↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
PR
84/128

第十一話 亡霊の正論が棲む家(7)

   *


 施療院から戻った夜、リディアはエミルの包みをほどいた。


 着替えを棚へ戻す。

 木匙を洗う。

 包み布を干す。


 どれも簡単なことだった。

 それなのに、手が遅れた。


 だが、リディアの中では、まだ姉の言葉が残っている。

 この子のため。

 家で抱え込むな。

 慣れた人に任せろ。


 エミルは寝台の端に座って、ほどかれていく包みを見ていた。


「また使うの?」


 リディアは手を止めた。


「もう使わない」


 声は弱かったが、リュカまで届いた。


 エミルは、少しだけ息を吐いた。

 橋を渡った時の息に似ていた。


 リディアは木匙を棚へ戻した。

 棚の端ではなく、エミルの椀の横へ置く。


「ここでいい?」


 エミルが聞くと、リディアは棚を見た。


「そこなら手が届く?」


 エミルは棚を見た。

 少し背伸びすれば届く場所だ。


「そこなら届くよ」


「じゃあ、そこ」


 木匙の置き場が決まった。

 たったそれだけで、家の中にエミルの場所が一つ増えた。


 そのあと、リディアはしばらく扉の脇の石に腰を下ろしていた。


 雨が落ちるのを見ているだけだった。

 エミルは中で棚の前にいる。

 着替えを畳み直すたび、布がかすかに擦れる。

 木匙をそっと置く音もする。


 その一つ一つが、リディアの耳に入る。


 家の中には、ずっとこういう音があった。

 リディアは、姉の家の煙ばかり見ていた。


 リュカは扉の脇の柱に背を預けていた。


「ミラが言ったこと、腑に落ちたか」


 リディアは首を振った。


「落ちてない」


「なら、今はいい」


「落ちてない方がいいの?」


「今すぐ分かったつもりになるよりはいい」


 リディアは雨を見た。


「私は、あの子のためって言えば、楽だった」


 リュカは雨を見たまま、次の言葉を待った。


「姉さんの言葉を借りてたつもりだった。でも、使っていたのは私だね」


「そうだな。借りただけじゃない」


 リディアは、膝の上で手を握った。


「今から戻せるかな」


「全部は無理だ」


 リュカは言った。


「でも、次の椀はエミルの前へ置ける」


 リディアは、家の中を見た。

 エミルが畳み直した着替えを棚へ戻している。

 小さな手で、重ねた着替えの端をそろえている。


 そのあと、リディアは家の中の物を少しだけ動かした。


 エミルの椀を、いつもの棚の端から、真ん中へ置く。

 木匙も一緒に置く。

 リディアの指は、椀の縁からなかなか離れなかった。


 エミルはその様子を見ていた。


「そこ、母さんの場所じゃないの」


「今日は、エミルの椀を置く」


「真ん中に置いていいの?」


「置いていいよ」


 リュカは扉のそばで、リディアから借りた布を濡れた靴へ当てていた。

 拭く手を止めず、エミルの椀が棚の真ん中に移るのを見ていた。


 リディアは一度、その椀を端へ戻しかけた。

 いつもの場所。

 誰にも何も言われない場所。

 エミルが欲しがらなければ、母も間違えずに済む場所。


 指先が椀の縁を押したところで、エミルの目が動いた。


 リディアは椀から手を離した。

 端へ戻すのではなく、真ん中に置いたまま、手だけを引いた。


 夜が深まるにつれ、雨はまた強くなった。

 家の中の火は細い。

 細いが、まだある。


 リディアは、何度も姉の家の方を見そうになった。

 そのたびに、棚の真ん中の椀を見た。


 リディアは一度、鍋の蓋を開けた。


 粥は冷えかけている。

 今なら、まだ戻せる。

 火種を使えば、エミルの椀へ湯気を戻せる。


 けれど、姉の家を見ないでいると、リディアは何度も扉へ顔を向けかけた。

 見ていないのに、姉の家の扉の前に残った黒い煤が目の奥へ浮かぶ。

 昼の煙。

 自分の口から出た、姉の言い方。

 エミルが匙を置いた音。


 リディアは、エミルに言う言葉を小さく練習した。


 熱かったら、言いな。

 熱いなら、少し待とう。

 熱いなら――


 そこで、いつもの言葉が混じる。


 もう少し待たせな。


 声に出していないのに、エミルの肩がほんの少し下がった。

 エミルの目は、声になる前からリディアの口元にあった。


 リディアは鍋の蓋を閉めた。

 手が震えていた。


 言葉一つを変えるだけなのに、竈を一つ作り直すより難しい。

 姉の言葉は、もう外から来る声ではなかった。

 自分の舌に、長く染みついていた。


 エミルは寝台の端で、母の口元を見ていた。

 その視線を受けて、リディアは初めて思った。


 この子は、私が言い直すのを待っているのではないか。

 冷めるのを待っているのではなく、私の言葉が変わるのを待っているのではないか。


 けれど、言葉を変えた先でエミルがつまずいたら。

 熱い粥でむせたら。

 外へ出て笑われたら。

 字を書いて、遅いと言われたら。


 その時、自分は耐えられるのか。


 ヘルダの言葉は、そこでいつも手を差し出してきた。

 見なくていい。

 決めなくていい。

 この子にはまだ早いと言えば、今日の傷は先へ送れる。


 リディアは、その手を何度も取ってきた。


 そして今夜も、その手は雨の向こうから差し出されていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。