第十二話 静けさを強いられる村(2)
アニカたちの家は、井戸から一段下り、村の共同炉から二軒離れたところにあった。
白い石壁と低い屋根。入口の左右には、ほかの家と同じように豆を干す籠が立てかけてあった。
違うのは入口だった。
上枠に銀釘が三本打たれている。
一本は耳の形に曲がり、一本は細い板を吊り、一本は床まで革紐を垂らしていた。
リュカが足を止める。
「入らないの」
アニカが振り返った。
「三本とも新しい」
「三年前に替えた」
「入口は古い」
「家まで替える金はないよ」
「釘はどこから来た」
「結界の手入れをしてるバルドから。飯の前に結界を数える客なんて、初めて見た」
「よく言われる」
「褒めてないよ」
アニカは扉を押した。
銀釘を避け、扉の右端に指を掛ける。木の色がそこだけ濃くなっていた。
家の中には炉が一つあった。
大鍋ではない。四人と客一人が食べれば、底が見える程度の鍋だ。豆と刻んだ根菜が煮え、干した魚の匂いが薄く混じっている。
炉の奥に、三姉妹の母親が座っていた。
髪はまだ真っ白ではない。黒い筋がところどころ残っている。
年も、老婆と呼ぶほどではなかった。けれど背は深く曲がり、両脚を毛布の中に入れたまま、椅子から立てない。
首には、幅の広い銀輪の跡があった。
耳の後ろにも古い傷がある。
毛布の端から出た足首には、革帯では隠しきれない黒い痣が一周していた。
アニカの喉、イリナの耳、ヴェラの足。
三人へ分けられた印が、母親の身体にはすべて残っていた。
「母さん。ただいま」
アニカが声を落とした。
母親は顔を上げた。
視線は娘三人を順にたどり、最後にリュカで止まる。
アニカが母の目の先を追った。
「旅人のリュカ」
ヴェラが水差しを取った。
母親の唇が動いた。
音は出なかった。
そのあとで、母親が椅子の肘を指で二度叩いた。
「母さんはマルセラ。今の二度は、客に水を出せって意味」
イリナが言った。
「二度叩いただけで、客に水を出せと分かるのか」
「長く一緒にいればね」
ヴェラは椀に水を注ぎ、リュカへ差し出した。
「どうぞ」
「助かる」
「母さんが叩く前に取ったんだからね」
「見ていた」
「ならいい」
リュカは水を飲んだ。
冷たい。井戸から上げたばかりで、土の匂いが少し残っている。
アニカは炉の横から斧を取った。
「飯の前に、薪を割ってくれる?」
「飯の分は働く」
アニカは斧をリュカに渡した。
「五本でいい。太いのは残して」
「太いのも割れる」
「じゃあ、太いのも入れて七本」
「増えたな」
「余計なこと言うから」
ヴェラが小さく笑った。
マルセラの指が、椅子の肘を三度叩く。
「母さんも笑わないで」
ヴェラは炉の前に座り、革帯の巻かれた足を火へ向けた。
家の裏で薪を割る間、雨の匂いが濃くなった。
薪を割っているあいだにも、外縁の結界杭が間を置いて鳴っていた。
木が裂けた音に反応しているわけではない。もっと低いところで、山から来る震えを拾っている。
七本割って戻ると、鍋は炉から下ろされていた。
ヴェラが椀を並べる。
イリナは壁際に座り、耳の後ろに新しい布を当てている。
アニカは鍋から豆煮をよそい、最初の椀をマルセラの前に置いた。
マルセラはすぐに匙を持たない。
娘たちの椀に入った量を確かめる。
「同じだよ」
アニカが言った。
マルセラはリュカの椀を見る。
「客のも同じ」
そこでようやく、マルセラは匙を取った。
豆煮は薄かった。
だが、豆の形は残っている。根菜も煮崩れていない。塩は少なく、魚の粉で味を補っていた。
