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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十一話 亡霊の正論が棲む家(9)

   *


 姉の家から、女がこちらへ歩いてきた。


 煤と煙でできた女だった。

 顔はない。

 雨は輪郭を抜けず、頭から肩へ流れ落ちている。

 足元は、扉の隙間から伸びた煤の筋につながっていた。


 リュカは、リディアの家と女の間に立っていた。

 女はリュカの三歩前で止まった。


 ヘルダの魂ではなかった。

 何年も言い残された正しさが、姉の姿を借りている。


 女が顔のない頭を上げた。

 リュカではなく、その背後にあるリディアの家へ頭を向ける。

 細い腕が、リュカの肩越しに伸びた。


「その子には、まだ早い」


 声は、閉ざされた家の奥から響いた。


 リュカは伸びてきた腕を左手でつかんだ。

 煙が指の間から漏れても、女は腕を引かない。

 リュカの右手の袖口から、細い銀の糸が出た。

 右手の銀糸を、女の肩へ通す。


 一針目で、家の奥の声が途切れた。

 二針目で、伸びていた腕が胸元へ折れる。

 三針目で、女の背と姉の家の扉が、一本の銀糸で縫い留められた。


 女がリュカへ踏み込んだ。

 顔のない頭が、リュカの額へ触れそうになる。

 閉ざされた家の奥で、冷えた竈が咳き込んだ。

 扉が激しく震え、軒から雨粒がまとめて落ちる。


 リュカは退かなかった。

 銀糸を引いた。

 縫い目が縮み、女の肩と頭が煙に崩れる。

 雨にも風にも曲がらなかった黒い体が、扉へ引き寄せられていく。

 胸元へ折れた腕もほどけ、煤の筋へ戻った。


 銀糸の光が、濡れた木目の奥へ沈む。

 扉の表には、糸は残らない。

 扉の隙間には、内側へ折れたような黒い筋だけが残った。


   *


 リュカが戻るまで、リディアは家の中でエミルの前にいた。


 外で何が起きているか、気にならないわけではない。

 けれど、そのたびにエミルの椀を見た。

 湯気がある。

 消えていない。


 リュカは扉を閉めた。


「ここから先は、あんたの火だ」


 リディアは、エミルの椀を見たままうなずいた。


 それでも、エミルはすぐには笑わなかった。


 笑えるほど、簡単な夜ではなかった。

 何年もかけて覚えた待ち方は、火が戻っただけではほどけない。


 けれど、エミルはもう一度匙を動かした。

 湯気の熱さに手を止め、それでも口元へ運んだ。

 リディアは、そこでやっと肩から力を抜いた。


「その粥、熱い?」


「うん、熱いよ」


 その答えを聞いた時、リディアの目が少し赤くなった。


「熱いなら、少し吹きな」


 エミルは椀へ息を吹いた。

 湯気が揺れる。


 その揺れを見て、リディアは初めて、自分の家の湯気がこんな形をしていたのだと思った。


 姉の家の扉には、煤の筋が雨に濡れて黒く残っている。

 だが、もうリディアの口は勝手に動かない。

 言葉が上がってきても、選べる。

 飲むことも、言い直すこともできる。


  *


 翌朝、雨は上がっていた。


 空はまだ低い。

 けれど、昨夜のような重さはない。


 ヘルダの家から煙は上がらなかった。


 通りの先には、雨上がりの空が見えた。

 リディアはしばらく、その方角を見ていた。

 姉の家へは向かわなかった。


 それから、自分の竈へ向き直った。


 竈に火を入れる。

 鍋をかける。

 粥に湯気が立つ。


 エミルは寝台の端に座っていた。

 まだ少し眠そうだった。


 リディアは椀を取った。

 エミルの前へ置く。


 湯気が上がる。


 リディアは椀を持った手を離さなかった。

 エミルの前から遠ざけなかった。

 ただ、湯気の向こうにいる息子を見た。


 エミルも湯気を見ていた。


 エミルは、いつものように手を膝に置いた。


 リディアは言った。


「今、食べる?」


 エミルは顔を上げる。


「熱かったら?」


