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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十二話 静けさを強いられる村(1)

 結論から言う。

 村を守る結界は、よく働いていた。

 若い娘が三人、その代わりに壊れかけていることを除けば。


 山あいの村へ入る坂で、リュカは水の音を聞いた。


 雨はまだ降っていない。

 だが西の峰には、鉛色の雲が肩をかけていた。谷へ落ちる風は湿り、段々畑の豆葉を裏返している。


 水は、その風より低いところで鳴っていた。


 上から三枚目の畑で、水門の板が半分浮いている。溝を越えた水が畝の端を削り、黒い土を下の段へ落としていた。


 水門には男が二人いた。

 一人は外れかけた横木を押さえ、もう一人は足元の板へ手を伸ばしている。

 左の板を落とせば水は細る。だが二人とも、浮いた右の板ばかり見ていた。


 下の畑では、女たちが布を振っている。

 井戸端の子どもは両手を大きく回していた。

 屋根に上がっていた男は口を開きかけ、すぐ手の甲でふさいだ。


 誰も叫ばない。


 水はもう、豆の根を一本さらっていた。


 リュカは坂の途中で旅杖を止めた。


「上の二人! 右を押さえたまま、左の板を落とせ!」


 声が谷へ抜けた。


 その瞬間、村じゅうの軒先で細い紐が鳴った。

 扉の枠に打たれた銀釘が白く曇り、段々畑の外縁に立つ黒い杭から、見えないものが一本ずつ中央へ引かれていく。


 井戸脇にいた娘が、両耳を押さえて膝をついた。


 別の娘の喉が大きく動いた。


「上の二人。右を押さえたまま、左の板を落として」


 リュカの言葉が、女の声になって村へ返った。

 大きくはない。それでも水門の二人だけが、耳元で呼ばれたように顔を上げた。


 一人の腕が浮いた右の板を押さえ直し、もう一人の手が左の板へ引かれた。

 二人とも、声に腕を取られたように動いた。


 余った力は、井戸の反対側にいる三人目の娘の足輪へ落ちた。

 娘は水門ではなく、足元の石畳を見ていた。石畳を蹴って踏みとどまろうとしたが、片足は水門へ引かれ、もう片方の足首に巻かれた革帯が、井戸の根元につないだ短い鎖を張った。


 娘は倒れずに踏みとどまった。

 鎖だけが、甲高い音を立てた。


 水門の板が落ちる。


 あふれていた水が一度、土の上で大きく身をよじった。泥を巻き込み、細い筋を残しながら溝へ戻っていく。


 豆畑は二畝めで持ちこたえた。


 水門にいた男たちが息を吐く。

 下で布を振っていた女たちも肩を下ろした。


 誰もリュカを見なかった。


 皆が見ていたのは、井戸端の三人だった。


 耳を押さえた娘の指の間から、赤いものがひと筋流れている。

 リュカの言葉を返した娘は喉を押さえ、乾いた咳を二度した。

 鎖につながれた娘は、引かれた足首を両手で包んでいた。


 水門を閉めた男が、上の畑から下りてきた。

 喉を押さえた娘の前で足を止める。


「アニカ、助かった」


 アニカが顔を上げた。


「水門を閉めたのは、あんたたちだよ」


「でも、あんたが声を通してくれた」


 アニカは、鎖につながれた娘を顎で示した。


「通さなきゃ、ヴェラの足が先に抜ける」


 名を呼ばれたヴェラは、足首をさすりながら言った。


「抜けてない」


「今の音を聞いてから言いな」


「革が鳴いただけ」


「足より先に革を心配するの、やめなよ」


「足はまた生えるかもしれない」


「生えない」


 耳を押さえていた娘が、しゃがんだまま口を挟んだ。


「それと、二人とも声を落として。まだ耳の奥に旅人がいる」


 アニカがリュカを見た。


 年は二十を少し越えたくらいだろう。黒い髪を首の後ろで切り、喉には細い銀板を下げている。その銀板の縁には、爪を立てた跡がいくつも残っていた。


「あんた」


「リュカだ」


「名乗るより先に叫ぶんだね」


「水を止めるのが先だ」


「そういうところは嫌いじゃない」


 アニカは言ってから、またひとつ咳をした。

 今度は口元に当てた指に、薄く血がついた。


 リュカは井戸端へ下りた。


 耳を押さえていた娘の前にしゃがむ。


「見せろ」


「何を」


「耳」


「初対面の男に見せる場所じゃない」


「血が出てる」


「見れば分かる」


 娘はようやく手を離した。

 耳朶のすぐ後ろに、小さな銀釘が一本ずつ入っている。

 血は銀釘の傷からではなく、耳の奥から細く流れていた。

 銀釘の周りは赤く腫れ、皮膚の下で細かく脈打っている。娘が眉を寄せるたび、その脈がさらに速まった。


「イリナ」


 娘は短く名乗った。


「さっきの声、余計な言葉がなかった」


「褒めてるのか」


「村の人なら『水だ』で終わる。あんたは誰が何をするかまで一度で言った。余計な声を聞かずに済んだ」


 イリナは立ち上がろうとした。

 少しよろける。

 ヴェラが鎖の届くところまで寄り、腕を出した。


「腕、貸そうか」


「それ、命令?」


「違う。嫌ならいい」


「じゃあ、借りる」


 イリナはヴェラの腕を取った。


 アニカはその二人を確かめてから、ようやく村人たちへ顔を向けた。


「もう水は止まった。水門の二人以外は、さっきいた場所へ戻って」


 言葉は静かだった。

 今度は結界の紐も、銀釘も鳴らない。


 村人たちは散っていった。

 布を持った女は畑へ戻り、屋根の男は緩んだ縄を結び直す。井戸端の子どもだけが、リュカと三人の娘を何度も振り返った。


 畑へ戻った女も、屋根の男も、声を張らなかった。


「あんた、今夜どこへ行く」


 アニカが聞いた。


「峠の向こう」


「その雲を見て?」


 西の峰で、遠く雷が光った。

 音はまだ来ない。


「行けなくはない」


「それは、死にに行くって言うんだよ」


 アニカは喉の銀板を服の内側に戻した。


「うちへ来な。薪を割れば飯を出す。炉の脇でよければ一晩寝られる」


「いいのか」


「よくない。けど、さっきの声の借りがある」


「借りなら、飯だけでいい」


「泊まらずに出て、明日の朝、崖下から声だけ戻ってきたら迷惑だ」


 イリナが耳の血を布で拭いながら言った。


「その声、たぶんまたアニカの口から出る」


「それは嫌だね」


 アニカは即答した。


 ヴェラは足首の革帯を外さず、井戸の根元から鎖だけを外した。輪にして肩に掛ける。


「荷物、持とうか」


「自分で持てる」


「じゃあ、いい」


「それより、自分の足を先に見ろ」


 ヴェラは足首の革帯を見下ろし、それから笑った。


「自分の足を先に見ろって、これで三人目」


 イリナだけが、遠い雷鳴より先に村の外縁を見た。


 雷鳴が、ようやく谷へ届いた。


 村の外縁に立つ七本の結界杭が、順に低く鳴った。


 アニカは喉に手を当てる。

 ヴェラの右足が、誰にも呼ばれていないのに半歩前へ出た。


 三人は互いを見た。


 今の半歩を、村人は誰も見ていなかった。

 リュカだけが見ていた。


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