リュカが二口食べたところで、イリナが言った。
「腹の音が止まった」
「聞くな」
「聞こえる」
「結界で拾ってるのか」
「近いから聞こえただけ」
アニカが匙を止めた。
「腹の音まで結界のせいにするの?」
「人の声を結界に縛るよりましだ」
家の中が静まった。
マルセラの匙だけが、椀の縁に触れた。
アニカは自分の喉の銀板に触れた。
爪がその縁に掛かる。
「見ただけで、そこまで分かる?」
「入口の釘が三年前。母親の傷はもっと古い。おまえたち三人の印を、あの人は一人で持ってる」
イリナが布を耳に強く当てた。
ヴェラは匙を置いた。
マルセラはリュカを見たまま、椅子の肘を一度叩いた。
「今の一度は、続けろって意味」
イリナが訳した。
マルセラは首を横へ振った。
「違う?」
指がもう一度、今度は少し弱く肘を叩く。
アニカが息を吐いた。
「余計なことを言うな、だよ」
「どちらだ」
「たぶん両方」
マルセラは娘を睨んだ。
アニカは豆を口に入れ、目をそらす。
ヴェラが自分の足首に触れた。
「母さんは十九年、一人で村の声を守った」
ヴェラは、一語ずつ間を置いて話した。
最後の音だけは強くしなかった。
「三年前、私たちに分けた。耳と、声と、動く力」
「分けたのは誰だ」
「母さんと、村」
アニカが答えた。
「三人とも承知した。そこは間違えないで」
「承知すれば、人柱じゃなくなるのか」
アニカの目が鋭くなった。
「飯を食べてる客が、一番痛い言葉を選ぶね」
「痛いのか」
「腹が立つだけ」
「似てるな」
「全然違う」
イリナが二人の間に入った。
「最初の二年だけは、母さん一人の時よりましだった」
「今年はどうだ」
「聞く役じゃない時にも聞こえる」
イリナはアニカを見た。
「アニカは、誰も通していない言葉まで口にする」
次にヴェラを見る。
「ヴェラは、命令が出る前に動く」
アニカが口を挟んだ。
「さっき、ヴェラの足が勝手に動いたの、見た?」
「聞こえた」
「足音で?」
「革が伸びる音で」
ヴェラは自分の足首を見下ろした。
「母さんも、最後はそうだった?」
マルセラの匙が止まった。
アニカは喉の銀板に触れ、イリナは耳の布を押さえ直した。ヴェラは足首に置いた手を動かさなかった。
その間に、リュカは残っていた豆煮を食べきった。
空の椀を炉の脇に置く。
入口の銀釘が、一本ずつ鳴った。
イリナが耳当ての布を押さえ、西の壁へ顔を向ける。
「西の杭だけ、音が低い」
外で雷が光る。
今度は音がすぐ近くまで来た。
マルセラが椅子の肘を、強く一度叩いた。
アニカは喉の銀板を押さえて立ち上がった。
「西の杭を見てくる」
その声に引かれ、ヴェラの足首で革帯が軋んだ。
右の膝が伸びかけた。
彼女は両手で椅子の縁を掴み、立ち上がろうとする身体を止めた。
ヴェラは椅子の縁を握ったまま、アニカを見た。
「今の、誰に言ったの?」
「自分に」
「なら、私はここにいる」
「そうして」
その一言で、ヴェラの右足が床に押しつけられた。
アニカは顔をしかめた。
「ごめん。ヴェラ、母さんとここに残ってくれる?」
ヴェラの右足を床へ押しつけていた力が消えた。
ヴェラは自分で椅子へ座り直した。
「うん。私が残る」
アニカとイリナが外へ出る。
リュカも旅杖を取った。
「客は残ってな」
「西の杭を見る」
「頼んでない」
「俺が気になる」
マルセラの指が、椅子の肘を二度叩いた。
マルセラは、その指で開いた扉を示した。
リュカはその指先を追い、外へ出た。
雨の最初の一滴が、入口の銀釘に落ちた。