 リディアは答えた。


「吹けばいい」


 エミルは椀を見た。

 匙を持った。

 粥をすくい、口元へ運ぶ前に、ふう、と吹いた。


 湯気が揺れた。


 一口食べる。

 熱そうに眉を寄せる。


 椀の中身が、少し減った。


 リディアはその小さな減り方から目を離せなかった。


 食べたことが、食べたこととして残っている。


 それから、エミルは自分でもう一度吹いた。

 リディアは、それを見ていた。


 その日の朝食は、長かった。


 エミルは熱さを確かめる。

 吹く。

 少し食べる。

 また吹く。


 リディアは、そのたびに何か言いたくなる。

 早く食べなさい。

 こぼすよ。

 もう冷めたでしょう。


 リディアは、代わりに自分の椀を持った。

 掌には、まだ椀の熱が残っていた。

 自分も粥を吹いた。


 エミルが、それを見て少し笑った。


「母さんも熱いの?」


「母さんも熱いよ」


「母さんも吹くの?」


「母さんも吹く」


「大人でも吹くの?」


「大人でも吹く」


 エミルは、その答えを聞いて、少し肩の力を抜いた。


 リディアは、エミルの顔の前で揺れる湯気を見ていた。


 リュカは、扉の前で外套を留めた。


「もう行くの」


 エミルが聞いた。


「ああ」


「昨日の粥、熱かった?」


「少し熱かった」


「リュカも吹いた?」


「ちゃんと吹いたよ」


 エミルは小さく笑った。


「もう少し食べてもいい?」


「いいよ」


 リディアは、鍋へもう一度匙を入れた。

 エミルの椀へ、少しだけ足した。


 エミルは椀を持った。

 今度は、すぐに吹いた。


 湯気が、朝の光の中でほどけた。


 リュカが出ていく前、リディアは一度だけ姉の家の方へ歩いた。


 扉の煤の筋は、昨夜のまま内側へ折れている。

 姉の家は静かだった。


 リディアは、扉の前の石を見た。

 濡れた布は出さず、扉の前へ落ちていた小枝を一本だけ脇へ寄せた。


「煤は拭かないのか」


 リュカが聞いた。


「全部きれいにすると、また姉さんの言いつけ通りに動くことになる」


 リディアは言った。


「でも、荒れたままにはしない」


 家へ戻ると、エミルが扉の前で待っていた。

 エミルは、リディアが戻るとすぐ顔を上げた。


「伯母さんの家?」


「うん、伯母さんの家」


「煙、出てなかった?」


「出てなかった」


 エミルはうなずいた。


「じゃあ、うちの粥、あとにしなくていいね」


「冷めたら、温め直す」


「温め直していいの?」


「温め直していい」


 リディアは、鍋の中身を見た。

 少し残っている。

 いつもなら、昼へ回す分だ。


 ヘルダなら、残しておきなと言っただろう。

 足りなくなったら困る。

 子どもの胃に急に入れるのはよくない。

 明日のために、今日を少し削るのは賢いことだ。


 リディアは、その言葉を選ばなかった。


「もう少し食べる?」


 エミルは、鍋と自分の椀を見比べた。


「少しだけ食べる」


 リディアは、それから匙ですくった。

 エミルの椀へ入れる。


「欲しい時は、言っていい」


 エミルは椀を両手で持った。


「じゃあ、明日」


 リディアは待った。

 急かさなかった。


「読み書きの板、見に行ってもいい?」


 リディアは、「まだ早い」と言いかけた。

 そこで、少しだけ息を置いてから言った。


「一緒に見に行こう。やるかどうかは、見てから決めよう」


 エミルは小さくうなずいた。


 扉を閉める前、リディアは一度だけ言いかけた。


「冷めないうちに――」


 そこで止まり、言い直す。


「熱かったら、また吹きな」


 エミルは椀を持ったまま、うなずいた。

 湯気が、まだ消えずに残っていた。


 その湯気を見てから、リュカは町を出た。


 煙は、二本だけ上がっていた。

 どちらも、人のいる家の煙だった。


 姉の家の屋根は静かだ。


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