば、イリナだけが聞くとは限らない」


 リュカが言った。


 アニカが顔を上げる。


「さっき、ヴェラの足が動いた」


 ヴェラは家に残っている。アニカとイリナは、リュカを見た。


「アニカだけが喋るとも限らない。ヴェラだけが動くとも限らない」


 イリナの耳の布に、雨が一滴落ちた。


「三人とも、全部受けるってこと?」


「この線が閉じればな」


 バルドが灰色の筋を杖の先で示した。


「切れるのか」


「切れる。だが、この線だけ切るわけにはいかない」


「なぜだ」


「三つの石だけ切れば、逃げ場をなくした力が娘たちに入る」


 バルドは三つの石から杭へ杖を移した。


「では杭を止める」


「七本とも地脈に食い込んでる。止めれば、マルセラの十九年分どころじゃない。結界が吸った声が全部、土地へ返る」


 バルドは村を見た。


「水も、畑も、家も持たん」


 雷が落ちた。


 西の峰の向こうだった。

 白い光のあと、杭の銀線が七周すべて同時に震えた。


 村から声が上がった。


「火だ!」


 叫んだのは一人だけだった。

 だがイリナは耳を押さえ、アニカは喉を掴んだ。


 そして、ここにいないはずのヴェラの声が、二人の口から同時に漏れた。


「共同炉」


 アニカとイリナは、同じ方向へ一歩踏み出した。


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