第十一話 亡霊の正論が棲む家(7)
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施療院から戻った夜、リディアはエミルの包みをほどいた。
着替えを棚へ戻す。
木匙を洗う。
包み布を干す。
どれも簡単なことだった。
それなのに、手が遅れた。
だが、リディアの中では、まだ姉の言葉が残っている。
この子のため。
家で抱え込むな。
慣れた人に任せろ。
エミルは寝台の端に座って、ほどかれていく包みを見ていた。
「また使うの?」
リディアは手を止めた。
「もう使わない」
声は弱かったが、リュカまで届いた。
エミルは、少しだけ息を吐いた。
橋を渡った時の息に似ていた。
リディアは木匙を棚へ戻した。
棚の端ではなく、エミルの椀の横へ置く。
「ここでいい?」
エミルが聞くと、リディアは棚を見た。
「そこなら手が届く?」
エミルは棚を見た。
少し背伸びすれば届く場所だ。
「そこなら届くよ」
「じゃあ、そこ」
木匙の置き場が決まった。
たったそれだけで、家の中にエミルの場所が一つ増えた。
そのあと、リディアはしばらく扉の脇の石に腰を下ろしていた。
雨が落ちるのを見ているだけだった。
エミルは中で棚の前にいる。
着替えを畳み直すたび、布がかすかに擦れる。
木匙をそっと置く音もする。
その一つ一つが、リディアの耳に入る。
家の中には、ずっとこういう音があった。
リディアは、姉の家の煙ばかり見ていた。
リュカは扉の脇の柱に背を預けていた。
「ミラが言ったこと、腑に落ちたか」
リディアは首を振った。
「落ちてない」
「なら、今はいい」
「落ちてない方がいいの?」
「今すぐ分かったつもりになるよりはいい」
リディアは雨を見た。
「私は、あの子のためって言えば、楽だった」
リュカは雨を見たまま、次の言葉を待った。
「姉さんの言葉を借りてたつもりだった。でも、使っていたのは私だね」
「そうだな。借りただけじゃない」
リディアは、膝の上で手を握った。
「今から戻せるかな」
「全部は無理だ」
リュカは言った。
「でも、次の椀はエミルの前へ置ける」
リディアは、家の中を見た。
エミルが畳み直した着替えを棚へ戻している。
小さな手で、重ねた着替えの端をそろえている。
そのあと、リディアは家の中の物を少しだけ動かした。
エミルの椀を、いつもの棚の端から、真ん中へ置く。
木匙も一緒に置く。
リディアの指は、椀の縁からなかなか離れなかった。
エミルはその様子を見ていた。
「そこ、母さんの場所じゃないの」
「今日は、エミルの椀を置く」
「真ん中に置いていいの?」
「置いていいよ」
リュカは扉のそばで、リディアから借りた布を濡れた靴へ当てていた。
拭く手を止めず、エミルの椀が棚の真ん中に移るのを見ていた。
リディアは一度、その椀を端へ戻しかけた。
いつもの場所。
誰にも何も言われない場所。
エミルが欲しがらなければ、母も間違えずに済む場所。
指先が椀の縁を押したところで、エミルの目が動いた。
リディアは椀から手を離した。
端へ戻すのではなく、真ん中に置いたまま、手だけを引いた。
夜が深まるにつれ、雨はまた強くなった。
家の中の火は細い。
細いが、まだある。
リディアは、何度も姉の家の方を見そうになった。
そのたびに、棚の真ん中の椀を見た。
リディアは一度、鍋の蓋を開けた。
粥は冷えかけている。
今なら、まだ戻せる。
火種を使えば、エミルの椀へ湯気を戻せる。
けれど、姉の家を見ないでいると、リディアは何度も扉へ顔を向けかけた。
見ていないのに、姉の家の扉の前に残った黒い煤が目の奥へ浮かぶ。
昼の煙。
自分の口から出た、姉の言い方。
エミルが匙を置いた音。
リディアは、エミルに言う言葉を小さく練習した。
熱かったら、言いな。
熱いなら、少し待とう。
熱いなら――
そこで、いつもの言葉が混じる。
もう少し待たせな。
声に出していないのに、エミルの肩がほんの少し下がった。
エミルの目は、声になる前からリディアの口元にあった。
リディアは鍋の蓋を閉めた。
手が震えていた。
言葉一つを変えるだけなのに、竈を一つ作り直すより難しい。
姉の言葉は、もう外から来る声ではなかった。
自分の舌に、長く染みついていた。
エミルは寝台の端で、母の口元を見ていた。
その視線を受けて、リディアは初めて思った。
この子は、私が言い直すのを待っているのではないか。
冷めるのを待っているのではなく、私の言葉が変わるのを待っているのではないか。
けれど、言葉を変えた先でエミルがつまずいたら。
熱い粥でむせたら。
外へ出て笑われたら。
字を書いて、遅いと言われたら。
その時、自分は耐えられるのか。
ヘルダの言葉は、そこでいつも手を差し出してきた。
見なくていい。
決めなくていい。
この子にはまだ早いと言えば、今日の傷は先へ送れる。
リディアは、その手を何度も取ってきた。
そして今夜も、その手は雨の向こうから差し出されていた。




