第十一話 亡霊の正論が棲む家(8)
町のあちこちで火が落ちた。
濡れた薪は白い煙ばかり出して、芯まで燃えない。
風が軒を叩き、扉の脇に吊った縄を鳴らした。
リディアの家でも、火は細かった。
竈の奥に、赤い火種が一つだけ残っている。
リディアはそれを見ていた。
エミルの粥は冷えている。
温め直すなら、この火種を使うしかない。
その時、外から煙の匂いがした。
ヘルダの家だ。
雨の中、誰もいない家から煙が上がる。
今までで一番濃い煙だった。
濡れた空へ、まっすぐ伸びている。
リディアの口が動きかけた。
その子は。
待てる子だから。
あとでも。
リディアは口を押さえた。
掌の下で、唇がまだ姉の言葉の形を作ろうとしている。
自分の口なのに、止めなければ他人の言葉が出る。
それが、煙よりも怖かった。
エミルの両手は、冷えた椀から離れなかった。
指は縁にかかったまま動かない。
匙へは伸びない。
温めてとは言わない。
リディアの手が火皿へ伸びかけ、宙で止まる。
ヘルダの家がエミルを冷やしているのではない。
自分が、ヘルダの言葉でエミルを冷やしていた。
リディアは火皿を持ち、竈の奥の火種をその上へ移した。
いつものように、姉の家へ向かおうとした。
一歩。
そこで止まった。
「今日は違うんだ」
小さな声だった。
でも、自分の声だった。
雨の音が強くなる。
「待てる子にしたんじゃない」
エミルが顔を上げた。
「待たせてもいい子にしたんだ」
リディアは姉の家へ行かなかった。
火皿を自分の竈へ戻した。
灰をかき、赤い火種を置く。
息を吹く。
湿った薪を避け、扉の脇に残しておいた乾いた細枝を差し込む。
細枝が、ちり、と鳴った。
その夜、リディアが竈に息を吹き込む間、エミルはずっと見ていた。
火はすぐには立たない。
雨の湿り気が家の中まで入り、細枝の表面を重くしている。
リディアは焦りかけた。
焦ると、口がまた姉の言葉を探す。
ほら、無理だ。
この子に待たせるしかない。
できないことをさせるのは、親の欲だ。
リディアは奥歯を噛みしめた。
その言葉が出る前に、息を吹く。
ちり、と細枝が鳴る。
火はまだ弱い。
エミルが、そっと言った。
「もう一本、細いのある」
リディアは顔を上げた。
エミルは竈の脇を指した。
昼に自分で折った小枝だ。
少し曲がっている。
でも乾いている。
エミルが聞いた。
「使っていい?」
リディアは、今度はすぐに答えた。
「その枝を使う」
リディアはそれを取った。
エミルの目が動いた。
使っていい、ではなく、使う。
自分の折った枝が、今この火に必要だと言われた。
リディアはその枝を火種の上へ置いた。
枝は、今度こそ赤くなった。
細い火が立つ。
エミルは、自分の折った枝が火に食われるところを見た。
リディアは、火へ入った枝を見た。
「助かったよ」
エミルは、火へ入った枝を見ていた。
耳だけが少し赤くなった。
もう一度、息を吹く。
火が立つ。
リディアはエミルから椀を受け取り、中の粥を鍋へ戻した。
鍋をかける。
冷えた粥が、ゆっくり温まる。
鍋肌で小さく音がした。
エミルは竈のそばに立ったまま、鍋を見ている。
リディアは言った。
「そこに座ってて」
エミルは座った。
リディアは粥をよそう。
湯気が立つ。
消えない。
エミルの前へ置く。
今度は、少し近くへ。
エミルは匙を取り、粥へ入れた。
だが、口へ運ぶ前に、リディアの顔を見た。
いつもの言葉が、また口へ上がってきた。
まだ早い。
リディアは、そこで止めた。
エミルが先に言った。
「僕、今がいい」
その声は、雨の音より小さかった。
けれど、リディアには聞こえた。
リディアの口が、勝手に形を作る。
この子は、あとで――
言い切れば、きっと楽になる。
周りもそう聞く。
エミルの「今」は、また「あとで」に戻る。
リディアは舌を噛むほど強く、口を閉じた。
それから顔を上げた。
「それは違う」
声は低かった。
だが、今度は自分の口の中だけに向けた言葉ではなかった。
「この子は、今って言った」
エミルが息を止めた。
リュカが、ほんのわずかに目を動かした。
雨の音に紛れるほど小さい動きだった。
エミルも、椀から目を離さなかった。
リディアも、竈の前で手を握った。
「私を守るために、この子の今を消さないでくれ」
言ってから、リディアはその言葉が誰へ向いたのか分からなかった。
ヘルダへか。
自分へか。
それとも、心配そうな顔で、エミルの言葉を待たずによかれと先回りする町の手つきへか。
答えを一つに決める余裕はなかった。
椀の表面に、さっき匙を入れた細い筋が残っている。
ほんの小さな跡だった。
だが、今度は消えなかった。
リディアは、それを見てから、椀をエミルの方へ少し押した。
「今でいい」
エミルは椀を見た。
それから、リディアを見た。
「熱かったら?」
リディアは息を吸った。
姉の言葉は、もう出さなかった。
「熱いって言っていい」
エミルは、粥に入れたままの匙を動かした。
一度すくい、湯気の熱さに手を止めた。
それから、もう一度口元へ運んだ。
その間にも、リディアは何度も失敗しかけた。
ほら、まだ早い。
少し待たせな。
無理しなくていい。
どれも優しく聞こえる。
だが、その優しさで何度もエミルの手を止めてきた。
リディアは、唇を噛んだ。
血の味がした。
「粥は、まだ熱い?」
その一言だけを出す。
エミルは小さくうなずく。
「まだ熱いよ」
「熱いなら、何度でも言っていい」
リディアは、そう返した。
エミルは椀を見た。
匙を見た。
もう一度、小さく言った。
「まだ熱いよ」
リディアの家の扉が、外から一度だけ強く鳴った。
まるで誰かが叱るような音だった。
リディアの背中が震える。
振り返りそうになる。
エミルが言った。
「母さん、あのね」
リディアは振り返らず、エミルを見る。
「まだ熱いよ」
リディアは笑いそうになって、泣きそうになった。
「もう一回、吹こう」
「うん、もう一回吹く」
二人で椀を見る。
エミルが吹く。
リディアは待つ。
扉の外で、濡れた煙の匂いが急に濃くなった。
姉の家から来た煙が、雨の通りを曲がってこちらへ伸びていた。
リュカが立った。
リディアは振り返らなかった。
エミルの前に立っていた。
それで、煙は二人へ届かなかった。
行き場を失った煙が、雨の通りで持ち上がる。
頭ができる。
肩ができる。
細い腕が、リディアの家へ伸びかける。
顔のない女の形だった。
リュカは扉を開け、一歩、雨の通りへ出た。
女の形をした煙は伸びかけた腕を引き、姉の家へ滑るように戻っていった。




